忍者ブログ
兵は拙速なるを聞くも、いまだ巧久なるを睹ざるなり(『孫子』)
×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

「戦国人物紹介」

信玄も書面で対面を望んだ名将
 
043 立花道雪 【たちばなどうせつ】 1513-85 (前編)
 
八幡丸。戸次鑑連。左衛門大夫、伯耆守、紀伊入道、丹後入道。父は戸次親家、母は由布惟常の娘。豊後鎧岳城主、筑前立花城主。
 
大友氏の一族である戸次(べっき)氏の出で、名は鑑連(あきつら)という。1562年、大友義鎮が剃髪して宗麟と号したのに従い、鑑連も剃髪し、宗麟から麟伯の号を送られ麟伯軒道雪と称する。1568年、同じ大友氏の一族である立花鑑載が毛利氏に通じたため、大友宗麟は道雪に征伐を命じた。立花山城が陥落すると宗麟は道雪に立花山城を守らせるとともに、立花氏を称させた。ここに立花道雪が誕生する。以後の呼称は道雪で統一する。
 
話は戻るが、道雪は1526年、十四歳で家督を継ぎ、大友義鑑(宗麟の父)に仕える。1550年の二階崩れの変では義鎮(宗麟)を支持し、家督相続に尽力している。また、塩市丸派であった入田親誠を討つべく肥後に攻め入っている。1553年に異母弟鑑方の子鎮連を養子に迎えて家督を譲っている(鎮連は大友義統の代に誅殺された)。しかし、その後も大友家の重臣として活躍する。1557年には毛利氏に通じた秋月文種を討つ。1561年には加判衆に任じられ、1571年に立花山城主となるまで十年間務めている。
 
1567年、毛利氏の支援を受けた秋月文種の子種実が筑前古処山城に入って秋月氏復興の兵を起こすと、大友氏の重臣である高橋鑑種が呼応して、筑前宝満城、岩屋城に拠って大友氏に反旗を翻した。さらに筑後の筑紫広門も離反。道雪は宗麟の命を受けて鎮圧に向かうが、大友氏一族の立花鑑載までが同調し、苦戦を強いられる。1568年に立花氏の立花山城を攻囲、陥落させて鑑載を自害させることで、優勢を確保し、秋月氏を降伏に追い込む。しかし、1569年には立花山城を奪回すべく毛利氏の吉川元春、小早川隆景が筑前に攻め込んでくる。このとき、大友軍は肥前の龍造寺氏と対陣中であり、立花山城は落城。急ぎ和議を結んだ大友軍は引き返してきて毛利軍と激突、多々良川で一進一退の攻防を繰り広げることになる。戦局が膠着する中、大友側は大内氏の一族である輝弘を周防に送り込んで蜂起させ、毛利氏の後方を攪乱、さらに出雲で尼子勝久ら尼子氏遺臣が挙兵するに及んで毛利軍は撤退した。1570年には立花山城も開城し、再び大友氏の手に帰した。1571年、一連の戦いで功績のあった道雪は立花(山)城の城督となる。
 
1578年、宗麟は島津氏攻めを始めるが、道雪はこれには反対。しかし、宗麟は日向侵攻を強行し、耳川の戦いで島津氏に大敗して、多くの家臣も失い、大友氏は衰退を始める。家臣の反乱が相次ぐ中、高橋紹運、立花宗茂とともに斜陽の大友家を支えるが、筑後猫尾城攻めなどを攻略したあと、高良山の陣中にて発病し陣没。享年七十三。
 
生前、宗麟から甥鎮連の子統連に立花氏の家督を譲るよう勧められたがこれを断る。道雪には一人娘の誾(吟)千代(ぎんちよ)しかおらず、誾千代に家督を譲って立花山城主としたが、高橋紹運に願って長男の統虎を養子にもらいうけた。これが後の立花宗茂である。城主が二人いるようで二人の仲はしっくりしなかったともいう。



Copyright © 2010, 2011 SQUARE ENIX CO., LTD. All Rights Reserved.

立花誾千代。「誾」が環境依存文字なので、「立花ぎん千代」になってしまう。

1602年、三十四歳で死去、宗茂の柳河復帰を見ることはなかった。
 
夢幻戦士みたいな格好でどうもしっくりこない。
 
龍造寺氏ではなく鍋島氏が近世大名として名を残した件は鍋島直茂のところで書くとして、立花氏も大友氏の忠臣であったのに、いつの間にか独立大名となっている。上杉家の直江兼続あたりにも誘って果たせなかったことだが、大大名を巧みに分裂させる秀吉の人たらしの手腕の見事なこと、である。立花氏は独立大名となったおかげで、大友氏の改易には無縁だったが、関ヶ原では秀吉の恩を忘れず西軍に属したために改易となる。のだが、のちに旧領に復帰するという奇跡をやってのけることになる。

小野和泉(鎮幸)も柳河復帰を見届けることなく死んだ。由布雪下(惟信)は見届けて死んだ。
PR
「戦国人物紹介」

042 大友宗麟 【おおともそうりん】
 1530-87 (後編)
 
1567年には再び毛利氏と戦うが、重臣の高橋鑑種が毛利氏に内通して反旗を翻す。これは立花道雪を派遣して鎮圧させる。1569年にも毛利氏の侵攻に遭うが、大内輝弘(大内氏の一族)を周防に上陸させ、毛利軍を撤退させている。1570年、肥前に攻め込むも、今山の戦いで龍造寺隆信に敗れ、弟の大友親貞を失う。以後、この方面では龍造寺氏の勢力伸長を止められなくなってしまう。
 
1576年には長男の大友義統に家督を譲って丹生島城へ隠居するが、実権は握り続けており、二頭政治を招いたことから、大友氏の政情は混乱してしまう。1578年、島津氏に攻められて日向から逃れてきた伊東義祐の要請に応じ、日向に侵攻する。一説には現在の延岡市に「無鹿」という地名をつけ宗教王国の建設を夢見たという。無鹿(むじか)は「music」の意で、Muse、ゼウスの娘である9人の女神、その技、が原義である(もともと「務志賀」という地名があったともいう)。しかし、耳川の戦いで島津軍に惨敗し、佐伯惟教、田原親賢、田北鎮周、角隈石宗など多くの家臣を失うと、家臣の間には動揺が広がり、1579年には田原親貫(親賢、号紹忍、の本家筋に当たる)、1580年には田北紹鉄(名は鑑富、鑑重。鎮周の兄で養父)などの大友氏庶流や秋月種実、和睦していた龍造寺隆信らの謀叛、離反が相次いだ。島津氏の北上もあり、大友氏は急速に衰退していく。
 
1586年には自ら大坂城に赴き秀吉に支援を懇請、同年、豊臣軍の先遣隊が派遣される。しかし、戸次川の戦いで島津軍と戦って、長宗我部元親の嫡男である信親が戦死するなど大敗。島津軍は宗麟のこもる豊後に侵入、丹生島城に籠城する宗麟は大砲をもって島津軍を退けるが、大友氏は滅亡寸前まで追い詰められた。1587年、豊臣軍の本隊が到着。秀吉の九州攻めにより島津氏が敗れると、大友氏には豊後一国のみが安堵されたが、宗麟自身は島津氏の降伏直前に豊後津久見で病死した。死因は伝染病、ペストともチフスともいう。
 
1551年、フランシスコ・ザビエルと面会し、キリスト教の布教を許可、1578年には自らもキリスト教の洗礼を受ける。純粋な信仰心と言うよりは、鉄砲に使う硝石や大砲の輸入、さらには貿易の利益が目的であったというところか。
 
フランシスコの洗礼名を持つキリシタンであるから、仏教側の史料から見れば暗君であり暴君であるように書かれるところもあるのではないだろうか。家臣の妻を奪ったとか、酒色におぼれたというのは、典型的な暗君、暴君のあり方であり、偏った書かれ方である。
 
とはいえ、若いころは粗暴だったといい、父義鑑もそんな宗麟(当時は塩法師丸)を嫌い、塩法師丸の弟に家督を継がせようとしたともいう。
 
天正遣欧使節は大友宗麟、大村純忠、有馬晴信の三大名が派遣したとされているが、宗麟は関与していなかったという説もある。また、耳川の戦いに至るまでの日向侵攻戦には宗麟も参加しているが、主導したのは子の義統という説もある。あまりに「大友宗麟」という光が強すぎて、何事も彼の功罪にされてしまう嫌いがある。
 


Copyright © 2010, 2011 SQUARE ENIX CO., LTD. All Rights Reserved.

この人ならこんな格好をしていてもおかしくはない、というのもイメージ。
「戦国人物紹介」

英雄か暗君か
 
042 大友宗麟 【おおともそうりん】 1530-87 (前編)
 
塩法師丸、名は義鎮(よししげ)。左衛門督、豊後・豊前・肥前・肥後・筑前・筑後守護。洗礼名はフランシスコ。
 
「戦国人物紹介」の九州編をやると言いつつも、なかなか本編に入れなかったのは、この人をどう書こうか構想がまとまらなかったからである。六カ国の太守となるなど、九州における英雄の一人なのだが、キリスト教に傾倒し仏教派の家臣たちとの対立を招き、また晩年の凋落もあって、毀誉褒貶が激しい。結果だけを見て批判することは簡単だが、九州における戦国大名の先駆者として、この人なりの功績もあるのではないだろうか。
 
大友義鑑は長男の塩法師丸(義鎮)よりも三男の塩市丸を寵愛し、塩法師丸を廃嫡して塩市丸に家督を譲ろうとする。甲斐武田家や伊達家、美濃斎藤家などにも似たような話があったが、こういう御家騒動はどこにでもある。大友家中は二派に分かれて対立。義鑑は塩法師丸廃嫡に反対する斎藤播磨守長実を誅殺、危機を感じた津久見美作守・田口蔵人は大友館の二階にいた塩市丸、その生母を襲撃して殺し、義鑑にも重傷を負わせた。津久見と田口はその場で斬られたが、義鑑も数日後に傷がもとで死去、義鎮に置文(遺言状)を残した。義鑑の死後、戸次鑑連(のちの立花道雪)らに擁立されて義鎮が家督を継いだ(二階崩れの変、1550年)。背景には義鎮の母は大内義興の娘と言われ、大内氏の勢力を排除しようとする動きがあったとも言われるが、義鎮自身のクーデターという見方もある。
 
塩市丸派であった入田親実(親誠)は妻の父である阿蘇惟豊のいる肥後に逃れたが、惟豊に殺された。三年後には服部右京亮・一万田弾正忠(鑑相)らが義鎮を暗殺しようとして発覚するなど、当初は不安定な時期が続いた。
 
1551年、大内義隆が家臣陶隆房(晴賢)の謀叛により自害すると、晴賢から請われて弟の晴英(幼名は塩乙丸)を大内家の当主として送り込んだ(大内義長)。これにより長く続いた大内氏との対立状態が解消され、豊前・筑前に勢力を拡大するとともに、博多港を得た。1554年には叔父であるが大友氏にたびたび叛いていた肥後の菊池義武を討った。1557年、大内義長が毛利元就に討たれると、毛利氏との戦いが始まる。九州北部の領主が毛利氏に通じて大友氏に叛いたため、筑前の筑紫氏・原田氏・秋月氏などを討った。1559年にこれまでの豊後・肥前・肥後に加え、将軍足利義輝から豊前・筑前・筑後守護、および九州探題に任じられる。
 
これで終われば、六カ国の太守であり、大友氏の最盛期を築いた英主、というところだが、そうはならなかった。毛利氏との戦いが続き、龍造寺氏の台頭や島津氏の挑戦もあったのだが、凋落の要素は外だけではなく内にもあった。大友氏の庶流である同紋衆と在地の国人である他紋衆の間には権力闘争、対立があったが、これに拍車をかけたのが宗教対立である(宗教対立としては宇喜多家の騒動も知られている)。領内にキリスト教の布教を強化したことが家臣団の対立と結びついたのである。1562年、出家して宗麟と号しているが、従来の宗教側との妥協の産物である。
 


Copyright © 2010, 2011 SQUARE ENIX CO., LTD. All Rights Reserved.

「轟音music」とはなかなか乙なネーミングである。後編に続く。
「戦国人物紹介」

大友氏

 
初代は大友能直であるが、出自ははっきりとしない。源頼朝の庶子とするのは島津氏と同じく伝説に近い。古庄(ふるしょう)能成(あるいは近藤能成)の子で母の父である波多野経家の相模大友荘を領したことから大友能直と名乗ったという。頼朝の側近で、母の縁戚でもある中原親能の猶子となり中原能直と名乗るなど、名字は転々としている。この縁で頼朝に寵愛され、豊後などの守護職に任じられた。実際に九州に赴いたのは孫の三代頼泰の代であるが、能直の子が託磨氏や一万田氏、志賀氏、田原氏などの祖となって九州に下っている。
 
六代貞宗は後醍醐天皇の挙兵に呼応して、北条氏の鎮西探題を攻め滅ぼした。南北朝時代には大友氏も南北に分裂する。その後は九州に勢力を伸ばす大内氏と対立、家中からも大内氏に与する勢力が出て、分裂が続いた。これを統一するのが十五代の親繁である。しかし、親繁の死後、子の政親とその子義右が対立、政親は義右を毒殺するが、政親は大内氏に攻められて自害、大友氏は滅亡の危機に瀕するが、政親の弟親治が家督を相続する。親治の代に大友氏は戦国大名化したとされる。
 
親治は将軍足利義澄と通じ、子義長への家督譲渡の承認を得た。また、豊後・豊前・筑後の守護職を安堵され、大友氏の治世は一応の安定を得た。義長は「大友義長条々」を制定、以降、義鑑・義鎮(宗麟)・義統(吉統)の代における家訓となった。1534年、義鑑は勢場ヶ原の戦いで長く対立していた大内義隆に勝利。しかし、嫡子義鎮(塩法師丸)に代えてその弟である塩市丸を寵愛し、塩法師丸を廃嫡して塩市丸に家督を継がせようと図ったため、反対派に斬られる。臨終に際して、塩法師丸に家督を譲って死去した。これが二階崩れの変である。ここに大友氏の家督として義鎮(宗麟)が登場する。1550年のことである。
 
南北朝時代に南北両派に分かれて争ったころは、争うだけの一門がいたのだが、それが終焉するとほぼ長子が単独で相続する形となり、一門の数も少なくなる。一方で早くから分かれた一族(一万田、田原、立花など)が宗家を支える(あるいは争う)のは武田、伊達、島津といった古くからの名家と同様である。宗麟は義統に家督を譲って隠居した後も一定の影響力を持ち続けて二頭政治を招くなど、どうもこの家は他の家に比べると内紛の要素が多い。
 
その後の大友氏については「秀吉の改易」のところで書いた。
 
http://naraku.or-hell.com/Entry/393/
中国の歴史を見ても、集権的な体制と分権的な体制が代わる代わる国家を治めることが多いのですが、日本でも明治政府のような集権的な国家がある一方、幕府政治の頃は分権的な国家でした。平将門の自立や東国を中心とした鎌倉幕府の成立などは分権的な動きの現れですが、室町幕府にしろ、江戸幕府にしろ、完全な中央集権というのは成しえず、地方には半ば独立した勢力が温存されました。上が弱いと、あるいは上を弱くして、割拠しよう、というのは現在でもありますよね。地方の勢力からするとその方が自分たちに都合がいいわけです。権力も財源も自分たちで握っておくということです。
 
菊池氏(というか肥後の)・おかわり
 
「信長の野望・全国版」で肥後の大名は誰だったかなと調べてみると、阿蘇惟将だったりする。おそらく、桶狭間の戦いが起こる1560年がベースだろうと考えると(実際はそこまで厳密ではない)、すでに菊池義武は死んでいるので菊池氏は出てこない。相良氏でもない。マイナー大名にやさしい光栄(コーエー)だが、次の「戦国群雄伝」では九州(と東北)がバッサリ切られており、相良氏の初登場はその次の「武将風雲録」まで待たなければならない。
 
菊池が滅んだ後の肥後はどうなったか。次に書くのは佐々成政の時になるだろうが、当分来ないので、ここで少し触れておく。肥後と言えば、いまの熊本県だから、ここまで大友氏の勢力が伸びていたのか、と全盛期の大友氏の強さを思わせる。
 
菊池氏の嫡流は絶え、一族から政隆を当主に迎えた頃にさかのぼる。大友義長(宗麟の祖父)は阿蘇惟長を使って肥後に勢力を伸ばそうと図った。大友氏の支援を受けた惟長は菊池家の家臣に圧力をかけ、城氏・隈部氏・赤星氏(菊池三家老)ら重臣に、政隆を排除して惟長を肥後の守護として迎える起請文を出させた(菊池家臣の推戴で家督を継いだというものもあり、諸書によって書き方が異なる)。政隆は惟長に敗れて隈府を追われ、大友氏の攻撃を受けると自害した(1509年)。
 
阿蘇惟長は菊池武経を称したが、もともと独立心の強い菊池家家臣である。惟長の支配には従わない。惟長は大友氏ともうまくいかなくなり、1511年に隈府を出て本領の矢部へ戻った。その後の武経は大宮司職の奪還を目指して島津氏と結ぶ。弟の阿蘇惟豊を日向に追い落とすと、子の惟前を大宮司としたが、1517年、甲斐親宣(宗運の父)の支援を受けた惟豊の反撃に遭い没落、薩摩へ落ち延びた。惟豊の子が以前書いた惟将である。惟長は1537年に堅志田城で死去した。
 
一方、菊池家臣はどうなったか。三家老のその後を見てみよう。
 
城(じょう)氏
 
菊池氏八代当主菊池能隆の子隆経に始まる。肥後山鹿郡の城村に住んだことから城氏を称す。文人として知られる菊池重朝が主催した連歌の会では城為冬が発句している。阿蘇惟長を迎えた起請文では城頼岑が筆頭となっている。菊池氏が断絶すると城親冬は隈本城主となり、その子親賢は大友氏の衰退を受けて島津氏と誼を通じ龍造寺氏と戦う。秀吉が九州を平定すると、子久基は隈本城を佐々成政に明け渡し、大坂に住んだ。このため肥後の国人一揆に参加することなく、改易を免れたが、久基が若くして死んだため、家名は断絶した。久基の弟武房が井田氏を継ぎ、子孫は肥後に入った細川氏に仕えて肥後藩士となって続いた。
 
赤星(あかほし)氏
 
菊池氏九代隆泰の子有隆に始まる。肥後菊池郡赤星に住んだことから赤星氏を称す。元寇のときに、返り血で全身が赤い星のように染まったことが叡聞(天皇の耳)に達し、「菊池を改めて赤星と称すべし」との言葉を賜ったと伝わるが、赤星は地名に由来するものであり、家を飾る言い伝えであろう。菊池氏の衰退にともなって勢力を伸ばし、菊池義武が甥の大友宗麟と戦った際、赤星親家は大友方として活躍、菊池氏の本拠であった隈府城(菊池城)を恩賞として与えられた。しかし、同じ家老の隈部親永と対立し、親家の子統家は隈部氏と結んだ龍造寺氏に隈府城を追われる。その後、龍造寺氏に子を人質として送るが、去就を疑われて子を殺害されたために、以後は島津氏に属す。このため秀吉の九州平定後も旧領を回復できなかった。大坂にいたため、肥後の国人一揆にも加わらず。1619年に阿波で死去。
 
隈部(くまべ)氏
 
隈部氏は大和源氏源頼親の子孫である源親治(宇野親治)が保元の乱に敗れて、のちに肥後に下ったことに始まるとされる。菊池氏から隈部姓を与えられ、城氏、赤星氏とともに菊池三家老と言われる。菊池氏は菊池(隈府)城を囲むように十八の外城を築き、菊池十八城と言われたが、隈部の「隈」は隈府によるものであろう。位置は異なるが、のちに加藤清正が隈本(隈は狭いに通じる)を熊本と改めたことは知られている。代々菊池氏に仕えたが、菊池氏が滅ぶと、同じ家老であった赤星氏と対立、隈部親永は1559年、攻め込んできた隈府城の赤星親家を合瀬川の戦いで破り、1578年、龍造寺氏と結んで赤星統家を隈府城から追い、山鹿郡、菊池郡一帯を支配し、肥後北部では最有力の国人にのし上がった。島津氏に攻められると、一年余の籠城に耐え、和議を結んだ。秀吉の九州攻めでは秀吉に降るが、所領は半分以下となった。肥後に佐々成政が入ると検地に抵抗、これが肥後国人一揆の発端となる。子親泰の守る城村城に籠城し抗戦、この間、一揆は肥後国中に広がった。九州の大名が援軍に駆け付け一揆は鎮圧されたが、佐々成政は責任を問われて自害させられた。隈部氏一族もことごとく捕らえられて殺された。
 
隈部親永は「信長の野望」における特徴的な顔グラフィックでも知られ、AA(アスキーアート)にもなったほどである。
[5]  [6]  [7]  [8]  [9]  [10]  [11]  [12]  [13]  [14]  [15
カレンダー
04 2024/05 06
S M T W T F S
1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30 31
ブログ内検索
最新のコメント
[10/03 Rakuna]
[10/03 セレス]
[09/25 Rakuna]
[09/25 セレス]
[08/22 Rakuna]
[08/22 セレス]
バーコード
アーカイブ
カウンター
Admin / Write
忍者ブログ [PR]