兵は拙速なるを聞くも、いまだ巧久なるを睹ざるなり(『孫子』)
×
[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。
「戦国人物紹介」
龍造寺氏 一時は九州を三分するが
老将の復讐
竜造寺氏とも書く。略せば龍家である。出自ははっきりとしない。藤原秀郷流とも藤原姓高木氏の後裔ともいう。明応年間(1492-1501)、康家は本家を子の家和に譲り、別館を子の家兼に譲った。前者を村中龍造寺、後者を水ヶ江龍造寺と称した。家兼は少弐氏に仕え、勢福寺城を守り、大内氏の攻撃を退けている。大内義隆が再び攻め込むと、少弐資元は家兼の進言を受け入れて義隆と和睦したが、のちに義隆は約を違えて資元の所領を没収、資元は大内家の武将である陶興房(晴賢の父)に攻められて自害に追い込まれた。1544年、少弐氏の家臣は家兼が大内氏に通じたと非難、重臣馬場頼周は龍造寺一族を欺いて家兼を筑後に追放し、残る龍造寺一族の多くを殺害した。1546年、家兼は佐賀に復帰し、頼周を討って龍造寺氏を再興した。同年、家兼は九十三歳で死去するが、曾孫の胤信を還俗させ水ヶ江家の後継ぎとした。これが後の龍造寺隆信である。
肥前の熊
隆信は肥前で順調に勢力を伸ばすが、1570年、大友宗麟の大軍に攻められ、佐賀城を囲まれる。しかし、重臣鍋島直茂らに今山を攻めさせ(今山の戦い)、大友親貞(宗麟の甥)を討ち取って包囲網を破り、大友氏との和解に持ち込んだ。大村氏や有馬氏を服属させて、1578年には肥前を統一。さらに耳川の戦いで島津軍に敗北した大友氏の所領に侵攻した。しかし、島津氏に通じた有馬氏を討つべく、沖田畷で島津・有馬連合軍と戦ったが、戦死してしまう(1584年)
隆信の死後は子の政家が跡を継ぐが、実権は執政として鍋島直茂が握った。秀吉からも龍造寺家の家督代行者として認められ、朝鮮出兵でも直茂が龍造寺家の家臣団を率いて出陣した。関ヶ原の戦いで、直茂は西軍に属したが、戦後、黒田長政を通じて謝罪して赦された。1607年、政家の子高房と政家が相次いで死去したため、龍造寺氏の正統は絶えたこととされ、所領は直茂の子勝茂が継ぎ、ここに鍋島氏の佐賀藩三十五万七千石が成立する。ちなみに、佐賀藩の化け猫騒動の怪談はこの龍造寺氏と鍋島氏の対立が背景となっている。正統は絶えたが、庶流は佐賀藩の重臣として鍋島氏に仕えた。
龍造寺氏 一時は九州を三分するが
老将の復讐
竜造寺氏とも書く。略せば龍家である。出自ははっきりとしない。藤原秀郷流とも藤原姓高木氏の後裔ともいう。明応年間(1492-1501)、康家は本家を子の家和に譲り、別館を子の家兼に譲った。前者を村中龍造寺、後者を水ヶ江龍造寺と称した。家兼は少弐氏に仕え、勢福寺城を守り、大内氏の攻撃を退けている。大内義隆が再び攻め込むと、少弐資元は家兼の進言を受け入れて義隆と和睦したが、のちに義隆は約を違えて資元の所領を没収、資元は大内家の武将である陶興房(晴賢の父)に攻められて自害に追い込まれた。1544年、少弐氏の家臣は家兼が大内氏に通じたと非難、重臣馬場頼周は龍造寺一族を欺いて家兼を筑後に追放し、残る龍造寺一族の多くを殺害した。1546年、家兼は佐賀に復帰し、頼周を討って龍造寺氏を再興した。同年、家兼は九十三歳で死去するが、曾孫の胤信を還俗させ水ヶ江家の後継ぎとした。これが後の龍造寺隆信である。
肥前の熊
隆信は肥前で順調に勢力を伸ばすが、1570年、大友宗麟の大軍に攻められ、佐賀城を囲まれる。しかし、重臣鍋島直茂らに今山を攻めさせ(今山の戦い)、大友親貞(宗麟の甥)を討ち取って包囲網を破り、大友氏との和解に持ち込んだ。大村氏や有馬氏を服属させて、1578年には肥前を統一。さらに耳川の戦いで島津軍に敗北した大友氏の所領に侵攻した。しかし、島津氏に通じた有馬氏を討つべく、沖田畷で島津・有馬連合軍と戦ったが、戦死してしまう(1584年)
隆信の死後は子の政家が跡を継ぐが、実権は執政として鍋島直茂が握った。秀吉からも龍造寺家の家督代行者として認められ、朝鮮出兵でも直茂が龍造寺家の家臣団を率いて出陣した。関ヶ原の戦いで、直茂は西軍に属したが、戦後、黒田長政を通じて謝罪して赦された。1607年、政家の子高房と政家が相次いで死去したため、龍造寺氏の正統は絶えたこととされ、所領は直茂の子勝茂が継ぎ、ここに鍋島氏の佐賀藩三十五万七千石が成立する。ちなみに、佐賀藩の化け猫騒動の怪談はこの龍造寺氏と鍋島氏の対立が背景となっている。正統は絶えたが、庶流は佐賀藩の重臣として鍋島氏に仕えた。
PR
この記事にコメントする