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兵は拙速なるを聞くも、いまだ巧久なるを睹ざるなり(『孫子』)
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菊池氏と言えば思い出すのが、箱根竹ノ下の戦いでの「菊池千本槍」である。

南北朝時代の頃までの主要な武器は太刀、弓矢、それに薙刀(女性の武器とされるのは後世)などであった。1335年、新田義貞に従った菊池武重は竹の先に短刀を付けた武器を考案、千名の手勢で足利直義の兵三千を敗走させたと伝わる(戦い自体は味方の寝返りで敗れる)
 
菊池氏 肥後を中心に南朝勢力の中心として活躍するが、乗っ取りに遭う
 
藤原道長の兄道隆の子隆家は政変により左遷されたが、のち眼病の治療のため進んで太宰権帥を拝命して九州大宰府に下る。1019年、刀伊の入寇(満州の女真族が九州に侵攻した事件)を撃退し、武名を挙げた。隆家の孫である則隆が肥後菊池郡に移って菊池氏を称したとされていたが、現在では否定されている。隆家のもとで太宰少弐を務めた政則(隆家の子経輔の子とも、隆家の子ともされる)、その子則隆が肥後菊池郡に下向、土着して菊池氏を称したとされる。その他大宰府の府官を務めた一族が在地領主化したものなど諸説がある。いずれにせよ、九州三人衆(少弐・大友・島津)よりも九州に入ったのは早い。
 
六代隆直は平氏に反発するが、平貞能の追討を受けて平氏に降った。1185年の壇ノ浦の戦いでは平家方に属して戦い、戦後は源義経に降伏するが斬首されたという。十代武房は元寇に際して一族を率いて防戦に当たっている。十二代武時は後醍醐天皇に応じて1333年、阿蘇惟直・少弐貞経・大友貞宗とともに鎮西探題の北条英時を攻めるが、このときは少弐・大友の裏切りによって戦死している(のち九州三人衆が鎮西探題を滅ぼしている)
 
武時の子武重は建武の新政で亡父の功を称されて肥後守に任じられた。1335年、足利尊氏が天皇に叛いて鎌倉から西に向かうと、新田義貞の軍に従って足利尊氏と戦うが敗れた(「菊池千本槍」はこの際の逸話である)。十五代武光は懐良親王を迎えて南朝方の勢力拡大に努める。幕府方の一色氏、少弐氏を破り、大宰府を攻略。1359年の筑後川の戦いでは武光が刀についた血糊を川で洗った場所が筑後太刀洗(たちあらい)という。南朝勢力の全盛期を築くが、九州探題として派遣された今川了俊(貞世)に敗れて大宰府を追われた。南北朝の合一により和議が成立したが、菊池氏の勢力は衰えた。
 
二十一代の重朝は応仁の乱を避けて九州に下向した桂庵玄樹を迎え、隈府内に孔子廟を建てさせている。重朝の叔父宇土為光は肥後の守護職を狙って反乱し、重朝の子能運は肥前に逃れ有馬氏を頼る。のち隈府を回復して為光を殺すが二十代の若さで死去。菊池氏の嫡流はここで途絶える。能運の後は政隆(重朝の従弟重安の子)が継ぐが、阿蘇惟長が反乱、大友氏の攻撃を受けて自害した。阿蘇惟長は菊池武経を称して肥後守護職となったが阿蘇大宮司を継いだ弟惟豊らと対立、敗れて薩摩に亡命する。その後は一族の詫間氏から武包、次いで大友義長(宗麟の祖父)の二男義武が迎えられる。1554年、義武は甥の大友宗麟により追放され自害。ここに菊池氏の正統は絶えた。しかし、能運の子で米良重為の子孫が江戸幕府から交代寄合に任じられ、明治維新の際に則忠が菊池姓に復して子武臣が男爵を与えられた。武臣の子武夫は陸軍中将・貴族院議員を務め、美濃部達吉の「天皇機関説」を批判したことで知られる。
 
藤原政則(蔵規)-菊池則隆(初代)-兵藤経隆-菊池経頼-経宗-常直-隆直-隆定=能隆-隆泰-武房=時隆=武時-武重=武士=武光-武政-武朝-兼朝-持朝-為邦-重朝-能運=政隆=武経=武包=義武
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東洋史学者の内藤湖南が講演で「大体今日の日本を知る為に日本の歴史を研究するには、古代の歴史を研究する必要は殆どありませぬ、応仁の乱以後の歴史を知って居ったらそれで沢山です」と語ったことは知られている。応仁の乱を境に没落した家、あるいは勃興した家は少なくない。それだけに、応仁の乱、それに続く戦国時代を乗り越えて続いた家には歴史的重みがある。
 
続かなかったのは少弐氏、かろうじて家名をつないだのが菊池氏である。
 
少弐(しょうに)氏 幕府からの独立を志向するが大内氏に敗れる
 
少弐氏は秀郷流藤原姓(藤原秀郷の後裔)、あるいは藤原道長の子長家の子孫という。始祖の武藤資頼の父武藤資平は系図上、大友氏の祖である大友能直の父近藤能成と兄弟である。これを事実とすれば、少弐氏と大友氏は同族ということになる。
 
武藤資頼は奥州遠征の功により、1196年、鎮西奉行、太宰少弐に任ぜられ、その子資能は大宰府を守護所に改めて少弐氏を称した。「少弐」の名は代々世襲したこの職名に由来する。資能は元寇にも対応した長命の人である。元寇では子の経資、景資とともに九州の武士団を率いて戦うが、孫の資時が壱岐で戦死、資能自身も戦いで負った傷により死去するなど、少弐一族には大きな犠牲が出た。
 
元寇での功績により九州北部の各地の守護を務めるなど、勢力を拡大するが、資能の子経資、景資が家督をめぐって争う。また執権北条氏が鎮西探題を設置し、北条一門を配すると少弐氏もその支配下に置かれ、忍従の日々を送ることになる。
 
五代貞経は後醍醐天皇の挙兵に呼応し、大友氏、島津氏とともに鎮西探題の北条英時を討つ。建武の新政では筑前・筑後の守護職を与えられる。足利尊氏が天皇に叛くとこれに応じるが、1336年に菊池武敏や阿蘇惟直に攻められて自害する。後を継いだ頼尚は九州に逃れてきた足利尊氏を迎え、多々良浜の戦いで菊池氏らを破る。この後、筑前・豊前・肥後・対馬の守護となる。足利尊氏と弟直義が対立する観応の擾乱が起こると、直義の養子(尊氏の子)である直冬を擁して、幕府方の九州探題の一色範氏と争う。このため所領の大半を没収されるが、南朝勢力である懐良親王の征西府と結んで一色範氏を九州から追うことに成功する。共通する敵がいなくなった後は南朝方と争うが敗れる。
 
子の冬資は九州で南朝勢力が最盛期を迎える中、幕府に新たな九州探題を派遣するよう要請し、これに応じた足利義満は今川了俊(貞世)を派遣する。了俊は南朝勢力を徐々に駆逐していくが、冬資は菊池本城攻めへの不参加を理由に了俊に誘殺された(水島の変)。その後の少弐氏は南朝方に協力していく。南北朝合一後も九州探題との争いが続くが、これに介入したのが大内氏である。大内氏との対立が少弐氏の衰亡につながっていく。
 
1425年、少弐満貞は菊池兼朝とともに挙兵して九州探題渋川義俊を追うが、大内盛見(もりはる)は京から九州に下り、義俊とともに満貞らを破った。1431年には大友氏とともに大内盛見と戦い、盛見を討ち取ったが(「名将犬死」と言われた)、1433年、盛見の後を継いだ大内持世の攻撃を受け、秋月城で討たれた。子の嘉頼、教頼はかつて守護を務めた対馬の宗氏を頼った。
 
教頼の子政資は応仁の乱の際に筑前、豊前を回復して大内氏の勢力を九州から駆逐するが、大内義興に敗れて筑前、豊前を失い、多久城下の専称寺で自害する。子の資元は肥前で龍造寺氏らの支援を受けて勢力を回復するが、大内義隆に敗れて所領を失って自害した。その子冬尚は龍造寺隆信に攻められて自害し、ここに少弐氏の正統は絶えた。

武藤資頼(初代)-少弐資能-経資-盛経-貞経-頼尚-直資=冬資=頼澄-貞頼-満貞-資嗣=嘉頼=教頼-政資-資元-冬尚

「戦国人物紹介」~九州戦国史~

九州の戦国史を見るために、鎌倉時代までさかのぼる。戦国大名にも鎌倉時代以前より続く名家が多いからである。大友氏と島津氏の初代はいずれも源頼朝の落胤と称しているが、これらはいずれも伝説の域を出ない。大友氏、島津氏に少弐氏を加えた三氏(九州三人衆と呼ばれることもある)が九州の守護の中心であった。
 
元寇では少弐氏、大友氏をはじめとした九州の多くの武士が参加する。戦後処理のために鎮西探題が置かれるが、探題職には執権北条氏の一門が配され、九州でも北条氏の勢力が拡大する。一時は九州のうち六カ国が北条一門の守護国となったほどである。1333年、後醍醐天皇が挙兵すると九州三人衆はこれに呼応し、鎮西探題の北条英時を攻撃して滅ぼした。鎌倉幕府滅亡の三日後である。
 
その後、後醍醐天皇の建武新政が始まるが、足利尊氏は新政権に叛き、鎌倉から上京する。しかし、北畠顕家、楠木正成、新田義貞らに敗れて九州に逃れる。少弐頼尚に迎えられると、1336年、筑前多々良浜の戦いで天皇方の菊池武敏らを破り、態勢を立て直すと、東に向かい、湊川の戦いで楠木正成、新田義貞を破って再び京に入った。
 
三勢力の鼎立
九州には九州探題として一色範氏が残され、大宰府に入ったが、面白くないのが少弐頼尚である。少弐氏は太宰少弐という職に任じられたことを名字の由来とする家である。大宰府を中心に勢力を拡げてきた。1349年、足利尊氏の庶子で尊氏の弟直義の養子となった直冬は尊氏と対立して九州に逃れてくると、頼尚は直冬を擁立して一色範氏と争う。これには敗れるが、先に菊池氏に迎えられていた後醍醐天皇の皇子懐良(かねなが/かねよし)親王と結んで一色範氏を攻撃、1355年には一色範氏を九州から退去させることに成功した。共通敵がいなくなると、南朝方と対立するが、敗れて大宰府を追われた。
 
南朝勢力の躍進と今川了俊
以後、中央では衰退していた南朝勢力だが、九州においては最盛期を迎える。懐良親王は独自に外交を行い、「日本国王良懐」として明から冊封を受ける。
 
さて、中世の九州における人物を一人挙げよと言われれば、今川了俊を選ぶ。
 
今川了俊 【いまがわりょうしゅん】 1326-1420?
 
実はいまだに没年がはっきりしない。名は貞世(さだよ)。了俊は法名である。室町幕府の武将で、南朝勢力の強かった九州に入り、九州平定を成し遂げた武将であるとともに、『難太平記』などの著作を残し、歌人としても知られる人物である。「今川」と言えば、今川義元を思い浮かべる人も多いだろうが、了俊の兄範氏の子孫が義元である。今川氏は足利氏の一門である吉良氏の分かれで、畠山氏や斯波氏、一色氏なども同族である。
 
1370年に足利義満(三代将軍)から九州探題に任じられ、翌年九州へ赴く。当時の九州は菊池氏が奉じる後醍醐天皇の皇子である懐良親王の征西府が九州における南朝の最盛期を築いていた。足利義詮(二代将軍)が斯波氏や渋川氏を九州探題としたがうまくいかず、切り札として送り込まれたのが了俊である。
 
了俊は周防の大内義弘、肥前の松浦党などの協力も得て、当時南朝方に占領されていた大宰府を奪回し、懐良親王、菊池武光らを肥後に追った。1375年、水島の陣において九州三人衆(豊後の大友親世、筑前の少弐冬資、大隅の島津氏久)の来陣を促す。九州探題と対立する少弐冬資は来陣を拒んだが、島津氏久の説得で来陣した。しかし、了俊は陣において冬資を謀殺してしまう(水島の変)。これにより面目を失った島津氏久は了俊から離反、大友親世も了俊に疑いを抱き、了俊は二氏からの協力を得られなくなってしまう。一転して窮地に陥った了俊であったが、大内義弘の援助により態勢を立て直し、大友親世の帰順もあって、再び九州平定に乗り出した。1377年には肥前蜷打の戦いで南朝方に勝利。以後も戦いを続け、1391年には征西府を降伏させ、翌年、南北朝合一を機に菊池氏とも和睦し、二十年余をかけて九州平定を果たす。
 
しかし、九州における勢力拡大を恐れた義満によって九州探題を解任され、遠江と駿河の半国守護となった。1400年には義満によって了俊追討令が出されているが、赦された。晩年は『難太平記』(『太平記』を難じる、欠点を挙げて非難するの意)の執筆などを行い、90歳代半ばで死去した。子孫は遠江今川氏としてのち堀越氏を称するが衰退、江戸幕府の旗本として続いた。
 
その後の九州
了俊が去った後の九州探題には渋川氏が任命されるが、大内氏の後援によってようやく地位を保っていられる状況であった。少弐氏は菊池氏と連合して、探題側とたびたび戦っている。九州探題は衰退し、大内氏と少弐氏が対立するようになる。その少弐氏も大内義興(義隆の父)に敗れると、肥前東部の一勢力に転落。少弐氏の被官であった龍造寺氏が台頭する。大友氏、島津氏は内紛が続いていたが、やがて統一され、戦国大名へと成長していく。

少弐氏は戦国時代に滅び、大友氏は宗麟の子義統が秀吉によって改易され、江戸時代は幕府の高家として続いた。守護大名を経て戦国大名となり、江戸時代も大名として続いた島津氏がいかに名門かおわかりいただけると思う。

「戦国人物紹介」

秀吉の朝鮮出兵に振り回される人生
 

宗義智 【そうよしとし】 1568-1615
 
対馬の領主である宗氏の二十代当主。
 
いわゆる、源平藤橘(橘氏は早くに衰えた)の四姓を名家とするが、江戸時代の大名で、出自を平氏とした家は、源氏や藤原氏を称した家に比べると圧倒的に少ない。織田氏や相馬氏、上杉氏(長尾氏、ただし本来の上杉氏は藤原姓)、北条氏くらいなのだが、この対馬の宗氏も平氏を称した。平清盛の子である知盛の子孫と言われるが、実際は惟宗姓の在庁官人出身とされる。鎌倉時代から少弐氏の守護代として対馬を治め、朝鮮との交易で栄えた。元寇の際には当主助国(資国)が討ち死にしている。
 
1587年、秀吉の九州攻めの際に対馬を安堵され、翌年義智が家督を継いだ。1591年には小西行長の娘と結婚し、妻の勧めでキリスト教の洗礼を受ける。朝鮮出兵では義父の小西行長らと和平交渉を行うが果たせず。行長に従って先鋒として従軍した。
 
関ヶ原の戦いでは行長との関係もあり西軍に属すが、戦後、朝鮮との国交回復を図る家康から赦され、所領を安堵(翌年妻とは離別)。日朝間の交渉に当たり、1609年慶長条約(己酉約条)の締結に至る。子義成の代に国書を偽造していたことが露見し、改易の危機に立たされたが、家老の柳川調興が処断されることで改易は免れた。江戸時代、朝鮮と独自に交易することを認められ、十万石格の家格を得た。対馬府中藩として廃藩を迎える。


次回からは九州三国志、大友氏編がスタート。宗麟はまだ書いていませんが、立花道雪の逸話を集めているだけで楽しい。
「戦国人物紹介」

優秀な家臣たちに支えられて
 

相良頼房 【さがらよりふさ】 1574-1636
 
長寿丸、のち長毎(ながつね)。四郎次郎、宮内少輔、宮内大輔、従五位下。義陽の二男。兄忠房が夭逝したため、十二歳で家督を継ぐ。
 
肥後というと加藤(清正家)、ついで細川家の印象が強いが、肥後一国を支配していたわけではなく、相良氏が江戸時代も肥後人吉の大名として存続していた。相良氏は藤原南家工藤氏流。遠江榛原郡相良庄に住んで相良氏を称した。のち肥後球磨郡多良木庄に移る。義陽(よしひ、よしはる)の代になると島津氏の圧迫を受け、争うも降伏。1581年には阿蘇氏の甲斐宗運と戦って戦死ししため、滅亡の危機に瀕する。
 
頼房が家督を継ぐと島津氏の後見下にあったが、家臣深見長智(宗方、宗芳と号す)、犬童頼安らの補佐を受け、秀吉の九州攻めに従って、球磨郡の所領を安堵される。関ヶ原の戦いでは西軍に属して伏見城攻めに加わり、その後は美濃大垣城を守備する。本戦で主力が敗退すると、家臣である犬童頼兄(頼安の子)の勧めで秋月種長(種実の子、種実の娘は頼房に嫁いでおり、義兄に当たる)、高橋元種(秋月種長の実弟、同じく頼房の義兄に当たる)とともに、垣見家純(一直)、熊谷直盛、木村由信・豊統父子を謀殺して東軍に降った。戦後、所領を安堵された。その後は深見氏と犬童氏の対立に悩まされるが藩政の確立に努力。相良氏は廃藩まで転封されることなく続いた。
 

旧領を回復

伊東祐兵 【いとうすけたか】 1559-1600
 
祐隆、虎熊丸、六郎五郎、民部大輔。従五位下豊後守。島津氏に日向を追われた義祐の子。
 
伊東氏は藤原南家工藤氏流。伊豆の伊東庄に住んで伊東氏を称す。のち日向の地頭となって日向に移った。義祐は島津氏と争うが敗れ、1577年、大友氏を頼って豊後に逃れた。翌年、大友宗麟は島津氏を攻めるが、耳川の戦いで大敗し、日向回復の望みは断たれた。その後、祐兵は同族の伊東長実を頼って秀吉に従い、山崎の戦いでの戦功により河内国内で五百石を与えられた。1587年、九州攻めでは先導役として日向に入り、飫肥(おび)などを与えられて旧領を回復した。朝鮮出兵にも従軍。
 
関ヶ原の戦いのときには大坂にあったが、病のため伏見城攻めには加わらず、子祐慶を帰国させ、黒田如水を通じて家康に誼を通じた。祐慶は飫肥に戻ると日向唯一の東軍として戦った(島津豊久は西軍に属し、本戦で討ち死に。秋月種長、高橋元種は本戦後東軍に寝返って所領を安堵された)。祐兵は本戦後まもなく大坂で病死。祐慶と島津方の戦いは翌年まで続いた(のち和議)。祐慶は大坂冬の陣に参加(夏の陣には間に合わず)。子孫は飫肥で廃藩を迎えた。
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