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兵は拙速なるを聞くも、いまだ巧久なるを睹ざるなり(『孫子』)
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「戦国人物紹介」の企画もの

「比較論」と書くと堅くなってしまうので、タイトルは後から考えますが、

気になる二人を取り上げて、足跡を追ってみようかと思っています。

基本的に毎回一人ずつ取り上げているので、たまには企画ものとしてやってみようかと。

これに、題材としては吟味が必要なのですが、『藩翰譜』という新井白石の編纂した

江戸時代の書類を読むという企画も加えてしまおうかと。

昔の文章って響きがいいんですよね。

古文の授業が嫌いだったという人も多いかもしれませんが

(たしかに平安時代の文章は知識がなければ読めない)、

江戸時代の文章ならなんとなく読める…はず!


池田恒興(姫路城を築いた輝政の父)を書き始めたら止まらなくなったのですが、

この人を取り上げるには、「戦国人物紹介」で、あと100人くらい書かないと到達しないんだよね(笑)


書き出しはこんな感じ。


今回取り上げるのは池田恒興と森長可。
 
池田恒興は姫路城を築いた池田輝政(照政)のお父さん。森長可は信長の小姓で有名な森蘭丸のお兄さんに当たります。それぞれ信長の家臣として活躍しますが、本能寺の変で運命が狂っていきます。では、まず本能寺の変までの二人の活躍を『藩翰譜』を下敷きに見ていきましょう。
 
池田恒興 【いけだつねおき】 1536-84
 
参議源輝政卿は、紀伊守信輝入道勝入の二男なり、(中略)信輝初め勝三郎恒興と名のる、織田上総介殿(信長公なり)の乳母子なりしかば、介殿の御父備後守殿(信秀)の時より彼家に仕へ星崎の城を攻められしに双なき高名を顕し、諱字賜りて信輝とは改めけり、
 
池田氏は源氏を称したので、源輝政と書かれています。池田輝政は紀伊守信輝(出家して入道勝入と号した)の二男である。信輝は初め勝三郎恒興と名乗る。織田信長の乳母子でした。信長の乳母である養徳院の子だったので、信長とは乳兄弟(ちきょうだい)の関係にあり、信長の父である信秀の代から織田家に仕え、一時を賜って信輝と名乗りました。ただし、同時代の書類には「信輝」の名は見えず、後世の創作とも考えられます。ここは『藩翰譜』の表記に従って以後も信輝とします。


青字が『藩翰譜』からの引用部分ですが、なんとなく読めるでしょ?
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「戦国人物紹介」

龍造寺四天王


五人いるのは秘密。全員が沖田畷の戦いで戦死したとされる(木下昌直のみ生還したともいう)
 
成松信勝 【なりまつのぶかつ】 1540?-1584
 
新十郎、刑部少輔、遠江守。隆信に近侍する。1570年の今山の戦いでは大友親貞の首級を挙げ、隆信から感状を賜っている。1584年の沖田畷の戦いでは軍奉行として出陣、隆信の討死を聞くと戦場に名乗りを上げ、隆信の後を追ったという。
 


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江里口信常 【えりぐちのぶつね】 1548?-1584
 
藤兵衛。小城郡江里口に住んで江里口と称す。初め肥前の千葉氏に仕えるが、のち龍造寺隆信に仕える。沖田畷の戦いでは隆信の討死を聞くと、味方と偽って単身島津家久の陣に乗り込んだが、露見して殺された。家久に「無双の剛の者」と評された。
 

 
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木下昌直 【きのしたまさなお】 1534?-1584
 
四郎兵衛。木下伊予守入道覚順の養子。京の出身という。沖田畷の戦いで戦死。鍋島直茂を戦場から逃がしたあと、戦場に引き返して戦死したという。

「戦国IXA」では龍造寺四天王とみなされていないのか、未登場。
 
百武賢兼 【ひゃくたけともかね】 ?-1584
 
志摩守。「賢」を「とも」と読むのは珍しい。もとは戸田氏だが、「武勇百人に勝る」として百武の名字を隆信から賜る。1569年の多布施口の戦いのほか戦歴は数知れない。隆信が筑後の蒲池鎮並を謀殺し、居城の柳川城に攻め込んだが、賢兼は「今回、鎮並を殺したことは龍造寺の家を滅ぼすであろう」と言って、最後まで出陣しなかった。沖田畷の戦いで戦死。家は弟兼政が次ぎ、のち鍋島氏の重臣となった。
 

 
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円城寺信胤 【えんじょうじのぶたね】 ?-1584
 
美濃守。沖田畷の戦いで隆信の身代わりとなって戦死。しかし隆信も戦死してしまう。
 


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「戦国人物紹介」

「酒色にふけって」肥満していたという話を聞くが、酒はともかく、色(女性)の話は聞かない。家臣の妻を奪って謀叛を起こされた大友宗麟の方がひどい。母慶誾尼の存在もあったか。今山の戦いを見ても、この母親には頭が上がらなかったようである。慶誾尼は御家の安泰のためには重臣のところへ押し掛けて再婚したくらいだから、なかなかの女性だったのだろう。隆信の死後は直茂に国政を委任し、関ヶ原の戦いの直前に死去。龍造寺家の「断絶」を見ることはなかった。九十二歳。
 
047 龍造寺隆信 【りゅうぞうじたかのぶ】 1529-84 (後編)
 
今山の戦いから肥前統一、三者鼎立へ
翌1570年、宗麟の再征を受けて、六万と称する大軍に佐賀城を囲まれる。鍋島直茂や慶誾尼は夜襲を主張し、この意見に押された隆信は今山の大友親貞(宗麟の甥という)の陣に夜襲を敢行、親貞を討ち取って包囲軍を潰走させ、大友氏と有利な和議を結んだ。その後、形式的には大友氏の傘下にありながら独自に勢力を拡大し、大村純忠、有馬晴信を降して、1578年に肥前の統一を完成させた。今山の戦いでの逆転勝利が九州三強への出発点となったのである。同年、大友氏は耳川の戦いで島津氏に大敗、これを見た龍造寺氏は筑後から肥後北部、筑前南部、さらには豊前西部にまで進出した。ここに九州は東を大友氏、南を島津氏、そして西を龍造寺氏が並ぶ三者鼎立(ていりつ)の時代へと入っていくことになる。
 
急速に領国を拡大した隆信は「五州二島(壱岐、対馬)の太守」と呼ばれることになるが、支配下の領主たちは隆信に心服していたわけではなかった。領主たちの離反や抵抗に悩まされた隆信は彼らに対して厳しい態度で臨まざるを得なかった。残忍で酷薄、仁愛に欠けると評されるのもやむを得ないことであろう。家兼、隆信二人の再起に協力した蒲池鑑盛の子鎮並も島津方に従う姿勢を見せると、隆信に謀殺された。肥後の国人である赤星統家も隆信に実子を人質に送って服属していたが、去就を疑われると、十四歳の嫡男と八歳の娘を殺された。また、大友氏や大村氏、有馬氏などのキリシタン大名とは敵対したことから、宣教師のルイス・フロイスからは「キリシタン教会の最も激しい敵であり、はなはだ暴虐な君主」との評価も受けている。
 
あっけない最期
1584年、有馬晴信は島津氏の支援を得て、龍造寺氏から離反した。隆信は六万近い大軍で島原半島に攻め込んだ。このときの隆信の様子をフロイスの『日本史』ではカエサルに比して書いている。「その細心の注意と配慮と決断はユリウス・カエサルとて、それ以上の迅速さと知恵をもって企て得ないかに思われた」、カエサルといえば、「賽(さい)は投げられた」など、積極果断な印象で語られる人物である。
 
龍造寺軍と有馬・島津連合軍は沖田畷で戦うが、隘路に誘い込まれた龍造寺軍は苦戦、隆信は自ら攻め入るが、島津軍の反撃に遭う。馬に乗れないほど肥満していた隆信は輿に乗って指揮していたが、島津軍の勢いに押された担ぎ手は隆信を捨てて逃げてしまう。取り残された隆信は島津軍の川上左京亮忠堅に討たれた。享年五十六歳。同じく輿に乗って指揮したという立花道雪ならばこんなことはなかったであろう。なお、龍造寺側は隆信の首の受け取りを拒否したため、肥前国境の願行寺に葬られた(首の行方については諸説ある)
 
「戦国IXA」では2012年11月6日をもって排出停止(くじを引いても出てこない)となった。手に入れたければ、取引で出品されているカードから手に入れるしかない。また、「龍造寺」の名のつく武将は隆信しか登場しておらず、一時的に龍造寺の名は消えることになった。
 
最初にクマの話をしたが、単に強い、というだけではなく、残忍や狡猾といったイメージが付きまとう。鍋島氏が自身の支配を正当化するために、隆信のことをあえて悪く書いたということは少なからずあると思われるが、最期は身から出たさび、という感は否めない。
 
「戦国人物紹介」

デブとかデブとかデブとか言われますが
 
ロシア帝国や旧ソ連はクマに例えられることがあったが、これは強い、あるいは凶暴といったイメージから来ている。龍造寺隆信は「肥前の熊」と渾名されたが、単に強かったことから熊と呼ばれたわけではない。
 
047 龍造寺隆信 【りゅうぞうじたかのぶ】 1529-84 (前編)
 
幼名は長法師丸、法名は円月坊、初名は胤信(たねのぶ)、山城守。龍造寺家の十九代。家兼の曾孫になる。父は周家、母は本家である龍造寺胤和の娘慶誾尼(けいぎんに)。
 
なぜ僧籍にあったのか
1545年、十六歳の時、馬場頼周の謀略によって隆信の父や祖父を初め、龍造寺一門の多くが殺された。この件が彼の人格形成に影響を与えたであろうことは想像に難くない。龍造寺氏を再興した曽祖父家兼の遺命によって、後継者に指名され、宝琳院から還俗すると胤信と名乗って、水ヶ江龍造寺家の家督を継いだ。一つ不思議なのは、彼が幼くして僧籍に入っていたことである。幼少時に僧の教えを受けることはよくあることだが、七歳で出家して、僧をしていた大叔父(名は豪覚)に師事したというのは長男の彼にしては不審である。七歳までに彼の器量を見抜いた人物がいて、それが高僧になる資質だったのか、あるいは龍造寺家には災いになる性質と判断して出家させたのであろうか。あるいは、後難を予期して命だけは助かるよう僧籍に入れたとすれば、それはそれで慧眼かもしれない。父の横死後、誰が家督だったのかも判然としない。家兼が遺命をもって家督を継がせるまで空席だったのだろうか(家兼が代行していたのだろうが)。
 
さて、1547年には本家の胤栄に従って少弐冬尚を攻め、これを筑後に追放した。しかし、翌年、胤栄が急死する。後継者には胤栄の弟家就と胤信の名が挙がったが、重臣たちの話し合いによって胤信に決まったという。あるいは籤(くじ)によって決まったともいう。いずれにせよ、すんなりは決まらず、隆信の家督に不満を持つものも少なくなかった。ともかく、胤信は胤栄の未亡人を娶って本家の家督を継ぐことになった。こののち、大内義隆と結び、義隆から一字を与えられて隆信と名乗った。
 
不安定な立ち上がり
しかし、1551年、大内義隆は陶晴賢の謀叛に遭って敗死したため、大内氏の後ろ盾がなくなってしまう。龍造寺家中では胤栄の旧臣であった土橋栄益が大友氏の後援を受けた龍造寺鑑兼(大友義鑑の偏諱)を擁して兵を挙げ、隆信らを肥前から追った。筑後に逃れた隆信は家兼と同じく柳川の蒲池鑑盛を頼った。1553年、およそ三年をかけて反対派に勝利し、肥前を奪回した。1556年、夫の周家を失って未亡人となっていた母慶誾尼は鍋島清房のもとに自ら押し掛けて再婚した。これにより慶誾尼の子隆信と清房の子直茂は義兄弟となった(二人はもともと従兄弟同士ではある)。絆を深めた二人は協力して龍造寺家の勢力を伸ばしていくことになる。
 
1559年にはかつての主家であった少弐冬尚を勢福寺城で自害に追い込み、少弐氏を滅ぼした。さらに千葉胤頼(冬尚の実弟)を滅ぼすなどして東肥前を制圧した。1563年には有馬・大村氏の連合軍が東肥前へ侵入するがこれを退ける。これらの動きは大友宗麟の警戒を招き、1569年には宗麟自らが大軍を率いて攻め込んできたが、このときは毛利元就が豊前に侵攻してきたため、大友軍は撤退した。
「戦国人物紹介」
 
「三国志」で蜀の楊儀は、孔明の死後に叛いた魏延を討ち、その首を踏みつけると、「おろか者め、これでもう悪事はできまい?」と言ったというが、その後は功を誇ったために罷免されて、最期は自害した。「死屍に鞭打つ」も中国(伍子胥、ごししょ)の故事だが、死者を辱めるというのは忌まれたことで、心ある人は眉をひそめたことだろう。徳のある人がすることではない。伍子胥の終わりもまたよくない。
 
046 龍造寺家兼 【りゅうぞうじいえかね】 1454-1546
 
「信長の野望・天翔記」では、登場武将中、もっとも早くに生まれた武将だった。
 
孫九郎、左衛門佐。号は剛忠。龍造寺家十四代康家の五男。分家の水ヶ江龍造寺家を興したが、本家の村中龍造寺家では家兼の兄家和の死後、胤和、胤久が早世したため、家兼が本家を後見することとなった。少弐氏の筆頭家臣として台頭し、1530年、大内義隆の家臣である杉興連が一万余の大軍を率いて侵攻してきたときには、田手畷でこれを破った。この戦いで、赤熊の異様な面をかぶって大内軍を攻撃して混乱させたのが、家臣の鍋島清久、清房父子である。この功績により、清房は家兼の孫娘である龍造寺家純の娘を娶った。この二人の間に生まれたのが鍋島直茂である。
 
その後については諸書によってやや書かれ方が異なる。1534年に家兼の仲介により、大内氏と少弐氏の間に和議が成立するが、1536年、義隆は陶興房を派遣して少弐資元を攻め、自害させた。家兼の勢力拡大を快く思わない者たちは、資元の自害は家兼が大内氏に通じたせいだと反家兼包囲網を形成し始める。家兼は資元の子冬尚に引き続き仕えており、大内氏に通じていたかは不明である。
 
1545年、反家兼派の筆頭である馬場頼周は肥前の豪族を誘って反乱を起こさせると、この鎮圧を家兼に依頼した。家兼は各地に兵を分けて派遣するが勝利を得ることなく、水ヶ江城に帰還する。しかし、このとき少弐勢が二万の大軍で水ヶ江城を包囲しており、城は落城の危機に瀕していた。頼周は家兼に「冬尚様は貴殿が大内氏に通じたとの訴えを受けて城を包囲した。貴殿が城を出て筑後で隠居するなら、私がとりなしてみよう」と伝えた。家兼はその言葉を信じて筑後に退き、一門の周家、頼純、家泰の三人を謝罪の使いとして少弐冬尚のもとに遣わし、家純、家門、純家の三人を縁者を頼って筑前に向かわせた。しかし、これは頼周の謀略で、頼周は周家以下を神埼で、家純以下を川上で討ち、首を冬尚に差し出した。
 
筑後柳川に追放された形の家兼は九十歳を超えていたが、蒲池鑑盛の庇護のもと、復讐の機会を狙っていた。翌年、蒲池氏の支援を受けた家兼は再挙を期して兵を挙げると、鍋島清房らがこれに呼応、頼周父子を討って復讐を果たし、龍造寺氏を復興した。ある者は家兼に「頼周父子は(龍造寺)一族の方々の首を土足で踏みつけたと聞きます。頼周父子の首も大手門の下に埋めて、登城する者たちの土足で踏みつけましょう」と言った。しかし、家兼は「頼周父子と同じことをすれば、我々も彼らと同類となってしまう。頼周父子の首は丁重に弔ってやれ」と手厚く葬って供養させた。これらは後世に書かれたものであろうから、割り引いて考える必要があるだろうが、家兼の人柄がうかがえる逸話である。
 
この後、龍造寺氏の家督として、円月坊を還俗させて胤信と名乗らせた。のちの龍造寺隆信である。胤信に後事を託した家兼は九十三歳で死去した。
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