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兵は拙速なるを聞くも、いまだ巧久なるを睹ざるなり(『孫子』)
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「戦国人物紹介」

島津氏中興の祖
 
050 島津忠良 【しまづただよし】 1492-1568
 
菊三郎、三郎左衛門尉、相模守、愚谷軒日新斎。島津氏四代忠宗の弟久長に始まる伊作島津家の九代善久の子。母は常盤(梅窓夫人、新納是久の娘。是久の玄孫が忠元)。
 
幸運な始まり
父善久は1494年、馬丁に撲殺される。二十八歳の若さであった。1500年には祖父久逸も薩州家の内紛に巻き込まれ、島津忠興に攻められて戦死した。このため、伊作家の家政は常盤が後見した。相州家の運久(ゆきひさ)は未亡人となった常盤に求婚するのだが(正室まで殺したという)、このとき常盤が出した条件が、常盤の子忠良が成人した際には、忠良に相州家の所領を譲るとの内容だった。運久は約束を守り、忠良は伊作家、相州家両家を合わせて薩摩に勢力を拡大した。常盤にはよほどの器量があったのだろう。男子がなかった運久(異説あり)と常盤の政略結婚だったという説もある。運久と常盤の間には女子が生まれているが、これが男子であれば、忠良の運命も島津家の運命も変わっていたものとなったに違いない。
 
当時の島津宗家の当主は勝久であったが、島津氏の領国は一族や家臣の内訌によりほぼ崩壊していた。勝久は独力では勢力を維持できず、薩州家の実久の力を借りることにした。勝久は実久の姉(妹とも)を正室に迎えるが、実久は自らが勝久に取って代わろうと考えていた。勝久に対し、自分を島津宗家の家督とするよう迫ったのである。勝久がこれを拒否すると、実久は兵を挙げ、勝久を鹿児島から追放した。追放された勝久は忠良を頼り、1526年、忠良の子貴久を養子として守護職を譲って出家、隠居した(所領を交換したというのは後世の創作)。
 
当然、実久はこの状況に不満を持ち、兵を挙げた。忠良・貴久方の城が相次いで陥落し、一時は貴久も死を覚悟したほどであった。さらに実久は隠居していた勝久を説いて還俗させ、再び守護職に復帰させた。薩摩は忠良・貴久方と実久・勝久方に分かれて争いが続いた。結局は勝久と実久が再び仲違いをし、忠良・貴久方に敗れた実久は出水に隠棲、勝久も敗れて大隅、さらに大友氏を頼って豊後に落ちていった。
 
1550年、貴久が鹿児島の内城に入ると、薩摩加世田に隠居したが、その後も貴久を後見し、また「いろは歌」を残すなど、家臣たちに薩摩の士風を教化し、のちの薩摩藩士の教育にも影響を与えた。
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「戦国人物紹介」

島津氏 

鎌倉時代から幕末維新まで続く名門
 
後世、初代忠久は源頼朝の庶子と称しているが伝説に過ぎない。秦の始皇帝の後裔で秦氏の子孫である惟宗姓で、歌人の惟宗広言の子孫とされてきたが、現在では惟宗忠康の子孫とされている。
 
ちなみに、忠久を頼朝の庶子とする話はこうである。
 
頼朝は伊豆の蛭ヶ小島に流されていたが、比企能員の妹丹後局と関係を持った。しかし、(北条)政子の怒りを買って、丹後局は遠ざけられた。局は西に向かったが、摂津住吉社で産気づいた。地元の人からは宿を貸してもらえず、おりしもの大雨で社殿の石の上で休んでいたところ、狐火の中で男子を出産した。これが島津氏の初代忠久であるというものである。
 
出産したときの石は忠久誕生石といい、住吉社内の稲荷神社にある。これを島津稲荷と称し、以後、島津氏は稲荷神社を尊崇するようになった。
 
局は頼朝の配慮により、惟宗広言に嫁いだ。これにより、忠久は惟宗姓と十文字紋を得ることになった。また、忠久は畠山重忠を烏帽子親として元服し、重忠から忠の字を賜った。頼朝は忠久を憐れんで、薩摩・大隅・日向の三国にまたがる日本最大の荘園である摂関家領の島津荘の地頭職を与えた。これが1185年のことである。1197年には薩摩・大隅両国の守護となり、島津氏を称した。さらには日向の守護にも任じられる。
 
ただ、この頼朝落胤説は早くても室町時代になって見られるものであり、広く認められるようになるのは戦国時代以後である。
 
島津氏は惟宗氏の一族で、その中に摂関家の筆頭である近衛家の下司となったものがあった。忠久はこの子孫と考えられ、近衛家から島津荘の荘官職に任じられており、頼朝に地頭職を賜ったのもこれがもととなったと考えられる。なお、島津氏は近衛家の本姓である藤原姓を称したこともあり、戦国時代には藤原姓と源姓を混用することになった。
 
なお、島津氏も大友氏や武田氏と同様、一族、庶流が多い。山田氏、伊集院氏、新納氏、樺山氏、北郷氏、川上氏、喜入氏などは庶流である。
 
島津氏の内訌
鎌倉時代の末期には五代貞久が反幕府方として九州の幕府勢力を滅ぼすのに功があった。貞久の長男氏久は大隅守護、次男師久は薩摩守護になる。この並立関係は師久系が滅びるまで続く。
 
九代の貞国は弟の用久や子の立久と対立し、十一代忠昌は一族や庶流の反乱を討伐できないまま、1508年に自害に追い込まれた。憤死した父の跡を継いだ子の忠治も大隅の吉田城を攻略中に病死。弟の忠隆が継ぐがわずか四年にして死去。さらに弟の勝久が継いだが、この頃には島津氏の領国はほぼ崩壊していた。本国である薩摩では分家である薩州家の実久、伊作家の忠良、相州家の運久が分立しており、入来院氏ら他の国衆も自領の支配を強めていた。
 
この中で忠良が子の貴久を島津宗家の家督とすることに成功する。貴久の子義久は九州統一寸前まで至るが、秀吉の侵攻により屈服。関ヶ原の戦いでは西軍に属すが、義久の弟義弘の子家久(忠恒)が本領を安堵される。江戸時代も外様の雄藩として知られ、佐幕派として中央でも影響力を持った。幕末は長州藩と結んで倒幕勢力の中心となり、新政府にも多数の人材を輩出した。

家門は丸に十の字、あるいは轡十字が有名だが、初期の頃は丸がなく、十字であった。
島津氏は三月に書いて、四月から信長編にしようかと考えています。

信長編と言っても、いままでの信玄や謙信のように、

何回かで事績や逸話を紹介するのではなく、

その時々の家臣たちを取り上げながら、

全体で信長の事跡がわかるような構成になればと考えています。

三十人くらいにしたいと思っていますが、もうちょっと増やすかもしれません。


さて、それは先の話なのでさておき。

島津氏を書いていて、島津氏の見出しに「鎌倉時代から幕末まで続く名門中の名門」と

書いてみましたが、どうもしっくりきません。

維新後は公爵になりましたし(ほかにも分家多数)、現代にも続いています。

「名門中の名門」と書くのもやや躊躇します。

日本の名門となると、天皇家の子孫か、四姓(源平藤橘)ということになりますが、

島津氏はいずれにもあてはまりません(頼朝の庶子を称してはいるが後世の自称に過ぎない)

とはいえ、将軍家の御台所を出していますし、皇室とも縁があります。


維新後に島津久光が「わしはいつ将軍になれるのだ」と言ったという話は

俗説にしておくには惜しいよくできた話。
「戦国人物紹介」

049 丸目長恵 【まるめながよし】 1540-1629

 
兵法家。丸目蔵人。蔵人佐(くらんどのすけ)、石見守。号は徹斎。東の柳生新陰流と並ぶ、西のタイ捨流兵法の創始者。信長の野望「覇王伝」で相良氏にやたらと戦闘能力の高い家臣がいるなと思ったがこの人である。
 
肥後八代郡人吉に生まれる。十九歳で上洛して剣聖・上泉伊勢守秀綱(信綱)に新陰流を学んだ。信綱が足利義輝の前で兵法を上覧した時、信綱の相手として打太刀を務めたという。二十八歳で印可状を得た。
 
肥後に帰国するが、島津家久と戦った時に不始末があって敗戦、相良義陽の不興を買って一時逼塞する。長毎(頼房)の代に復帰し、その後は九州一円にタイ捨流を広めた。タイ捨流は示現流兵法の祖である東郷肥前守重位(ちゅうい)にも受け継がれている。
 
長恵は武芸十八般に通じただけでなく、書も青蓮宮の免許の腕前であった。隠居所として与えられた切原野で隠居生活を送った。1629年没、法名は雲山春龍居士。

「戦国人物紹介」番外編

本拠地の話・4-4


単身赴任はつらいよ
 
仮名遣い、漢字は適宜改めた(角川日本古典文庫による)
 
正月二十九日、御弓の者福田与一宿より火事出来。是偏に妻子を引越し候はぬ故回禄の由、御諚なされ、則、菅屋九右衛門御奉行として、御着到を付けさせられ、御改候の処、御弓衆六十人・御馬廻六十人、百二十人妻子越し候はぬ者一度に御折檻。御弓衆の内より火を出し申すに付いて、先曲事の旨上意にて、岐阜中将信忠公へ仰遣はされ、岐阜より御奉行出され、尾州に妻子置き申候御弓衆の私宅悉く御放火なされ、竹木迄伏(伐)せさせられ、これに依って、取物も取敢へず、百二十人の女房共安土へ越し申候。今度の過怠として、御構の南江の内に新道を築せられ、何れも御赦免候なり。
 
(天正六年、1578年)正月二十九日、弓衆の福田与一宅から火事が起こった。これは偏(ひとえ)に妻子を連れて(安土に)引越ししなかったための火事とのことで、信長は菅屋九右衛門(長頼)を奉行として人名を書き並べさせて、検分したところ、弓衆六十人、馬廻六十人、合計百二十人の者が妻子を連れてきておらず(要は単身赴任だった)、一斉にお叱りなされた。弓衆から火を出すのはけしからん(信長の直臣だから、か?)ということで、信忠(信長の嫡男、当時は岐阜城主)に使者を出し、岐阜から奉行を出して、尾張に妻子を置いていた弓衆の家をことごとく火を放ち、竹や木まで伐採してしまった。このため、妻子は取るものも取りあえず、弓衆・馬廻百二十人の妻は安土へ引っ越した。今回の罰として、安土城の構の南、琵琶湖の入り江に新道を築かせ、いずれもお許しになられた。
 
実は、火事(放火)というのは昔から罪が重い。現住建造物等放火罪の法定刑は死刑、無期懲役、5年以上の有期懲役と規定されており、殺人罪と同等である。理論上は、死者が出なくても、死刑になる可能性がある。
 
住んでいる人を殺すだけでなく、延焼によりほかの建物(人を含む)も燃える可能性があることから、傷害罪や傷害致死罪とは別に罪が定められているのである。
 
江戸の町は「火事と喧嘩は江戸の花」という言葉が残っているほど、火事が多かったが、ここでも放火は重罪とされ、放火犯は市中引き回しの上、火あぶりの刑に処された(失火の場合はこの限りではない)

日本一短い手紙として知られている本多重次の手紙も「一筆啓上 火の用心 お仙泣かすな 馬肥やせ」である。
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