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兵は拙速なるを聞くも、いまだ巧久なるを睹ざるなり(『孫子』)
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「戦国人物紹介」番外編

コラム 本拠地の話・4-3


ここからは、信長の話を二つ挙げよう。
 
まずは清洲から本拠を移したときの話。
 
昔のブログで清洲から小牧に移ったやり方は「敵本主義」だと書いたことがある。明智光秀が「敵は本能寺にあり」と実際に言ったかどうかはともかく、この台詞はよく知られていて、そこから生まれたのが「敵本主義」という言葉である。「目的は他にあるように見せかけて、急に真の目的に向かうやり方(新明解)」のことを言う。

本能寺の変に明智方として参加した兵の覚書には「信長様を狙うとは夢にも思わなかった」「家康様を討つと思っていた」という記述がある(本城惣右衛門覚書)。最初から信長を目的としていることを表明しては、誰かが信長に通報する恐れがある。この部分を完全に秘匿して、信長襲殺に成功した光秀の、この部分における手腕は見事としか言いようがない。
 
引用は角川日本古典文庫『信長公記』より。適宜漢字を改めている。
 
首巻三十九 二宮山御こしあるべきの事
一、上総介信長、奇特なる御巧これあり。清洲と云ふ所は国中真中にて富貴の地なり。或時、御内衆悉く召列れられ、山中高山二の宮山へ御あがりなされ、此山にて御要害仰付けられ候はんと上意候て、皆々家宅引越し候へと御諚候て、爰の嶺かしこの谷谷を誰々こしらへ候へと御屋敷下さる。その日御帰り、又、重ねて御出であつて、弥(いよいよ)右の趣御諚候。此山中へ清洲の家宅引越すべき事、難儀の仕合なりと上下迷惑大形ならず。

 
信長には極めて優れた計画があった。清洲は尾張の中心にあって、経済的にも栄えた地であった。ある時(1563年七月以前)、信長は近い家来をみな連れて、高い山である二の宮山にのぼって、この山に城を築いて居城とすると言い始めた。みなみな引っ越すべしと決められて、この嶺、あそこの谷には誰々に屋敷を作らせると言われる。その日は帰ったが、また再び出かけて行って、先に言われたように決められた。この山の中へ清洲から引っ越すのは難儀なことだと、上も下も大混乱になった。
 
左候処、後に小牧山へ御越し候はんと仰出だされ候。小真木山(小牧山)へは、ふもとまで川つづきにて、資財・雑具取り候に自由の地にて候なり。どつと悦んでまかり越し候なり。是も始めより仰出だされ候はば、爰も迷惑同前たるべし。
 
そうしたところ、信長は今度は小牧山に移ると言い出された。小牧山はふもとまで川が続いていて、物資の運搬には便利な地である。みな喜んで小牧山へ移って行った。これも、最初から小牧山に移ると言っていたならば、(二の宮山に移ると言い出した時と同様に)混乱しただろう。
 
小牧山に移ることを考えていながら、引っ越しには抵抗があることを見越して、最初は不便な二の宮山への移転を言い出したことは、信長の優れたところであった、という話である。これこそ「敵本主義」と思うのだが、どうだろうか。
 
以後、敵対していた犬山城の織田信清を圧迫し、最後は追放した。そして美濃攻略へと進む。美濃へは清洲よりも小牧山からの方が近い。美濃を攻略した信長は岐阜に移り、小牧山は廃城となった。この地が再び脚光を浴びるのは、十七年後、小牧・長久手の戦いで家康が陣を置いた時である。
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「戦国人物紹介」番外編

コラム 本拠地の話・4-2


中世には、多くの職業を生業とする集団が多数存在しており、農民を中心とした史観は訂正を要するが、それはともかく、中世以前から「農民」の多くは武装しており、「兵」と「農」は分離していなかった。むしろ、両者は一致していたと言ってもよい。他の武装農民の攻撃から身を守るために武装していたのは当然のことである。
 
戦国大名の多くは、彼らを徴兵して戦争を行ったが、農繁期(田植えや収穫の時期)の徴兵は制限され、自然、農閑期における戦争が多くなった。本拠で徴兵を行い、遠征したとしても、農繁期までには本拠に帰って、兵を戻さなければ、食糧の生産に支障をきたすことになる。信玄や謙信を初めとする多くの戦国大名は本拠を移さなかった、というよりも、移せなかったのは、この兵質によるところが少なくない。
 
加えて、戦国大名の立場に負うところも大きい。以前から繰り返しているように、信玄も謙信も家臣たちに擁立されて家督を継いだ。家臣たちは独自の領地を有し、主君に背いたり、家臣同士で争ったりすることもあった。戦国大名の権力は思っているほど絶大なものでも盤石なものでもない。謙信が自身の調停にもかかわらず、家臣間で領土争いが続くことに嫌気がさして出家騒動を起こしたことや、穴山氏や小山田氏が武田家滅亡時に武田家を見限って離反したことは知られている。
 
これは戦国大名にとって、本拠と雖も、領国支配が完全ではなかったことを示している。もう少しさかのぼって見れば、過去の武田家の当主には、反対派の妨害により甲斐に入れなかった者もいる。
 
その点、信長は常備軍を整備して、農繁期・農閑期を気にすることなく戦争ができたし、家臣たちに擁立されたわけではない(弟を擁立する集団を倒して家督を確固たるものにした)から、「土地に縛られる家臣」の制約を受けることもなかった。常備軍を整備できたのは経済力の拡大によるところも大きい。常備軍というのは生産せずに消費するだけの存在であるから、経済的に余裕がなければ常備軍を持つことはできない(なお、傭兵という存在があったことも付け加えておく)。
 
この生産せずに消費するだけの存在がのちに士農工商における武士になっていく。江戸時代の武士は、基本的に生産活動はせず、幕府や藩から給料(米)を支給される存在であった。幕府や藩のお勤めはこなしていたから、いまのサラリーマンとそれほど変わらない。
 
なお、信長が最初に常備軍を備え、これが兵農分離の始まりとなったとするのは正しくない。必要以上に信長を革命的先駆者とするのは改める必要がある。信長以前にも戦闘を専業とする集団は存在したし、兵農分離は江戸時代に入っても実現しなかった。ちなみに、秀吉の専売特許と思われている刀狩だが、実施したのは柴田勝家の方が早い。ただ、秀吉に見られるような身分統制の動きは江戸時代にも受け継がれて、形式的には「士農工商」と言われるような身分制度が成立した。とはいえ、農民が武装解除されたわけではなかった。農民が完全に武装解除されるのは、第二次世界大戦後のことである。

織田信行:信長の同母弟。通称は勘十郎。実名は信勝など。

父信秀の葬儀で、兄は「抹香をくわつと御つかみ候て、仏前へ投懸け御帰り」した一方、

「御舎弟勘十郎は折目高なる肩衣・袴めし候て、あるべきごとくの御沙汰なり」と、

「形のごとく整った作法」をしていたという。林・柴田に擁立されてクーデターを図るが失敗。

のちに殺された。
「戦国人物紹介」番外編

コラム 本拠地の話・4-1


最後の西上作戦では駿府あたりではなく、わざわざ甲府から出兵していた信玄。冬になるたびに越山して、越後から関東に出兵していた謙信。移動距離・時間を考えれば非効率ではという考えが浮かぶ。

信玄も謙信も、領土を拡大したにもかかわらず(謙信が領土欲を持たなかった、領土獲得のための戦争を起こさなかったというのは事実ではない)、本拠を動かさなかったが、信長は異なる。
 
1555年、信長は尾張の守護代であった織田信友を除いて清洲城に入るが、それから小牧を経て美濃の岐阜に移る。この時、井ノ口(井口)を岐阜と改めた逸話は有名である(異説もある)。
 
http://naraku.or-hell.com/Entry/445/
 
1576年、近江の安土に築城して本拠を移したが、安土が終着ではない。『信長公記』にも「大坂は凡そ日本一の境地なり」とあるが、本能寺の変がなければ、信長は大坂に城を築いていた(すでに築城を始めていたという説もある)。秀吉の大坂築城は信長の計画をなぞったに過ぎない(信長の後継者であることを示すといった秀吉自身の政治的な意味はある)。
 
家康は信長にならって、岡崎から浜松に本拠を移したが、これはもう少し考察がいるだろう。徳川信康の話になる。伊達政宗あたりも、本拠の移転については柔軟である。
 
話を冒頭の信玄と謙信に戻すが、彼らと争った北条氏は伊豆から興って、小田原城に移った。これは初代北条早雲(伊勢宗瑞)の話で、その後は関東に勢力を広げても本拠を移転しなかった。小田原が防備に優れていたためであろうか。一国内の争いで本拠を移すのは島津貴久(義久、義弘などの父)にも見られるし、統治面を考慮して毛利輝元は吉田郡山から広島に本拠を移している。
 
また、攻められて本拠を移さざるを得なかったという例もあるが、領土の拡張につれて本拠を移すというのは、大半の(それなりに勢力、領土を持った)戦国大名においては、そもそも本拠を移すという発想自体がなかったのではないかと思われる(だから、本拠を移した信長が偉大だという話にはならないが)。信長が領土の拡大とともに本拠の移転を繰り返したのを見て、移転を考えた大名もいるだろうが、現実問題として、本拠の移転は困難だったと考えた方がいいのではないだろうか(次回に続く)

米沢城に始まり、蘆名氏を倒して会津黒川城(のちの会津若松城)に入るが、秀吉に屈服。

秀吉政権下で米沢から岩出山に移され、最後は仙台に移った。

仙台藩は新田開発に熱心で、江戸中期には実収で百万石を超えていたという。

この米が江戸に回り、江戸の人々の胃袋を支えた。
今月は「戦国人物紹介」で武田勝頼の話をしましたが、

それに関連してもう少し書く予定です。

・信玄や謙信はなぜ本拠を動かさなかったか
・信長が清洲から小牧に本拠を動かした時の話
・信長が岐阜から安土に本拠を動かした時の話

書きかけなのですが、どうもうまくまとまりません。

そういう時はほったらかしにします。

そのうちまとまります。


三つ目の話の前振りとして次のニュース。

足立区3人死亡の放火で懲役22年 殺人では起訴猶予の女(産経新聞)

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20130130-00000578-san-soci

放火というのは罪が重い。これは昔からです。

また、殺人罪とは別に放火の罪が問われている点にも注目してください。
「戦国人物紹介」

新年・武田家スペシャル(5回シリーズ)


武田勝頼・5-5
 
いままで信玄の事跡を見てきたが、信玄が勝頼に遺したものは何だったのだろう。
 
領国としては甲斐・信濃・駿河、それに西上野、さらには遠江・三河・飛騨・越中の一部に及ぶ。北条家とは甲相同盟があり、上杉家とは事実上の休戦状態にあった(越中の一向一揆に牽制させた面もある)。後継者に遺したものとしては悪くない。ただ、遺したものはこれだけではない。信玄の指示であれば従う重臣(勝頼の指示にはなかなか従わない重臣)、事実上の後継者でありながら、後継者として扱われなかった立場、これらは勝頼の行動を掣肘することになる。
 
1573年の信玄の死後、武田家の家督を継いだ勝頼だが、戦にはめっぽう強く、「喪を秘して三年は兵を養え」との信玄の遺言に反し、1574年、東美濃の織田領に攻め入ると、明智城をあっという間に落とした。信長の救援も間に合わなかったほどである。さらに、遠江の徳川領に侵攻し、信玄も落とせなかった高天神城を落とした。武田家の版図が最大となったのは勝頼の時である。

長篠の敗戦を見て、「信玄の遺言に従わなかったから、長篠の敗戦を招き、さらには武田家の滅亡につながった」とする主張も多い。しかし、信玄の死はすぐに知れ渡って、織田家や徳川家は攻勢に転じていたから、勝頼が黙っていれば、武田家はじり貧に陥った可能性の方が高い。
 
1575年の長篠の戦いについては以前書いたので詳述はしない。勝頼側近と重臣たちの意見対立があったとされるが、攻撃の判断を下したのは勝頼であり、それに従ったのは重臣たちである。自暴自棄になった重臣たちの集団自殺というのは結果だけを見た妄説に過ぎない。重臣たちも自分の家は大事である。勝つ成算があって攻撃を始めたと思うのだが。長篠の戦いにおける惨敗は戦術的敗北にとどまらず、領国支配の動揺も招いたが、勝頼にとっては家臣団再編成の契機となったことも事実である。
 
勝頼の判断が致命傷となったのは、1578年の御館の乱における対応である。これは信玄とは直接関係がない。越後一国の統治すらおぼつかない上杉景勝との同盟を選択したが(甲越同盟)、北条家とは絶縁してしまう。景勝と争った景虎は北条氏康の子であるから、越後から上野、関東まで北条家の勢力に囲まれることを忌避したと思われるが(これは信玄が外交に失敗した1568年と似た状況)、織田・徳川と対抗するためには北条・上杉との同盟が不可欠であった。ここにおいて、勝頼は戦略・外交判断を誤ったというしかない。

1581年、家康が高天神城を囲むが、勝頼は上野戦線の多忙を理由に救援を行わなかった。高天神城は落城し、勝頼の威信は失墜した。こののち、木曾義昌らの離反をきっかけに一門衆までが相次いで脱落、武田家の領国支配は崩壊し、1582年、わずか一ヶ月で武田家は滅亡することになる。
 
なお、このとき、上杉家は同盟相手としてはほとんど機能しなかった。本能寺の変がなければ、1582年、遅くても1583年までには上杉家は織田家に滅ぼされていただろう。



「戦国IXA」では、2012年12月に登場。武田信虎の娘。信玄や信繁、信廉(逍遥軒)らの同母姉。今川義元に嫁ぎ、氏真を生む。三国同盟成立の前に死去してしまうが、この婚姻がのちの三国同盟の基礎となった。武田信虎と今川義元の血を引くから氏真も優秀なはずなのになあ…。

追加でコラム的なものを二つ書く予定です。
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