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兵は拙速なるを聞くも、いまだ巧久なるを睹ざるなり(『孫子』)
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「戦国人物紹介」

■毛利元就4

 
 元就の謀略というとこんな感じである。
 
 元就と陶晴賢が争っていたが、元就の策略がみな晴賢に知られてしまう。どうしてこんなに策略が筒抜けになるのか不思議に思っていたところ、元就が日頃寵愛している琵琶法師が実は陶家に関係のあるものとわかった。
 さてはと思った元就、部将を集めて作戦会議を開くと、琵琶法師をともなって出席した。
 「次の合戦には丹比と宇品を結ぶ線に出兵しよう。もし晴賢が軍勢の一部を厳島に隠しておいて、わが軍の退路を断ち、前後から挟み撃ちをかけてくればわが軍は全滅だが、晴賢はこの作戦には気付いていない」
 と、まことしやかに言った。そして同時に精兵二千名を極秘裏に厳島へ派遣、木陰や谷間に隠れさせた。
 琵琶法師がさっそくこのことを晴賢に密告したのは言うまでもない。
 報告を受けた晴賢は部将に命じ、軍勢三千名とともに厳島に急がせた。軍船に分乗した陶軍が厳島に到着、いまや上陸しようとした時である。毛利勢の伏兵二千名が三手に分かれ、雪崩のように襲ってきて陶勢は大敗した。
 作戦会議には重要な部将でなければ出席できないはずのものを、琵琶法師のようなものにその内容を知られ、軍の機密が敵方へもれていたのは、武将としての元就の未熟さであるが、元就は敵のスパイを逆に利用して大勝利を得た。つまり元就は災いを転じて福としたのである。
 こういうところが、毛利元就の優れた点であった(『武将感状記』)
 
 ここで描かれているのは晴賢が自刃した「厳島の戦い」ではなく、他の戦いでの出来事を厳島に移していると思われているが、元就の謀略となると、敵方のスパイを逆に利用したり、筆跡をまねて内通の書状を偽造したりと、相手の心理を巧みに読んだ(裏をかいた)情報戦の類が多い。
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「戦国人物紹介」

■毛利元就3


注:最初から話がそれますが、毛利元就の第3回です!
(携帯端末からだと中国人の字が一部出ないのはごめんなさい)

秀吉の「軍師」と言えば、後世に「二兵衛」とも「両兵衛(りょうべえ)」とも謳われた、竹中半兵衛(名は重治)と黒田官兵衛(名は孝高、よしたか。号の如水でも有名)であるが、どちらの方が好きかと言われれば、私は迷わず後者を挙げる。

能力からすれば竹中半兵衛の方が一枚も二枚も上なのだが、内心では秀吉の元で働くことを嫌っており、出家したかったが果たせぬまま死んだ、という話もあるように、あまりに聖人っぽくて隙がない。一方で、黒田官兵衛と言えば、信長が死んだと聞いて嘘泣きしている秀吉の耳元で「ご武運が開けましたぞ(天下取りの好機ですぞ)」などと言ってしまって、秀吉に生涯警戒され続ける二流の人である。こちらの方が俗っぽいというか、人間臭い(これらの逸話もどこまでが真実かあやしいが、特徴を捉えていると思わせる逸話ではある)

漢の高祖(劉邦)の軍師である張良(天下統一後は政権から離れた)と陳平、蜀の劉備の軍師である「伏龍鳳雛」こと諸葛亮(孔明)と龐統(ほうとう)なども、後世の人はうまくカラーを分けて描いたものだと感心する。少しくらいブラックな部分があった方が人を引き付けるのである。

同じく中国には「孫呉の兵法」というのがあって、「孫」は言うまでもなく孫子。孫武、孫臏(そんぴん)の二人がいたと言われる。後者の方はライバルにはめられて足斬りの刑に遭うも、のちに復讐を果たすという苦労人だが、孫武は完全無欠過ぎて面白味を欠く。「呉」は呉起という人物で、魯・魏・楚の各国で重用されて功を立てた。彼の「道理」は他の人の常識とは少し変わっており、そのために苦労することになる。最期もまた劇的である。

さて、毛利元就の話に戻って、元就が尼子氏と争っていたときというから、1560年代のことであろうか。元就の家臣で岩木源六郎道忠という者が膝を矢で射られ、矢尻が抜けずに苦しんでいた。医者を呼んだところ、医者は「膝を切らなければ治らない」と言う。すでに傷が膿んでいたのである。それを聞くと元就は道忠の傷にかぶりつき、膿とともに矢尻まで吸い取ってしまった。道忠が感激したのは言うまでもない。

ただ、この話、呉起の話と似ている。呉起の話はこうである。

呉起は兵を率いる将軍の身分であったが、陣中にあっては兵と同じ者を食べ、同じ所に寝て、兵の中に傷が膿んだ者がいると、膿を自分の口で吸い出してやった。ある時、呉起が兵の膿を吸い出してやると、その兵の母親が嘆き悲しんだ。周りの者が、将軍様が自らあんなことをされているのに、どうして悲しむのだと言うと、母親は言った、「あの子の父親も将軍様に膿を吸っていただいて、感激して敵に突撃して戦死しました。あの子もきっとそうなるだろうと嘆いていたのです」と。呉起の兵は命を惜しまずに戦ったので強かったという。

吉川元春の戦歴(一説に七十六戦して六十四勝、十二の引き分け、負けはなし、とされるが実際には負けた戦いもある)が呉起と同じという指摘もあり、後世になって、毛利藩の博識な人間あたりがこのへんの話を創ったのではないかとも想像されるのだがどうだろう。
「戦国人物紹介」

■毛利元就2


1551年、中国地方を揺るがす大事件が起こります。大内義隆の家臣である陶晴賢(隆房)が謀反を起こし、義隆を自害に追い込んだのです(大寧寺の変)。翌年、晴賢は大友宗麟の弟である晴英を大内家の当主大内義長として迎え、傀儡政権を築きます。元就はこれを静観しつつ、備後、石見方面へ勢力を拡大、また尼子氏に謀略を仕掛け、当主晴久の叔父であり武勇に秀でた新宮党の国久、その子誠久を粛清させています(近年では晴久が尼子宗家の支配力強化のために自主的に行ったという説が有力)。

1554年、吉見正頼(室は大内義興の三女)が晴賢に反旗を翻すとこれに呼応し決起。翌年、晴賢は自ら大軍を率いて厳島の宮尾城を攻撃すべく厳島に上陸しますが、元就は陶軍に奇襲をかけて晴賢を自刃に追い込みます(厳島の戦い)。

以後は防長二国の攻略を進め、1557年には大内義長を討って大内氏を滅ぼしました。その後は北九州の支配権をめぐって大友氏と争い、一方で尼子氏と中国地方の覇権をかけて争います。尼子氏との戦いは、1566年に尼子氏の本拠である月山富田城を陥落させ、中国平定を成し遂げます。1571年に死去、七十五歳。生涯に戦った合戦は確認されるものだけで大小二百を超えるとされており、戦国時代だけでなく、世界的に見ても比類がありません(信玄や謙信でも百戦に達していない)。

厳島の戦い
陶晴賢を討つべく決起した元就だが、陶方の兵が二万を超える一方、毛利側の兵は四千でしかなかった。ここに元就は謀略の限りを尽くすことになる。まずは陶氏の重臣の江良房栄に内応の調略をかけるが、これを拒否されると、「房栄が元就と内応している」と虚偽の情報を流し、晴賢に房栄を殺させることに成功する。 陶方との決戦の機運が高まると、厳島に宮尾城を築き、陶方から寝返った二将に守備を任せ、「厳島に兵力を割いたのは失敗だったかもしれない」と虚報を流した。また重臣の桂元澄に「晴賢が厳島を攻めれば背後から元就を攻める」と神仏に誓った書状まで書かせ、晴賢を厳島に誘った。狭い厳島に大軍が上陸すれば身動きが取りづらくなると読んでのことである。さらに伊予の村上水軍の協力も取り付け、陶軍と戦う準備を整えた。

1555年9月21日、晴賢は自ら兵を率いて厳島に上陸し、宮尾城への攻撃を開始した。毛利軍は30日に暴風雨の中、海を渡り、翌日の夜明けから、元就・隆元・元春の主力と隆景の別働隊が陶軍を挟撃。陶軍は総崩れとなり、晴賢は厳島からの脱出を図ったが、海上は村上水軍に制圧されており、逃げ切れなくなった晴賢は自害して果てた。

日本三大奇襲の一つとされるが(他は河越夜戦と桶狭間の戦い。ただし桶狭間の戦いは奇襲ではない)、後世の軍記物の影響を受けており、実際の戦況がどのようなものだったか、正確にはわかっていない。ただ、この戦い以後、大内家は急速に衰退し、毛利家が勢力を伸ばしていくことになる。
「戦国人物紹介」

■毛利元就1

037 毛利元就 【もうりもとなり】
 1497-1571

松寿丸、少輔次郎。治部少輔、右馬頭、陸奥守、従四位上。

前にも書きましたが、何代か続いた家というのはその家の通字を持つことが多くあります。伊達家であれば「宗」の字。島津家であれば「久」の字。どちらも鎌倉時代以前から続き維新までを生き抜いた名門中の名門ですが、名前は主従関係を表すこともあって、上位の人の下の字を賜って、自分の上の字とし、下に通字をつけることがあります。伊達政宗の父は輝宗という名前ですが、上の「輝」は足利義輝から、下の「宗」は伊達家の通字です(ちなみに、独眼竜政宗の「政宗」は先祖と同じ名前)

徳川将軍家の通字は「家」ですが、将軍は武家の頂点に立つので、この「家」の字は名前の上に来ます(足利家の「義」と同じ)。ただし、養子が入るとこの限りではありません。五代将軍綱吉は兄である四代将軍家綱から一字を賜っています(弟といっても家臣である)。八代将軍吉宗は紀州から養子入りしましたが、言うまでもなく、「吉」の字は綱吉の「吉」から来ています。

さて、毛利家の系図をつらつらと見ると、この家の通字は何という字なのか悩むところですが、先祖の鎌倉時代の大江広元(公家出身の政治家で源頼朝に招かれて公文所(政所)の初代長官(別当)となる)から来ているのか、「元」、あるいは「広」の字となりそうです。輝元の子秀就(豊臣秀吉、ではなく秀頼から一字)あたりからすでにこの通字はあやしくなっており、幕末の藩主敬親に至っては原形を留めていません(一時、将軍家慶から一字を賜って慶親と名乗るが、長州征伐により剥奪されて敬親に戻る)。

元就の周辺の人物を見てみると、父は弘元(大内政弘より一字)、兄は興元(大内義興より一字)、長男は隆元(大内義隆より一字)と、みな大内家の当主から一字を賜って名前を付けています。一方で「元就」は通字の「元」の字が上に来ていますが、これは彼が長男ではなかったことを表しています。

父、兄とも酒毒が元で早世したと言われ、1523年、兄の子幸松丸も幼少で亡くなったことから、元就が毛利家の後継として家臣に推挙されることになり吉田郡山城に入城します。こういう形で家督を継ぐと、当主の権力基盤が弱くなることは武田信玄や上杉謙信の時にも書きました(絶対権力者のように思われている彼らも家臣の推戴により当主の地位に就いたため、家臣の意向に振り回されることも多かった)。現に元就の場合も、異母弟の相合元綱を擁する家臣の一部が尼子経久の勢力を借りて反旗を翻したため、これを鎮圧して毛利家家督を確固たるものにしています。この頃の毛利家は安芸吉田庄の国人領主(在地の武士)に過ぎず、東西を大内、尼子といった大勢力に挟まれていました。毛利家は尼子家の庇護を受けていた時期もありましたが、これを機に元就は大内義隆に臣従を誓うことになります。

1540年には三万の尼子軍に居城吉田郡山城を囲まれますが、三千の兵を集めて籠城、大内家の陶晴賢の援軍もあり、尼子軍を退けます。こののち、瀬戸内海に水軍を擁する竹原小早川氏に三男の隆景を、妻の実家でもあり山陰の豪族である吉川氏に二男の元春を養子として送り込み、謀略同然に両家の乗っ取りを果たしています。いわゆる毛利両川(りょうせん)と言われる二つの分家を山陽、山陰に展開し、中国地方の制覇に乗り出していくことになります。



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家紋は一文字三つ星(いちもんじにみつぼし)紋。

同族の越後北条(きたじょう)氏も同じ家紋である。


戦国最高の謀将。「謀神」とは近年つけられた渾名であろう。

ただ、策略家につきものであるダークなイメージは少ないが、

これは「三本の矢」に代表される一族の団結を訴えた家族愛のせいだろうか。
「戦国人物紹介」 毛利家についてのイメージ

毛利と言ったら毛利元就なのである。異論は認めない。元就を完コピしたような小早川隆景という極めて優秀な三男はいるが、毛利と言ったら、何をおいても毛利元就しかいないのである。この傑出した才能が大内、尼子の二大勢力を制して中国地方を支配し、維新の原動力となった長州藩の礎を築いたのである。

書きづらい毛利家
さて、そんな毛利家(毛利元就)であるが書きづらいのである。上杉や武田は一定のニーズがあるので書く分にはいい。上杉なんかは家臣の直江兼続をひっぱり出してきても、配役に妻夫木聡や当時の人気子役だった加藤清史郎クンなどを当てれば、数字が取れるのである(「天地人」の平均視聴率は20%を超えた)。武田家も「武田信玄」だけでなく、山本勘助バージョンもあった。ちなみに、NHKの大河ドラマの話をすると、地方の一大名に過ぎなかった伊達政宗(渡辺謙)を発掘してきてメジャーにしたのは見事と言える。

それらに比べると、毛利はちょっとリスキーである。大河ドラマもかなり前だし(1997年、ただし、平均視聴率は「天地人」よりも高い)、主役の中村橋之助も微妙なところである(個人的には「真田太平記」での向井佐助役のイメージが強かった)。

毛利ブームというのも来ない気がするのだが、一つには元就が戦国時代の早い時期(1571年)に退場したというのがある。武田にしても上杉にしても、伊達でさえも天下人(信長、秀吉、家康)との絡みがあるのだが、元就の場合はないのである。信長と争ったのは孫の輝元である。天下人の三人を扱った作品は多いが、そこに元就は登場しない。これは知名度という点で大きく不利となる。

「毛利元就?」「あのおじいちゃん武将?」「三本の矢?」…世間のイメージはこんなところである。

一方で、幕末の志士たちは大人気である。正面切って徳川幕府を倒そうと現実に行動したのは毛利家の長州藩だけである。薩摩も倒幕派ではないか、と言われそうだが、実は薩摩は当初は佐幕派(幕府寄りの態度)だったのである。内から幕政を改革しようとした薩摩(篤姫の輿入れもこの一環)は、1864年の禁門の変(蛤御門の変)では会津とともに長州軍を破っている。長州はこの二藩を憎み、「薩賊会奸」と言ったという。長州と薩摩は相容れなかったが、倒幕のために手を結んだのが薩長同盟である。

幕末の毛利家藩主
しかし、維新の立役者として、長州の高杉晋作や木戸孝允(桂小五郎)といった名前は出てきても、肝心の長州藩主となるとあまり知られていない。薩摩における幕末の藩主、島津斉彬や島津久光(藩主忠義の父)に比べると知名度が低い。毛利家の実質的な最後の藩主は毛利敬親(たかちか)という人物だが、何事にも「そうせい、そうせい(そのようにせよ)」と言ったという逸話から「そうせい侯」のあだ名がある。主体性を欠いた暗君として批判的に使われることが多いが、これは他藩からの揶揄のようで、実際は家臣を自由に働かせて維新を成し遂げた名君と見ることができよう。

明治になっても江戸時代の藩主はそのまま存在していたが、彼らが土地と人民を天皇に返上したのが版籍奉還である。のちの廃藩置県に続く改革で、要は社員が社長を首にするという話なのだが、この改革を進めたのが薩摩の大久保利通と長州の木戸孝允である。他藩に率先して長州藩が版籍を奉還する範を示す必要があると考えた木戸は主君である毛利敬親(当時の藩主は養子の元徳)のもとに赴いた。敬親はあっさりと了解したが、木戸を呼びとめて、時機を見計らうように注意したという。また薩摩を説くように話し、これが薩長土肥の四藩主が奉還を出願することにつながる。他藩主もこれにならうこととなり、版籍奉還が実現した。機を見るに敏な大器だったのではなかろうか。
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