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兵は拙速なるを聞くも、いまだ巧久なるを睹ざるなり(『孫子』)
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「戦国人物紹介」

武田勝頼・4の補足 死ぬまで戦う人たち


文中で「○○氏」と「○○家」とあまり意識しないで使い分けていますが、「○○氏」は何代も続く家、「○○家」は一代(個人名に置き換えてもいい)くらいの意味合いと思ってください。厳格に使い分けているわけではありません。「徳川氏」と言っても実際には徳川家康のことになりますしね。

長篠城の籠城
奥平氏は小勢力の悲しさで、今川氏から徳川氏、さらに武田氏に仕えて、また徳川氏に仕えていますが、このときに武田家に差し出していた人質を殺されています。こうなると、勝頼に城を囲まれても、降伏するわけにはいきません。家康と信長の援軍が来るまでなんとしても耐え抜かなければならなくなります。籠城を耐えて、長篠の戦いの勝利を導いた奥平信昌は、のちに家康の娘亀姫を与えられています。
 
奥平家、徳川家から見れば、落城必至のところを奮戦して守り切った、ということになるのでしょうが、勝頼からすれば、あまり早く長篠城を落としてしまうと、織田軍が引き返してしまう可能性もありましたから、攻城にしても本腰は入れていなかったという側面はあります(となると、勝頼は織田軍との「決戦」を望んでいたことになる)。高天神城の例を引きますが、このときは織田軍が到着する前に勝頼が高天神城を落としてしまい、織田軍が引き返しています。信長も中央での戦に追われて、なかなか家康を助けに行ける状態ではありませんでした。

織田・徳川、武田両軍が大きな兵力を率いていたとしても、「決戦」になるとは限りません。ただ、織田軍の援軍が間に合わず、武田家にやられっぱなしということになると、信長の信用も失われますから、勝頼としては、そのような戦略を目指すのも悪くはなかったのかもしれません(「たら、れば」の話になってしまいますが)。
 
姉川の戦いや第四回の川中島の戦いなどは例外で、戦国大名は相手だけではなく、自分の損害も大きくなる「決戦」は避ける傾向にありました。逆に、山崎の戦いや賤ヶ岳の戦いなど、天下の覇権を賭けた戦いでは決戦が増える傾向にあります。負ければ終わりですから、両軍とも率いることができるだけの兵力を集めて、文字通り、最後の一戦である「決戦」に挑むわけです。関ヶ原の戦いでも本戦に至るまでには各地で戦いが繰り広げられましたが、東西両軍の本隊が関ヶ原で戦って雌雄が決すると、(東北や九州などでは戦いが続いたが)実質的な戦いは終了しました。
 
決戦する人、しない人
http://naraku.or-hell.com/Entry/316/
 
岩屋城の玉砕
高橋紹運はもと吉弘氏で、吉弘氏は大友氏の庶流ですから、一族という意識があって玉砕したのかもしれませんが、子である立花宗茂を助けるための時間稼ぎという面も大きかったのではないでしょうか。島津軍は岩屋城を落とすのに多数の兵士と時間を失い、態勢の立て直しにもまた時間がかかりました。次いで立花宗茂のこもる立花山城を攻めますが、秀吉の援軍が到着して時間切れ。九州統一の野望は寸前で絶たれました。
 
三方ヶ原の戦い
武田軍が二百人程度の死傷者だったのに対し、徳川、織田軍はわずか二時間ほどで二千人以上の死傷者を出して敗れました。連合軍が一万人余だったことを考えれば、死傷者の割合が二割に及んだことは割合としては高い方です(通常はここまで損害を受ける前に兵を引く)。家康の身代わりとなって死んだ夏目吉信や鈴木久三郎の「美談」が残っていますが、武将級で死んだのは織田軍では平手汎秀(諌死した政秀の三男、あるいは孫)、徳川軍では元二俣城主の中根正照くらいでしょうか。
 
信玄とすれば、浜松城の目の前を素通りして徳川軍をおびき出し、一戦して叩いて、以後出てこないようにすれば戦略的な目標は達成されました。家康としては、武田軍に領内の通過を許して、しかも一戦も交えなかったとなれば、ほかの領主からの信用を失ってしまいます。戦闘をしても勝てる見込みがないことは誰の目にも明らかでしたが、やらなければ家康の面子にかかわるのです。家康としては一撃離脱が目標でしたが、目標を理解しない(あるいは理解していても守ろうとしない)先鋒が戦術的に先走ってしまったというところでしょうか。ともかく、惨敗はしましたが、その後の信玄の死去、武田軍の撤退もあって、家康の面目は保たれたようです。

後に、「あの」信玄と戦ったという戦歴は家康の武名を高めることになります。

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「戦国人物紹介」

島津氏に行く前に、ちょっと番外編

 
なぜたびたび武田家について書くかと言うと、この家が「典型的な戦国大名」だからです。ただ、一般的に「典型的な戦国大名」と言うと、織田信長のような専制的な君主(独裁者と言い換えてもいい)を連想してしまいますが、それは少し異なります。武田信玄や上杉謙信も偉大な個性ではありますが、信長とは内実が異なります。ほとんどの戦国大名は在地領主の集合体の上に乗っかっていたに過ぎません(と書いてしまうと、やや言い過ぎですが)
 
(繰り返しになりますが)信長は家臣の生殺与奪の権を握って、独裁者として振る舞いましたが、ほかの戦国大名もそうだったかというと、そんなことはありません。信玄や謙信のときにも書きましたが、彼らは家臣に擁立される形で当主の座に就きました。絶対的な権力を築こうとする当主と、当主を自分の意のままに操ろうとする家臣の間には緊張感が存在していました。秦の始皇帝でも似たような話があります。時代が変わっても人間の根本的なところは変わりません。
 
武田勝頼・4 誰のために戦うのか?
 
武田信玄というと、卓越した戦術家であって、戦略家でもあり、また政治にも長けていました。これは信玄を好きか嫌いかにかかわらず評価せざるを得ません。軍事における手腕は芸術的と言ってもいいほどで、三方ヶ原の戦いでの圧勝はその極致と言えるものでしょう。この人の魅せる手品(詐術と言ってもよい)は当時の人だけではなく、後世の人も惑わせるほどで、徳川幕府下での神格化も含めて、実力以上に評価されている感は否めません。
 
家中統制においてもしかりです。家臣たちの目を外部に向けさせ、拡張戦争を繰り返し、自主性の強い家臣たちをうまくまとめあげました。支持率を上げるためには対外戦争もいとわない、アメリカの大統領のようではありませんか。
 
冷戦における世界の構造
さて、1945年、第二次世界大戦後に始まり、1989年に崩壊した「冷戦」ですが、ほんの二十数年前まで、世界はアメリカ(アメリカ合衆国)を盟主とする自由主義陣営と、ソ連(ソビエト社会主義共和国連邦)を盟主とする社会主義陣営とに二分されていました。子供のころは、いつ全面的な核戦争が起こって人類が滅ぶのかと不安でした。
 
自由主義陣営はアメリカや西欧の国を中心とし(「西側」とも呼ばれる)、社会主義陣営はソ連や東欧の国を中心とし(「東側」とも呼ばれる)、各国を自らの陣営に取り込もうと、互いに勢力を競い合っていました。冷戦構造の中で特徴的なものが、安全保障についてです。例えば、日本では日米安全保障条約が結ばれていますが、当時の想定としては、東側の国(ソ連や中共)に攻撃された場合に、アメリカが日本の防衛に協力してくれるというものでした。早い話が「うちの舎弟に手を出したら、親分が黙っていないぞ」ということです。
 
戦国時代の構造
話を戻して、戦国時代にも同じようなことが言えます。中小の領主(領地もあれば家臣もいる)は単独では生き残っていけません。もっと大身の大名に保護してもらわなければ領地や家臣を維持できません。武田勝頼に属する領主であれば、ほかから攻められたときに、勝頼の救援が来なければ、降伏するしかありません。勝頼のために死ぬまで戦おうという頭はないのです。基本的に、武田家のために、織田や徳川の兵を一人でも多く倒して玉砕しよう、などとは考えません。コンピュータのゲームとは違うのです。
 
武田家滅亡時には仁科五郎盛信(勝頼の弟、高遠城で自害)や武田信豊(典厩信繁の子、小諸城で自害)のような例もありますが、武田信廉(信玄の弟)や穴山梅雪(母は信玄の姉で妻は信玄の娘、親族衆の筆頭)のように、武田家の一族にも勝頼を見限った人々がいます。補足で後述しますが、長篠城の奥平信昌や岩屋城の高橋紹運の場合は例外と言えるでしょう。
 
「忠臣は二君に事えず(つかえず)」(原典は『史記』で中国の戦国時代の話から)や「御家大事」といった、江戸時代に一般化される「家」の概念は、戦国時代にはまだ確立されていません。自分の命を投げ出してまで尽くすことはないのです。大名の下にはこういった中小の領主が数多く存在していました。
 
しかし、勝頼の方は、攻められた領主を助けにかなければなりません。ほかの領主たちは、自分たちが攻められたら、勝頼は助けに来てくれるのだろうかと疑心暗鬼になるでしょう。長篠での惨敗後も武田家は七年続きましたが、高天神城を見殺しにした勝頼の信用は地に堕ちます。信玄の娘が嫁いでいた木曽義昌が織田方の調略に応じ、武田家から離反。これを機に織田、徳川、さらには北条家が武田領に侵攻すると、家臣たちの離反が相次ぎ、高天神城の開城から一年、織田家などの侵攻からわずか一か月で武田家は滅亡に至ります。
 
「戦国人物紹介」

鍋島直茂の妻の話

 
直茂の正室(勝茂らの母)は肥前石井氏の出身で陽泰院という(名は彦鶴。彦鶴姫という)。父は石井兵部少輔忠常(常延)。石井氏は石井党という武士団を率いて活躍し、一族も繁栄した。石井忠清の五子はそれぞれ家を立て、長男家(嫡男家)、次男家(二男家)、三男家、四男家、五男家と呼ばれた。陽泰院は長男家の出で、忠清の子が忠常である。
 
『葉隠』によれば二人の出会いはこうである。
 
龍造寺隆信、鍋島直茂らが出陣の途中に、石井忠常の屋敷に立ち寄って食事を取ろうとした。石井家では突然の来訪に慌てて食事の準備をすることになり、鰯を焼いてもてなそうとしたが、人数が多く間に合わない。それを見ていた忠常の娘陽泰院は、侍女たちを押しのけて、かまどの火を出して拡げ、その上に鰯を移して一気に焼き上げた。これを見ていた直茂、「あのような機転の利く女性を妻にしたい」と思い、以後、石井家に通うようになる。石井家の家臣に怪しまれたり、盗人扱いされたりもしたが、しばらくして結ばれることになった。
 
秀吉が朝鮮出兵で名護屋に在陣したときに、九州諸将の妻女を招いたが、秀吉の女好きは有名である。陽泰院はわざと額の髪を真四角に剃って(角が生えたように見せて)、異様な化粧をして現れた(醜いふりをした)。これには秀吉も驚いて、二度と彼女に会いたいとは言わなくなったという。
 
前田利家の妻芳春院、山内一豊の妻見性院などと並ぶ賢婦人と言っていい。
 
鍋島氏の「乗っ取り」をもう少し考える
 
「病により」政務が執れないとは、どこかの法務大臣のようだが、隠居させる理由(隠居する理由、ではない)としては十分である。龍造寺政家がみずからそう言ったとは考えづらいし、直茂が言わせたというのも無理がある。重臣たちから直茂に国政の委任があったというのが実際のところではないだろうか。これが豊臣政権にも認められ、直茂は龍造寺氏の「家督代行者」とみなされるようになった。子勝茂が龍造寺氏の跡を継いだのも同じであろう。勝茂は徳川政権に認められて初代佐賀藩主となった。この際、家臣から勝茂に忠誠を誓う起請文を出している。
 
龍造寺家の家督は政家の子高房が継いだが、1607年、高房が自害し、政家が急死すると、遺領を含めた所領は龍造寺氏の血を引く勝茂が継ぎ(相続し)、ここに鍋島氏の佐賀藩三十五万七千石が成立する。勝茂は佐賀藩初代、直茂は藩祖とされる。
 
ちなみに、高房の子がのちの龍造寺伯庵である。1607年には四歳で、龍造寺家は御家断絶扱いとなった。家光の代になって龍造寺家の御家再興を求めるが、願いは聞き届けられず、会津藩の預りとなった(実質的な配流処分)。
 
秀吉は、上杉景勝の家臣である直江兼続に米沢三十万石を与えて、自らの家臣に誘ったことは知られているが、この分断戦略とでも言おうか、大名の力を弱めることにかけては秀吉は巧みである。それは九州の仕置(戦後処理)にも見ることができ、大友氏の家臣であった立花氏は独立大名となっており、龍造寺氏の実質的な支配は鍋島氏に移っている。島津氏も兄弟が分裂の危機にさらされたが、結束を保って、付け入る隙を与えなかった。
048 鍋島直茂 【なべしまなおしげ】 1538-1618 (後編)
 
1587年、秀吉の九州攻めに従い、龍造寺政家は肥前本領三十二万石を安堵され、直茂も肥前神埼郡に四万五千石の所領を賜り、翌年、長崎の代官となった。1590年、政家は病気のため、隠居して家督を子高房に譲ったが、国政は直茂に委ねられた。朝鮮出兵では豊臣政権から龍造寺家臣を率いて渡海するよう求められ、子勝茂とともに加藤清正に属し戦っている。直茂は龍造寺氏の血を引くが、最後まで龍造寺氏を称することはなかった(龍造寺氏の家老になったこともないとされる)。
 
秀吉の死後は家康に接近、関ヶ原の戦いでは直茂は肥前に在国した。勝茂が伏見城攻め、伊勢安濃津城攻めに加わっているが、本戦には不参加。直茂は帰国した勝茂とともに毛利(小早川)秀包の久留米城を攻め、さらに立花宗茂の柳川城を攻めるなど東軍としての行動を取る。戦後は黒田長政を通じて謝罪し、龍造寺氏の所領も合わせた佐賀三十五万七千石の安堵に成功している。この間、龍造寺高房は堪忍料として八千石を与えられていたが、1607年に自殺。ただちに勝茂が所領を安堵され、鍋島氏の支配を確立した。勝茂は大坂の陣でも直茂の名代として参加。島原の乱にも従軍している。
 
勝茂以降の藩主は鍋島氏一族から三支藩(蓮池、小城、鹿島。御三家ともいう)を創り、龍造寺氏の嫡流(村田氏を名乗った)を含む四家を親類、庶流を親類同格(龍造寺四家)として服属させた。
 
鍋島氏は外様大名の多くが改易される中でも所領を維持したが、これら一族などの所領が多く(本家は六万石に過ぎなかったという)、手伝普請や長崎防備などで藩財政は窮乏した。また、文治主義でも知られ、「武士道とは死ぬことと見つけたり」(誤解されているが、何かあったらすぐ腹を切るということではない)の一節で知られる『葉隠(はがくれ)』は有名である。
 
幕末に鍋島直正(閑叟、かんそう)が出て、藩財政を立て直し、アームストロング砲の製造や大型船の建造など、佐賀藩を幕末維新の雄藩とした。しかし、藩論が倒幕に統一されたのは1867年と遅く、倒幕勢力としての活躍はほとんど見られない(「日和見」と言われた)が、彰義隊の戦い以降、最新式の兵器を使用して旧幕府軍を圧倒した。新政府では直正自身、議定に就き、江藤新平、大隈重信、副島種臣、大木喬任らを送り込んで存在感を示した。薩長土肥の「肥」は肥前佐賀のことである。ただ、1871年に直正は死去、1873年、征韓論(明治六年の政変)に敗れた江藤新平や副島種臣が下野、続く佐賀の乱で江藤新平が刑死したことから、旧佐賀藩の影響力は弱まった。



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ゲームにおいても、九州では手に入れたい人材の一人。

次回は直茂の妻の話と、「乗っ取り」についてもう少し考えてみます。
龍造寺家を乗っ取って、佐賀藩を築いたのが鍋島直茂である。秀吉が織田家を乗っ取ったようなものだが、直茂には乗っ取りに付きまとう黒い印象がない(ほとんど血が流れていないこともある)。人柄と言ってしまえばそれまでだが、家臣たちが、直茂ならば自分たちを路頭に迷わせることはしない、と選ぶだけの人物だったのだろう。また、直茂もそのように振る舞った。龍造寺の嫡流は執拗に潰したが、庶流は重臣として遇している。
 
なぜ、直茂が龍造寺隆信の嫡男政家を差し置いて、藩主(普通、直茂を藩祖、子勝茂を初代藩主とする)となりえたかである。秀吉や家康の意向が働いているとはいえ、無能では当主の座は務まらない。隆信の横死後、龍造寺家の家政を執った(「執政」と呼ばれる)のが直茂である。政権の命によって朝鮮に出兵するにしても、指揮する人間が必要である。龍造寺一族も含めて、その任に直茂を選んだということである。下手に幼君や暗君が出て失態を犯せば、秀吉や家康によって改易されないとも限らない。こうして、最終的には政権によって、直茂の乗っ取りは承認、正当化された。
 
048 鍋島直茂 【なべしまなおしげ】 1538-1618 (前編)
 
幼名は彦法師。通称は孫四郎。名は信安、信真、信昌、信生(のぶなり)とも。左衛門大夫、飛騨守、加賀守、従五位下。父は清房、母は龍造寺家兼の子家純の娘。
 
鍋島氏はその祖を少弐氏(藤原姓)につなげているが、龍造寺氏の重臣として台頭する以前ははっきりしない。肥前佐賀郡鍋島村に住んで鍋島氏を称した。1530年、少弐氏に属す龍造寺家兼が大内氏の杉興運と戦ったときに、赤熊一揆の姿で敵を攪乱して勝利をもたらしたのが、鍋島清久・清房父子である。この戦功により、清房は家兼の子家純の娘を与えられている。
 
1538年、直茂は肥前本庄に生まれるが、1541年、少弐・龍造寺・千葉三氏が有馬氏に対抗するため、小城郡の千葉胤連の養子とされた。1545年、少弐氏によって龍造寺氏の多くが謀殺され、両氏の対立が表面化すると、養子縁組を解消して実家に戻った。1556年、隆信の母慶誾尼が父清房の後妻となったため、隆信の従兄弟であると同時に義弟となり、龍造寺氏の家臣団の中でも、一族に次ぐ別格の存在となった。
 
1569年、大友宗麟が佐賀に侵攻してくると、毛利氏の来援を予想して籠城を進言。翌年の再侵攻では今山に布陣した宗麟の甥親貞に夜襲を敢行し、親貞を討ち取って大友氏を退けた。その後は隆信の子政家を補佐するが、実権を握る隆信にも従って、肥前統一、三強鼎立に貢献する。『寛政重修諸家譜』によればこのようである(適宜、かなづかいを改めた)、「九州所々において敵をうち、軍をやぶり、城を落とすこと二十度に及ぶ。あるいはみずから剣戟をとり、剛敵を破り、首級を得る事あげてかぞうべからず(数えることができない)」
 
1584年、自身は反対していた沖田畷の戦いに従軍するが、隆信が戦死すると、兵をまとめて佐賀に引き上げ、島津軍と徹底抗戦する構えを見せた。これにより島津氏は佐賀への侵攻を断念したが、龍造寺氏の領国は急速に崩壊。隆信の跡を継いだ政家は島津氏と和睦し、屈服を余儀なくされた。
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