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兵は拙速なるを聞くも、いまだ巧久なるを睹ざるなり(『孫子』)
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ちょっと前のツイッターからの改編。

毛利三兄弟を書きながらちょっと一息。

秀吉の陽性なところが好きな人は、その秀吉政権下でもうまく生きた三男隆景を好むかもしれませんね。隆景自身、三男らしい自由さと器用さが感じられます。秀吉の陰性、というか陰湿で残虐な部分を嫌う人は、武人として義理堅く、また(二男でありながら)不器用な生き方をした二男元春を好むかもしれません。

「戦国IXA」でも三兄弟の中では小早川隆景だけ2種類のカードがあって人気のほどがうかがえます。小早川隆景が嫌いという人はほとんどいないと思いますが(嫌いになる要素がほとんどない…そのことが嫌いになる要素か?)、一方で、吉川元春のお堅いところが嫌いというか、苦手という人はいるかもしれませんね。

最近まで日の当たってこなかった長男隆元が好きな人も少なくないでしょうし、五龍局ファンがいてもいいよね(好きになるにはちょっとエピソードが足りないけれど)
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「戦国人物紹介」

武人としての器用ならざる生き方

040 吉川元春 【きっかわもとはる】 1530-86

少輔次郎。治部少輔、従四位下、駿河守。

武では自分もかなわない、と元就に言わしめた勇将だが、文に暗かったわけではない。尼子氏の月山富田城を囲む陣中で『太平記』四十巻を書写したことで知られている(「吉川本太平記」と呼ばれる)

元春が養子として入った吉川氏は藤原南家の流れを組み、駿河入江庄吉川邑に住んで吉川を氏とした。子孫は播磨や土佐、安芸に広がる。吉川国経の娘(妙玖)が毛利元就の正室となり、国経の長男元経が元就の姉を娶ったことから、毛利氏とは重縁関係となった。吉川氏が大内方から尼子方に転じると、元経は元就を尼子方に誘うが果たせぬまま死去。跡を継いだ興経は1540年、尼子氏がおこなった毛利氏の吉田郡山城攻めに参加。その後、大内氏と尼子氏の間を転々し去就が定まらなかった。そうしているうちに家臣が毛利方へ離反し、興経は元就の二男元春を養子に迎えて隠居せざるを得なくなったが、1550年、実子とともに元就に殺されたため、吉川氏の正統は途絶えることになる。石見吉川氏の末裔である経家は秀吉に鳥取城で兵糧攻めに遭ったことで知られる(1581年、城兵の助命と引き換えに自刃)

「元春」の名は元就の先祖である毛利元春と同じ名である。先祖と同じ名前を付ける例は伊達政宗などいくつかあるが、元就が元春への期待を込めて付けた名であろう。「元」の字は兄隆元から一字を賜ったとも言われる。

1547年、熊谷信直の娘をめとっているが、この女性(新庄局)は二人といない醜女(しこめ)として知られていた。それを聞いた元就が元春の考えを質したところ、元春は笑って言った。「信直は熊谷次郎直実(源平合戦の一ノ谷の戦いで平敦盛を討ったことで知られる。幸若舞の「敦盛」は信長が好んだ「人間五十年~」の一節で有名)の子孫で代々勇猛な家であり、信直を味方とできれば心強い。娘の容姿を問わず嫁に迎えたとあれば、信直も自分の志に感じてくれよう。信直と馬の轡を並べて毛利家の先陣を進みたいのだ」と。この言葉を伝え聞いたのか、信直は元春のために身命を投げ打って尽くしたという。新庄局が醜女という記録は後世になって現れるものであり、事実かどうかは疑わしいところだが、元春の質実な考え方を表す逸話である。

弟隆景がおもに山陽で水軍を率いたのに対し、両川(吉川・小早川)の一方である元春は山陰で兵を率いた。1555年の厳島の戦いで陶晴賢を破ると、そののちは石見に進出して尼子晴久と戦った。1565年からは尼子氏の本拠である月山富田城を包囲し、翌年には尼子義久を降伏させている。1571年に父元就が死去すると、隆景とともに甥の輝元を補佐する。以後は尼子遺臣が頼った織田信長との戦いが本格化する。尼子遺臣は滅ぼしたものの、信長との戦いは一進一退を繰り返し、次第に劣勢になる。1582年には清水宗治のこもる備中高松城を水攻めにされる。

この毛利家の危機を救ったのが本能寺の変である。信長の死を知らないまま和議を結んだ毛利家だったが、信長の死を知って、元春は秀吉を追撃すべきと主張、隆景は和議を守るべきだとして、両川の意見は食い違う。結局、秀吉への追撃は行われず、毛利家は兵を引いた。以後、元春は家督を嫡男の元長に譲って隠居してしまう。隆景は四国攻めに参加するなど秀吉への協力を惜しまなかったが、元春は秀吉への協力を拒み続けた。

1586年、秀吉の強い要請と、隆景、輝元の説得により九州攻めに従軍。小倉城を落とすが、そこで瘡(できもの)を患い患部が悪化して死去した。黒田官兵衛から鮭の料理を勧められ、鮭は「血を破る」のでできものに悪いと知りながら、断るのも失礼であるとして食べたためにできものが悪化して死に至ったとも言われる。元春の律儀な性格を表す逸話である。

元春の死の翌年、長男元長が九州攻めの途上で病死。二男元氏は他家を継いでいたため、三男の広家が家督を継いだ。関ヶ原の戦いにおいて毛利家の存続に苦心するのが広家である。



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この時代、できもの(皮膚病、あるいはおでき)で死に至るというのはたまに聞く話で、家康もできものが悪化して膿を吸い出させたことがある。黒田官兵衛が毒殺したなどというのはあらぬ嫌疑である。

「戦国人物紹介」

戦国で三兄弟といったら毛利三兄弟かなと思うのですが(九人兄弟だが、母を同じくするのはこの三兄弟)、ほかに信長の息子(信忠、信雄、信孝)の比較をやってみてもおもしろいでしょうね。三姉妹といったら浅井の三姉妹、四兄弟といったら島津氏でしょうか。真田四兄弟だとちょっと苦しいかも。あとは家康の子供とか、北条氏とか、三好氏とか(三好兄弟については以前書いた)。森蘭丸は五人兄弟でしたか。

森蘭丸と言えば、本能寺の変の意義は、信長という偉大な個性を喪失したということだけでなく、嫡男の信忠(すでに家督を譲られていた)も失うことで、織田政権がその官僚組織とともに滅んだところにあります。信忠が生き残っていれば、秀吉の簒奪もあり得ないものでした。また、秀吉は山崎の戦いで光秀に勝利しますが、中国地方の方面軍司令官に過ぎなかった秀吉は畿内の統治組織など持っておらず、自らの官僚組織の構築には数年を要することになります。

実名もわからないし、生まれた年もわからないけど、女性に光を当てたい。今回はこの女性。

039 五龍局 【ごりゅうのつぼね】 ?-1574

毛利元就の娘。実名は不明(大河ドラマ「毛利元就」では可愛、えの)。隆元(1523年生まれ)の妹で元春(1530年生まれ)、隆景の姉と言われる。母はみな元就の正室妙玖(みょうきゅう)。元就は妙玖のいるうちは側室を置かなかったという(ちなみに、毛利三兄弟も正室のみで側室を置いていない)。



妙玖(法名で実名は不明) 1499-1546 大河ドラマ「毛利元就」では富田靖子が演じた。

さて、隆元の上に姉がいたが、高橋氏の人質となり、元就が高橋氏を滅ぼしたときに高橋氏に殺されている。それゆえか、元就・妙玖はこの娘をことのほか可愛がったというが、1534年、宍戸氏と和睦したときに宍戸隆家の元に嫁いでいる。隆元と年子としてもまだ十歳かそこらである。隆家は毛利家の一門として遇され、二女が吉川元春の嫡男元長に、三女が毛利輝元のそれぞれ正室となっており、一門の絆を深める役割を果たしている(長女は伊予の河野氏に嫁いだ)。

気の強い女性だったと言われ、吉川元春の正室新庄局との仲は険悪だったという。「三子教訓状」の中でも、元就は「三兄弟とも自分と同じ気持ちになって、三人と同じ待遇をしてほしい」「三人と五龍の仲が悪くなったならば、自分に対する不幸この上ないことだ」と書いている。



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醜女として知られる吉川元春の正室の父。父親がこの顔ではさぞかし娘も、と思いがちだが、後世の創作らしい。諸葛亮(孔明)にも「孔明の嫁選び」という逸話がある。

兄妹の仲が悪くて、元就が「みんな仲良くしてほしい」とこぼすあたりは、まだ毛利家が中国地方を制覇する前の、家族的な雰囲気を残している時代のアットホームないい話、という感じがする。
「戦国人物紹介」

038 毛利隆元 【もうりたかもと】 1523-63

少輔太郎。備中守、大膳大夫、従四位下。幼名は少輔太郎(しょうのたろう)で、父の幼名「少輔次郎」にならったものです。もっと幼少期には「松寿丸」のような幼名があったと思われますが伝わっていません。

毛利元就には九人の男子と二人の女子がいたと伝わりますが、その中でも正室の子である三兄弟(毛利隆元、吉川元春、小早川隆景)、と五龍局(ごりゅうのつぼね、宍戸隆家正室)は特に目をかけられました。

三人兄弟となると、一番上は控えめで、責任感が強く(気配りができるが、逆に言うと気難しいところがある)、二番目は元気がよく、上の兄を見ているので要領がいい、三番目は末っ子ということでかわいがられて、自由気ままに育つ、という感じで、三人それぞれのカラーがあります。このへんは大河ドラマの「毛利元就」でも上川隆也が、偉大な父と優秀な弟に囲まれて、すぐ気に病む隆元の性格をうまく演じていたように思います。私も三人兄弟の一番上なので、長男の隆元には同情します。

1537年、十五歳の時に長男でありながら大内義隆の元に人質として送られますが、義隆には大いに気に入られ(容姿端麗だったともいう)、義隆から加冠され(烏帽子親として元服し)、一字を賜って「隆元」と名乗ります。のちに義隆の養女(内藤興盛の娘)を正室としています。人質ではありましたが、厚遇されて山口で優雅な生活を送り、高い教養を身につけることになります。ただ、将来当主となるには必要以上に温厚になりすぎたと言われることもあります。

1540年、安芸に戻って家督を継ぎ(年代には諸説ある、また父が偉大すぎるため、再三固辞して、父が実権を握り続けたという)、元就とともに尼子氏と戦います。1555年の厳島の戦いでも主戦派として家中をまとめ、元就とともに渡海して義隆の仇である陶晴賢と戦っています。1560年には安芸、1562年には備中・長門、1563年には周防の守護となり、将来を期待されますが、尼子氏との戦いの途上、安芸佐々部で急死します。享年四十一歳。暗殺されたという説もありますが、ともかく、元就はその死を嘆き、「早く死んで隆元のところに行きたい」とこぼし続けるようになったと言います。隆元の後は嫡男の輝元が継ぎますが、引き続き元就が実権を握り続けることになりました。

自画像
戦国武将としては非常に珍しく、自画像を残しています。顔の部分だけを書いて衣装の部分はあとから貼ってつけたような画ですが。他に信玄の弟信廉(逍遥軒)も絵画に巧みであったことが知られています。

銀山開発
隆元の死後、毛利家の収入が激減し、最後までその穴を埋められなかったと言います。卓越した内政・財務手腕を持っていたことを示す話です。偉大な父、東西に活躍する二人の弟を尻目にせっせと銀山開発に励み、朝廷に献金していたことは、毛利家を勤皇の家とすることに貢献しましたから、維新の陰の功労者と言えるかもしれません。



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もしかしたら維新の陰の功労者。

「戦国人物紹介」

■毛利元就5


家臣統制
元就一代で中国地方を制覇したが、もとは安芸の国人領主の一つに過ぎず、他の国人領主や他家の家臣を毛利家の家臣とすることには苦労した。これは信玄や謙信も同じである。

大内氏を滅ぼした1557年に家督を長男の隆元に譲って隠居した形を取るが、このときに遺しているのがいわゆる「三子教訓条」である。あまりに有名な「三本の矢(三矢の教え、三矢の訓え)」の逸話の元となった遺訓である。この中で、二男元春と三男隆景に「他家を継いでいるが毛利をおろそかにしてはならない」と主家毛利家を大事にするよう説いている(大河ドラマ「毛利元就」の毛利元就も愚痴をこぼすことが多かったが、実際の元就の書状もくどいものが多い)。自分の子を当主として送り込んだとはいえ、吉川家は安芸の地頭、小早川家は安芸の国人で毛利家とは同格と言ってよい。

元就はさらに自分を含めた安芸の国人領主十二人で傘連判状を結んでいる。これは上下関係を明らかにせず、国人領主たちが対等の関係であることを示しているとされる。戦国大名と家臣の関係は、少なくとも形式上同盟関係にある場合も多い。武田家における小山田氏などもそうだが、主家が滅亡の際には離反することも少なくない。

三本の矢
臨終の枕元に三兄弟を呼び寄せたという設定は、隆元が元就に先立って死んでいるからフィクションなのだが、一本の矢が折れるなら、三本の矢でも折れるだろうと思った人、たしかにその通りである。ともかく、一本では折れやすいから、三本を束ねれば折れにくい、三兄弟も結束して毛利家のために尽くしてほしい、というのがこの逸話の主旨である(そのほかの部分は話の尾ひれである)。実際のところは、イソップ童話に「三本の棒」という同様の話があって、この話と三子教訓状の内容を取り入れて創った「おはなし」なのではないかと思う。

名奉行というと、大岡越前の名を真っ先に挙げる人が多いかもしれない。彼は大岡忠相(ただすけ)と言って、八代将軍吉宗の元で江戸の南町奉行を務めた人物である。世に「大岡裁き」「大岡政談」として名高い。その中には二人の母が一人の子をめぐって争った話がある。ご存知の方も多いだろう。簡単にするとこんな話である。

忠相のところに二人の女と一人の子供が来て、二人の女は互いに「自分がこの子の母親だ」と主張する。確かめるすべもないところ、忠相は言った、「それならば互いにその子の右腕と左腕を持って引っ張るがよい」と。二人の女が子供の腕を左右に引っ張り出すと、当然のことながら子供は痛くて泣きだした。そこで片方の女が腕を離してしまう。もう一人の女が「これでこの子は私の子」と主張するが、ここで忠相の御裁き。「実の母であれば子が痛くて泣くのを見て腕を離すのが道理である」と。

この話の元ネタは実は旧約聖書のソロモン王の話と言われる。中世に日本に伝わってきたのを取り入れたという説がある。忠相にケチをつけるわけではないが、逸話の中には有名な人物に仮託して創られた話もあるということだ。

毛利元就についてはここまで。次回から三兄弟を取り上げます。
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