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兵は拙速なるを聞くも、いまだ巧久なるを睹ざるなり(『孫子』)
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次は伊達政宗だから、平岩親吉を仕上げようぜ、
と耳元でささやく声が・・・。

関ヶ原の戦いでは、
中央と離れたところで割拠を狙った政宗。
黒田官兵衛(如水)も同じです。
いずれ本戦が終わるときまでに、どれだけ勢力を拡大できるか、
それでもって、本戦後に有利な立場を占める、
天下への野心がどれほどのものか、
両者定かではありませんが・・・。

大河ドラマでどこまでどれだけやるのかわかりませんが、
関ヶ原の戦いのときの如水の動きにはワクワクさせられるんですよね。
(倹約、というかケチぶりをアピールしているので、
逆に大盤振る舞いする例のエピソードも出てくるはず)

別に架空戦記は好きじゃありませんが(荒唐無稽すぎる)、
当時、如水の置かれた状況は、
もとシミュレーションゲーマーの視点から見てもうらやましいものです。

フリーハンドでやらせると、ほとんど手勢もいなかったのに、
いつの間にか九州を席巻してしまう
(ネタバレになるのであまり詳しく書かない)、
秀吉との関係はともかく(あまりに創作っぽい)、
家康は真に恐れたと思います。

予想外に本戦が早く終わってしまい、
「百万石のお墨付き」が反故になったり、
「左手は何をしていた」と言ったりするわけですが、
後者はエピソードとしてはできすぎているかな、
と思う一方で、さもありなんという気もします。

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増補「関ヶ原の戦い・大名一覧」

東 南部利直 【なんぶとしなお】 天正四年(1576)-寛永九年(1632) 信濃守

■1.本拠、石高
陸奥国不来方(こずかた)城、10万石(南部七郡)

■2.略歴
彦九郎。初め晴直。父信直と小田原に赴いたときに、前田利家の加冠で元服してその諱を賜ったという。文禄四年(1595)、従五位下、信濃守。盛岡(南部)藩初代藩主。

南部氏は清和源氏義光流で、初代の光行が源頼朝に従って治承四年(1180)、石橋山の戦いで軍功があり、甲斐国巨摩(こま)郡南部郷を与えられて南部姓を称したのが始まりである。光行は文治五年(1189)のいわゆる奥州征伐でも戦功を立てて陸奥国糠部郡などに所領を与えられ三戸に入った。南部氏が陸奥に勢力を持つことになったきっかけである。

光行は加賀美遠光の三男で、母は和田義盛の娘(あるいは姉妹とも)とされる。光行の兄長清は小笠原氏の祖であり、遠光の兄信義は武田氏の祖である(系図には異説がある)。信義、遠光の曽祖父は源義光(新羅三郎、しんらさぶろう)で、義光の兄が源義家(八幡太郎)になる。

その後は一族が分かれるが、十三代の大膳大夫守行(禅高法師)が陸奥国司となった前後を除くと事跡がはっきりしない当主が多く、利直の父信直以前の系図も諸説あって確定していない。

現在の岩手県から青森県の下北半島に及ぶ南部氏の広大な版図は「三日月の丸くなるまで南部領」と言われた。歩けばそれだけ日数がかかるという意味であろう。それゆえに一族の争いも多く、利直の父信直も激しい争いの末、庶流から南部氏の家督を継いでいる。南部一族とされる九戸政実はこれに不満を抱いて反乱を起こした。折しも津軽では大浦為信が独立の動きを示しているときである。信直は豊臣政権の力を借りて九戸政実の乱を鎮圧するが、いち早く秀吉に通じていた大浦為信の独立は防げなかった。

信直は慶長四年(1599)、死去し、利直が家督を継いだ。

■3.関ヶ原の戦いでの動向
会津征伐では最上義光に属して米沢口の攻め手となり山形に駐屯するが、西軍の挙兵によりいったん居城に戻って領国を守った。のち上杉家の直江兼続の攻撃を受けた最上義光の救援に赴くが、領内の和賀・稗貫地方で一揆が起こったため再び領国に戻った。伊達政宗に使嗾されたという和賀主馬忠親のこもる岩崎城を落とし一揆を鎮圧するのは翌年のことである。

東軍に味方した功で所領を安堵され、戦いの翌年には西軍の武将四人(石川備前守貞清、宮部兵部少輔長房、岸田伯耆守忠氏、松浦安大夫宗清)を預けられた。

■4.その後
不来方(こずかた、のちの盛岡)での築城は信直の代に始まり、二代藩主重直の寛永十年(1633)に完成した。利直が盛岡城に移るのは元和元年(1615)で、それまでは福岡城(二戸市)に在城した。大坂の陣にも従軍するが、南部家中には豊臣方についた者もあり、戦後、利直が追及される原因となった。

弘前(津軽)藩には遺恨を抱いており、江戸幕府も基本的には両家を同席させないように配慮したほどである。参勤交代の際も弘前藩主は南部領を通過しないようにしていた。文政四年(1821)には南部藩士である下斗米秀之進が津軽寧親の行列の襲撃を企てている(相馬大作事件)。このとき襲撃者側が待ち受けたのは秋田藩領内である。

維新時は家老楢山佐渡の主張で奥羽越列藩同盟に参加、秋田藩(佐竹氏)に攻撃を加えたが、のち新政府軍に降伏した。最後の藩主であった南部利恭の子利祥は日露戦争に従軍して戦死している。



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南部晴政 【なんぶはるまさ】 永正十四年(1517)?-天正十年(1582)

戦国時代に南部氏の全盛期を築くのが晴政である。父は安信とされるが、実際に親子だったかはっきりしない。南部氏の一族間で争いがあって、晴政が安信を討って家督を継いだとする説もある。このあたりの系図は混乱しており(戦乱の中で焼失したという)、南部信直の父石川高信も晴政の弟、あるいは安信の弟(晴政の叔父)、安信の叔父という説がある。

晴政の時の南部氏最盛期を指してのことと思われるが、「三日月の丸くなるまで南部領」とは、誰が詠んだのかよくわからない。もしかしたら、逆に有名な人だろうか。ビジュアル的に、三陸(陸中)海岸沿いから内陸に領地を拡大していくシーンと思っていたが違っていたようで、南部領を歩き始めたときは三日月だったが、満月(十五夜)になってもまだ領内を歩いているほど広いという意味のようである。一日に20km歩いたとすれば、南北に優に200kmは超える領地である。

戦前に書かれた中里介山の未完の長編小説『大菩薩峠』の「白雲の巻」に「このまま三日月の円くなり、明月の三日月になるまで、南部領あたりを巡っていたかも知れないのです」との文章があるが、これがオリジナルとは思えず、もとは俚言、俗言の類だろうか。

『信長の野望・天翔記』で西国や中央の大名でプレイしていると、伊達や最上を滅ぼして東北を統一した南部家の騎馬大名が怒涛の進撃を見せて恐ろしかった。

晴政には男子がなく、いったんは信直に長女を娶せて養嗣子としたが、元亀元年(1570)に嫡男の晴継が誕生したことから、信直は後継の地位を退いた。しかし、南部家中では北信愛ら信直を支持する勢力や、九戸氏の勢力が対立するようになる。天正十年(1582)、晴政が死去すると直後に晴継も病死したが、信直側との内乱で殺されたとの説や九戸政実に暗殺されたとの説もある。なお、利直の母は晴政の長女ではないようである。

その後は信直を推す重臣と晴政の二女が嫁いだ九戸実親を推す九戸政実(実親の兄)が争うことになる。

『戦国人名事典』の南部利直の項を読んでいると、
「おりから領内の産金著しく財政に恵まれ近世的支配体制が進展した」とあります。

南部領に金山なんかあったかな、と思って、
『寛政重修諸家譜』を開いてみました。

慶長十七年、秀忠が利直の屋敷を訪れると、
いろいろなものを下賜しますが、その中に「白銀五百枚」というのがあります。

利直がお返しをするのですが、
「所領の白根山吹のこがね五十枚を献ず」(原文ママ)とあります。

「山吹(色)=黄金(色)」かと思いましたが、
続きを読んでいくと、「白根山で吹いた金」のようです。
白根山とは、尾去沢(おさりざわ)鉱山のことで、
現在では閉山していますが、地理的には秋田県鹿角市で、
青森県、岩手県、秋田県の県境になります。

次に、慶長十八年、利直は駿府の家康に拝謁しますが、
ここでも、「封内白根山に産する金若干を献ず」とあり、
さらに、「いとま申(す)のとき献ずるところのこがねのうち百三十枚を賜ふ」
とあります。家康に金(贈答用であれば大判か)を献上しますが、
キャッシュバックされたようです。

翌年の大坂冬の陣では、家康が次のような雑談をしていたのを伝え聞きます。
「日本の薫陸は南部領の産を以て第一とする」と。
そこで、今度は「貯ふるところの薫陸を献」じています。

「薫陸」とはあまり聞きませんが、「くんろく」と読んで、
香料、薬剤として使われる石のようなものです(樹脂)。
小判の仕上げに使われる薬剤の一つで、現在も岩手県で産出されます。
インターネットでも販売されているので、
検索してみると、どういうものか確認できます。

たしかに、『寛政譜』を読んでいると、金銀、というか、
金とその関係の物がザクザク取れていた印象を受けます。

大坂の陣では、家臣であった北信景(北信愛の養子)が南部十左衛門を名乗って、
豊臣方に味方し、その派手ないでたちから「南部の光り武者」と称されますが、
南部といえば、金が連想されたのでしょう。
なお、家中から豊臣方に味方した者が出たことは、
戦後、利直が追及される原因になります。
増補「関ヶ原の戦い・大名一覧」

東 津軽為信 【つがるためのぶ】 天文十九年(1550)-慶長十二年(1607※) 右京大夫
※正確には、西暦1608年1月

■1.本拠、石高
陸奥国堀越城、4.5万石(津軽三郡)

■2.略歴
扇、右京(亮)。慶長五年(1600)一月二十七日、右京大夫に任官。従四位下か。

もと大浦氏。藤原五摂家の筆頭である近衛前久に接近して、為信の祖父政信が近衛尚通(ひさみち、後法成寺、娘の慶寿院は足利義晴室で義輝、義昭の母)の落胤(あるいは猶子)であるとして藤原氏を称したが、もとよりこれは信じるに足らない。南部氏側の資料では、南部氏の支流である久慈氏のさらに支流とされる。

為信は伯父為則の娘をめとって大浦氏を継いだが、相続の経緯には不審な点が多い。父守信(武田甚三郎、紀伊守とも書かれる)は政信の二男(為則の弟)とされているが、没年も確定していない。為則には男子が二人いたが、のちにそろって溺死したという。これらは、為信の家督相続を正当化するために何らかの作為が行われたことが考えられる。

為信は南部氏の被官であったが、元亀二年(1571)、南部晴政の弟(叔父とも)である大仏ヶ鼻城(石川城)の石川高信を打ち破るなど、独立の姿勢を示す。なお、石川高信はのちに南部宗家を継いだ南部信直の実父だが、石川城が落城した年代や、この戦いで高信が戦死したかについては南部側の資料と相違がある。

天正十七年(1589)、家臣の八木橋備中を上洛させ、秀吉に鷹と馬を献上し、津軽三郡(鼻和郡、平賀郡、田舎郡)と合浦一円の所領を安堵された。翌年には為信自身が小田原攻め途上の秀吉に謁見している。南部氏に先んじて豊臣政権へ恭順する姿勢を示したことから、本領の安堵に成功したが、所領四万五千石のうち一万五千石は蔵入地(豊臣政権の直轄地)とされた。

この頃から近衛氏に接近して本姓を藤原氏にするとともに、津軽氏を称す。天正十九年(1591)、九戸政実の乱の鎮圧に従軍。文禄元年(1592)、朝鮮出兵では秀吉の本陣があった肥前名護屋まで赴いたとされる。同三年(1594)の伏見城工事に参加したというが、同年には居城を大浦城から堀越城に移しており、伏見から戻ると堀岡城に移ったようである。

■3.関ヶ原の戦いでの動向
長男信建は大坂城に在番させる一方、自らは三男信枚(のぶひら、「信牧」は誤記ではないか)と東軍に味方し、美濃大垣城攻めに従軍したとされるがはっきりしない。本戦を含めて、前後に名が見えない。大垣城攻めとは本戦と同日の戦いだろうから、本戦には参加せず、大垣城を囲んでいたのだろうか。

為信が津軽を留守にしている間に、尾崎喜蔵、板垣兵部将兼、多田(三目内)玄蕃の三将が謀反を起こし堀越城を占拠したが、金勘解由左衛門の子小三郎信則に討伐されている。

戦後は上野勢多郡大館二千石を加増され、四万七千石を領した。

■4.その後
慶長八年(1603)、弘前城の築城を開始(一応の完成を見たのは同十六年、二代信枚のとき、当時は「鷹岡城」「高岡城」と呼ばれ、「弘前城」と改名されたのは寛永五年)。

慶長十二年、大坂の豊臣秀頼警護の任にあった長男信建は病のため京で治療しており、為信は信建を見舞うために上洛するが、到着前に信建は死去し、為信自身も病により京で客死した。

長男信建と為信が相次いで死去したため、後継をめぐって家中騒動(津軽騒動)が起こった。信建の子熊千代(為信の嫡孫)と為信の三男信枚を擁立した家臣たちが分かれて争ったが、幕府の裁定により信枚が二代藩主とされた。

維新時は最終的に新政府軍に参加、廃藩置県を迎えた。

 

『信長の野望・天翔記』では、絶対に軍団長に任じてはならない三人のうちの一人とされた(ほかの二人は斎藤道三と松永久秀)。シリーズによっては暗殺の才能が光る。実力で津軽領を支配、独立したのだから、謀叛というのは酷な気もする。南部氏にとっては不倶戴天の敵だが、津軽地方にとっては郷土の英雄である。

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九戸政実 【くのへまさざね】 天文五年(1536)-天正十九年(1591)
左近将監。南部氏の家臣。天正十年に南部晴政、次いで子の晴継が死去する。政実は後継者に晴政の娘が嫁いでいた弟実親を推すが、同じく晴政の娘を妻とする石川信直と争って敗れる。同十四年にはみずからが南部氏の惣領であると自称。同十八年、秀吉の奥州仕置きが終わって、葛西・大崎らの旧臣が一揆を起こすと、東北地方の混乱に乗じて挙兵した。南部氏の家督を継いでいた南部信直はこれを独力で鎮圧できず、秀吉に援軍を求めた。蒲生氏郷らが率いる大軍に居城を包囲され、処刑された。

 

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最後の独立戦争。結果的には津軽為信の独立をアシストする形になった。上杉家に属した新発田重家にやや似たものを感じる。この人を描いた小説は少なくない。
増補「関ヶ原の戦い・大名一覧」

- 松前慶広 【まつまえよしひろ】 天文十六年(1547)-元和二年(1616) 志摩守

■1.本拠、石高
福山陣屋、無高(後世一万石格、維新時三万石格)

■2.略歴
幼名は天才丸、通称は新三郎、民部大輔。文禄二年(1593)、従五位下、志摩守。慶長九年(1604)、従五位下、伊豆守。若狭守季広の三男。母は河野弥治郎右衛門季通の娘。

松前氏は清和源氏若狭武田氏流の信広を始祖とし、代々蠣崎(かきざき)氏を称した。天正十八年(1590)、主筋に当たる安東(秋田)実季とともに上洛して、同年十二月二十九日(西暦ではすでに1591年)、聚楽第で秀吉に謁した。翌年の九戸政実の乱にはアイヌ兵を連れて従軍したという。

文禄元年(1592)、朝鮮出兵に際しては、はるばる肥前名護屋まで参陣、翌年、蝦夷地支配の安堵を受ける。これにより名実ともに安東氏(秋田氏)からの独立を果たした。秀吉死後は家康に接近する。慶長四年十一月七日(1599年)、家康に家譜と蝦夷地の地図を献上し、姓も「松前」に改める。これは松平(徳川)と前田から一字ずつ取ったとも言われるが、すでに「松前」の地名は存在しており、もとは地名に由来していると考えられる。

以前に「羽柴」についての考察のところで書いた。
http://naraku.or-hell.com/Entry/427/

■3.関ヶ原の戦いでの動向
慶長五年三月十五日、帰国を許されており、関ヶ原の戦いの時には在国していたと思われる。戦いへの直接の関与は不明。

■4.その後
慶長九年、アイヌ交易の独占権を認められ、また従五位下、伊豆守に叙任される。慶長二十年、老齢にも関わらず大坂の陣に従軍。この際、二男の忠広をともなっている。忠広はこれに先立って、慶長九年から秀忠に仕えており、旗本となった。翌元和二年(1616)十月十二日、松前にて死去。六十九歳(生年は没年からの逆算、数え年)。法名は永泉。妻は家臣である村上三河季儀の娘。

長男盛広(初名守広)は慶長十三年、父に先立って死去。盛広の子公広が後を継いだ。四男由広は大坂の陣で豊臣秀頼に誼を通じたとして、慶長十九年、父によって殺されている。

松前氏は蝦夷島主として、幕府からは賓客扱いであったが、五代将軍徳川綱吉の代に交代寄合となり、享保四年(1719)には一万石格の大名扱いとされた。

蝦夷地警備上の問題から、寛政十一年(1799)、および文化四年(1807)に所領を陸奥梁川などに移され、蝦夷地には幕府から松前奉行が派遣されることになった。その後、復帰運動が実を結んで、文政四年(1821)には福山(松前)に戻った。

戊辰戦争では最後の戦場となり、一時は福山城も落城したが、新政府軍の反撃で奪回し廃藩を迎えた(廃藩時は館藩に移っている)



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蠣崎季広 【かきざきすえひろ】 永正四年(1507)-文禄四年(1595)
松前慶広の父。卯鶴丸、彦太郎、若狭守。天文二十年(1551)、代々争ってきたアイヌと和睦。ハシタインを西蝦夷の奉行とし、チコモタインを東蝦夷の奉行とし、交易の法度も定めた。十三人の娘は家臣だけでなく、安東氏を初め、奥羽の諸豪族に嫁がせて、地位の強化を図った。これらはのちの松前氏の発展の基礎となった。

子慶広が秀吉から蝦夷地の支配を認められて直臣となったことをたいそう喜んだ。帰国した慶広に向かって「畏まって頭を低くして手を合わせ」「(自分は)河北檜山の屋形(安東氏)を主君と仰ぐのみ(だったが)、貴殿いま日本国の大将軍、太閤秀吉公の直忠臣と成れり」と言ったという(『新羅之記録』、原文は漢文。「新羅」は家祖とする新羅三郎義光のことで、義光は「八幡太郎」と呼ばれた源義家の弟)
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