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兵は拙速なるを聞くも、いまだ巧久なるを睹ざるなり(『孫子』)
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「戦国人物紹介」

龍造寺氏
 一時は九州を三分するが
 
老将の復讐
竜造寺氏とも書く。略せば龍家である。出自ははっきりとしない。藤原秀郷流とも藤原姓高木氏の後裔ともいう。明応年間(1492-1501)、康家は本家を子の家和に譲り、別館を子の家兼に譲った。前者を村中龍造寺、後者を水ヶ江龍造寺と称した。家兼は少弐氏に仕え、勢福寺城を守り、大内氏の攻撃を退けている。大内義隆が再び攻め込むと、少弐資元は家兼の進言を受け入れて義隆と和睦したが、のちに義隆は約を違えて資元の所領を没収、資元は大内家の武将である陶興房(晴賢の父)に攻められて自害に追い込まれた。1544年、少弐氏の家臣は家兼が大内氏に通じたと非難、重臣馬場頼周は龍造寺一族を欺いて家兼を筑後に追放し、残る龍造寺一族の多くを殺害した。1546年、家兼は佐賀に復帰し、頼周を討って龍造寺氏を再興した。同年、家兼は九十三歳で死去するが、曾孫の胤信を還俗させ水ヶ江家の後継ぎとした。これが後の龍造寺隆信である。
 
肥前の熊
隆信は肥前で順調に勢力を伸ばすが、1570年、大友宗麟の大軍に攻められ、佐賀城を囲まれる。しかし、重臣鍋島直茂らに今山を攻めさせ(今山の戦い)、大友親貞(宗麟の甥)を討ち取って包囲網を破り、大友氏との和解に持ち込んだ。大村氏や有馬氏を服属させて、1578年には肥前を統一。さらに耳川の戦いで島津軍に敗北した大友氏の所領に侵攻した。しかし、島津氏に通じた有馬氏を討つべく、沖田畷で島津・有馬連合軍と戦ったが、戦死してしまう(1584年)
 
隆信の死後は子の政家が跡を継ぐが、実権は執政として鍋島直茂が握った。秀吉からも龍造寺家の家督代行者として認められ、朝鮮出兵でも直茂が龍造寺家の家臣団を率いて出陣した。関ヶ原の戦いで、直茂は西軍に属したが、戦後、黒田長政を通じて謝罪して赦された。1607年、政家の子高房と政家が相次いで死去したため、龍造寺氏の正統は絶えたこととされ、所領は直茂の子勝茂が継ぎ、ここに鍋島氏の佐賀藩三十五万七千石が成立する。ちなみに、佐賀藩の化け猫騒動の怪談はこの龍造寺氏と鍋島氏の対立が背景となっている。正統は絶えたが、庶流は佐賀藩の重臣として鍋島氏に仕えた。
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「戦国人物紹介」

あの人のご先祖様
 
045 蒲池鑑盛 【かまちあきもり】 1519-78
 
「信長の野望・覇王伝」 政治71 戦闘67 智謀38 采配75 野望16
 
前回、龍造寺家兼を書くと言いながら、地方B級武将を取り上げるのは、子孫が再々婚したからである、と言いたいところだが、順番が逆であった。先に書いていたところ、松田聖子(蒲池法子)のニュースが入ってきたのだった。ともかく、どこからでも自在にネタを繰り出せるのが書いていて楽しいところである。
 
蒲池氏というと宇都宮氏の流れを組む筑後の武将である。いままで九州の戦国史を書いてきて旧国名と現在の都道府県名の関係は触れてこなかったが、筑後国はいまの福岡県南部であり、有明海に面した地域である。豊後(大分県)を中心としていた大友氏の勢力であるが、こんなところまで伸びていたのである。蒲池氏の歴代の名を見ても、大友氏の影響がうかがえる。鑑盛の父は鑑久だが、いずれも大友義鑑からの一字拝領だろう。
 
筑後では大身の大名と言っていい存在であったが、鑑盛は大友氏に従って耳川の戦いで戦死する。一方で、龍造寺家兼や隆信を庇護するなど義心に篤い武将として知られる。この人がいなければ龍造寺氏の後の興隆もなかったであろう。蒲池氏は耳川の戦い以降、龍造寺氏に属すが、のち隆信に攻められていったん滅亡する。二代に渡って大恩を被りながら、自らの野心のためには滅ぼすことも躊躇ないあたりは龍造寺隆信の残忍なところである。庶流が生き残って家名を伝えた。
「戦国人物紹介」

「老将フェチ」「じじいフェチ」の話はかつてしましたが。

http://naraku.or-hell.com/Entry/161/

今回もその話。儒教文化圏でなくても、老いた人は経験において優れるということで、その判断には耳を傾けるべきところがあるとされます。「三国志」の呉でも、赤壁の戦いでは降伏論を唱えた張昭が、その後も長く孫権に重用された(重用せざるを得なかった)のは、一つに長く生きたことにあります。

一方で老害という部分もたしかにありまして、同じく長く生きた孫権は後継者の選択を誤って陸遜を死に追いやることになります。

大友氏の三老
さて、日本の戦国時代の話。豊後の三老と言うと、おもに軍事面のことで、立花道雪を含めて、臼杵鑑速、吉弘鑑理の三人を指します。政治では以下の三人とされます。三人とも「戦国IXA」に登場するので、武将カードの画像付きで紹介します。生没年が伝わらないのが多いのは大名としての大友氏が滅んだためでしょうか。
 
臼杵鑑速 【うすきあきはや】 1538-74(75)
 
鑑景、四郎左衛門尉、越中守。
臼杵長景の子。鑑続の弟で兄と同じく大友義鑑・義鎮の加判衆を務め、外交を担当。上洛して足利義晴に謁見し、1559年、宗麟の守護就任の御礼にも上洛して義輝に謁見している。一方で、豊前・筑前、さらには肥後に進出して戦功を立てている。特に筑前では毛利氏、秋月氏、立花氏などと戦っている。宗麟が耳川で敗戦すると、立花道雪は宗麟に「吉岡宗歓(長増)、臼杵鑑速の死後、大友の政治は無道でしかない」と書簡を送っている。系図には「あきすみ」ともあるが、「や」で終わる名前は珍しく、クイズを作ったり、人名でしりとりをやったりするときには役に立つだろう。
 


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文武両道の良将というにはスケールも知名度もまだ不足しているか。
 
吉岡長増 【よしおかながます】 ?-1573
 
左衛門尉、左衛門大夫、越前守、越前入道、宗歓。
鑑興の子。大友義鑑の時代から三老として、大友氏最盛期に重きをなした。義鑑・義鎮(宗麟)の代に四十年余に渡って加判衆を務めた。毛利氏との戦いで、大内氏の一族輝弘を周防に入らせて毛利氏の後方を攪乱させたのは長増の献策と言われる。
 


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この献策で名を残したと言っていい。
 
吉弘鑑理 【よしひろあきまさ】 ?-1571?
 
太郎、鑑直、左近大夫、伊予守。
氏直の子。大友宗麟の加判衆。大友氏全盛期の宗麟を補佐。1534年、勢場ヶ原の戦いで大内氏と戦う。1556年には小原鑑元の謀叛を討つ。毛利氏との戦いでは立花氏、高橋氏、原田氏などと戦う。二男孫七郎は高橋鑑種追放後の高橋氏を継ぎ、鎮種と名乗る。のちの高橋紹運(紹雲)である。
 


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古くから息の長い活躍を見せる。

ということで、次回は龍造寺家兼を書きたい。
「戦国人物紹介」

衰勢の大友家を一人支えた勇将
 
攻城戦で攻撃側が優勢で落城必至の場合は、攻撃側の勧告により守備側が開城を受け入れることが普通である。守備側が最後まで徹底抗戦した場合、攻撃側の被害も甚大になるからである。「忠臣は二君に仕えず(事えず)」といった武士道的な精神が広まったのは江戸時代になってからだが(この言葉自体の原典は「史記」)、戦国大名自身や一族であればともかく、家臣が主君のために自分の命をかけて最後まで戦うということはまれである。
 
044 高橋紹運 【たかはししょううん】 1548-86
 
あるいは書きを「紹雲」、読みを「じょううん」とも。大友義鑑の家臣である吉弘鑑理の二男で初名は吉弘鎮理。孫七郎、主膳入道。のちに高橋氏の名跡を継いで高橋鎮種と称する。室は斎藤鎮実の妹。立花宗茂、立花直次(高橋統増)の実父。
 
1567年、大友氏の一族で家臣である高橋鑑種が毛利氏に通じて謀反を起こし、筑前などの国人も反乱を起こすと、父とともに鎮定に努めた。鑑種が追放されると、宗麟の命で高橋氏の名跡を継ぎ(吉弘氏も大友氏の一族である)、高橋鎮種(紹運)と名乗り、宗麟から岩屋・宝満の二城を与えられる。
 
1581年、男子のいない立花道雪から嫡男統虎を養子にと請われる。紹運は、統虎は大事な跡取りであるからとして拒絶したが、道雪からの度重なる懇請に受け入れた。
 
1585年に道雪が死去すると、大友氏の命運は紹運一人の双肩にかかることになった。道雪の死を好機と見た反大友勢力の攻勢が強まり、中でも、筑紫広門は紹運が筑後に遠征した隙を突いて宝満城を奪った。紹運は反転して宝満城を攻めると、広門と和睦し、広門の娘を二男高橋統増(立花直次)の妻に迎えた。
 
1586年、島津氏が五万と称する大軍を率いて北上を開始する。紹運は岩屋城で迎え撃つことになったが、城兵はわずか763名。島津軍の攻撃が始まると、半月ほど戦いが続いたが全員が討ち死にし、岩屋城は陥落した。紹運は「屍をば岩屋の苔に埋めてぞ雲井の空に名をとどむべき」の辞世の句を城の扉に書きつけると、高櫓に上って腹を切ったという。島津軍は三千名と言われる死者を出し、態勢の立て直しに時間がかかった。島津軍はさらに進んで立花城の立花宗茂を囲むが、秀吉軍の九州上陸が始まったため、撤退を余儀なくされた。紹運は己を犠牲にして宗茂を、そして大友氏を救ったのである。
 
醜女(しこめ)を娶る
紹運が若いころの話だが、大友氏の重臣であった斎藤鎮実の妹(一説に娘)を娶ることを約束していた。しかし、戦が続いて、婚儀が遅れてしまっていた。紹運は鎮実に会うと、そのことを詫びたが、逆に鎮実は、妹が疱瘡にかかって二目と見られない醜女となってしまったから、と婚約の話を断ってきた。これを聞いた紹運は「自分は容姿に惚れて婚約を決めたわけではありません、斎藤家は武門の家であればこそ自分の妻にと望んだのです」と、それから間もなくして妻に迎えた。この妻との間にもうけたのがのちの立花宗茂である。吉川元春でも似たような話を書いた。
 
父子の別離
紹運は宗茂をかわいがったが、立花道雪から養子に望まれ、ついに断り切れずに立花家に送り出した時のことである。紹運は宗茂にこう言った。「今日を限り、自分を親と思うな。明日には道雪殿と敵味方になるかもしれぬ。その時、そなたは立花家の先鋒となって、かならずや自分を討ち取れ」と一振りの刀を宗茂に与えたという。この話は諸書によって幾分色合いが異なる。



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「玉砕」という言葉は戦中美化されて使われたが、この人の死はそれ以前の玉砕そのものである。

「戦国人物紹介」

043 立花道雪 【たちばなどうせつ】
 1513-85 (後編)
 
勇将の下(もと)に弱卒なし
武勇に優れた将軍の下に弱い兵士はいない、という意味だが、蘇軾の「題連公壁」に見える言葉である。蘇軾(蘇東坡)は北宋の詩人で「赤壁賦」で知られる。「三国志」の赤壁の戦いの「赤壁」である。さて、道雪は若いころ、木の下で雨を避けていたが、落雷に遭い、とっさに千鳥と名付ける刀で雷を斬った。そのため一命は取り留めたが、下半身不随になった。以後、その刀を雷切(らいきり)と名付けて生涯離さなかったという。輿(あるいは駕籠)に乗って指揮を執ったが、三十七度の合戦で一度も遅れを取ることがなかったとされる。家臣たちも道雪を雷の化身と恐れ、戦場で置き去りにすることはなかった。肥満のため(馬に乗れず)輿に乗ったが、戦場で置き去りにされて死んだ龍造寺隆信とは大違いである。まあ、雷を斬って雷の化身というのも、よく考えると無茶苦茶な話ではある。
 
戦場では棒を持って、駕籠を叩き、敵陣に担ぎ込ませた。家臣にためらいがあると、道雪は怒って持っていた棒で駕籠を激しく叩き、「命が惜しければ、わしを敵の真っただ中に担ぎ入れてから逃げろ」と叫んだ。このため、不利な状況でも家臣たちは必死になって戦って態勢を立て直したという。
 
戦場では厳しい道雪でも家臣に対する思いやりを語った逸話は事欠かない。「兵卒でもともと弱い兵卒はいない。もし弱い兵卒がいるとすれば、その者が悪いのではない。大将がその者を励ませないことが悪いのだ」「武功には運不運が絡むもの、お前が弱い人間でないことは、わしがよく知っているから焦るでない、次の戦で、無理をして命を落とすことがあってはならない、それこそ不忠というものだ、どうかこれからもわしのために働いてくれ」と、手柄のない家臣とも酒を酌み交わし、武具などを与えたという。いったん手柄を挙げれば「みな、あの者を見よ、わしの目に狂いはなかった」と手柄を立てた者を側に招き、今後も頼むと懇ろに礼を述べた。そして、手柄を立てた者、手柄のなかった者を一堂に招いて「こうやってみなが心を合わせてくれるので、わしは幸せ者だ」と言ったという。客席で家臣に粗相があったときでも、「ただいまこの者に不調法がありましたが、戦場では人に後れを取ることなく戦いまする。槍はこの者が家中随一でございます」と家臣に恥をかかせなかった。
 
一方でこんな話もある。筑前河原崎で蒲池氏と対陣していたが、年を越すことになった。すると、家臣の一部がひそかに陣を離れて自分の家へ年越しのために戻ってしまった。それを知った道雪はただちに追手を差し向けて、その家臣のみならず、親のいるものは親まで殺すよう命じた。家臣たちが親まで殺すことはなかろうと諫めても、「大事な戦場の持ち場から帰ってくる子に会った限り、親も同罪である」と耳を貸そうともしなかったという。
 
宗麟を諫める
九州最大の大名となった宗麟だが、慢心したのか酒色におぼれて政務を顧みなくなった。道雪も宗麟を諫めようと登城するのだが、肝心の宗麟が表に出てこないので会うことすらままならない。すると、武骨者の道雪も宗麟に倣ったのか、大勢の女性を集め、昼夜を問わず酒宴に興じ始めたのである。普段は堅物の道雪がいったいどうしたのか、と宗麟は気になって様子を見に行ったのだが、それは宗麟に会って直接諫言するための道雪の策であった。宗麟も涙ながらに諫言する道雪の話に耳を傾けざるを得なかった。しかし、しばらくすると元に戻ってしまい、島津氏に敗れて逼塞を余儀なくされたのはご存じの通りである。
 

 
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秋月氏との戦いで、自ら刀を振るって七人を斬った、という話もあり、下半身が不自由で輿に乗っていたことに疑問を呈す見方もある。
 
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