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兵は拙速なるを聞くも、いまだ巧久なるを睹ざるなり(『孫子』)
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JRにシカが衝突して30分帰宅が遅れたよ!

「戦国人物紹介」

018 長野業正
 【ながのなりまさ】 1491?-1561

名は業政、生年は1499年とも。

用語としては定着していませんが、世の中には「じじいフェチ」、あるいは「老将ファン」という人々が確実に存在しています。老将と言うと、「三国志」では、黄忠・厳顔の老将コンビが有名です。老いてますます盛んな人を讃えるというのは中国に限らず、日本にもあることで、日本史では長井別当とも言われた斎藤別当実盛(?-1183)が知られています。

源平合戦では平家に属しますが、木曾義仲との戦いで討ち死にします。このとき、七十歳を過ぎていた実盛は、最期は若々しく戦いたいと白髪を黒く染めて戦ったと言われています。実盛については、世阿弥が能の題材として取り上げ、芭蕉も句に詠んでいます。また、尋常小学校の唱歌にもなっており、戦前までは有名な武将でした。

業正も七十余歳、あるいは六十余歳で死去したと言われ、老将ファンの方にはお勧めしたい武将です。しかも、先祖をたどれば在原業平にたどりつくというおまけ付き。在原業平と言えば、平安時代の貴族で六歌仙の一人、『伊勢物語』の主人公とみなされており、名うてのプレイボーイでした。となると、業正も老将プラス美系だったかもしれません。

さて、業正は上野国の箕輪(みのわ)城の城主で、関東管領山内上杉氏に仕えていました。主の上杉憲政が北条氏の勢力拡大で越後の長尾景虎(上杉謙信)を頼ったあとも、上野で北条氏や武田氏と戦い続けます。山内上杉氏の家臣が武田氏に降る中、抵抗を続け、最後まで主君への忠節を貫きます。死に際しては、「一里塚と変わらないような粗末な墓でいい。法要もいらない。敵の首を一つでも多く墓前に供えよ。敵に降参せず、運が尽きたら潔く討ち死にせよ。それこそが私への孝養であり、これに過ぎるものはない」と遺言したと言います。

信玄は業政の死を知ると、「業正一人がいる限り、上野を取ることはできなかったが、これで上野を手に入れたも同然」とすぐに軍勢を上野に向けたとされます。

子の業盛も信玄の侵攻に頑強に抵抗しますが、1563年(1566年とも)に箕輪城は落城、業盛は自害して果てます。



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なんかちがーう

コストは高いが、兵科能力と守備力、指揮兵数の高さは魅力。
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田代まさし並みに老けてるなwww
このおっさんも武田に一時的に屈してたんだっけな?

鉄壁の引きこもり程度のイメージしかないんだけどw わかーい憲政を諌めきれなかった重臣の一人だったんでしょうなぁ。。。
ぼっこ 2010/09/16(Thu)22:24 編集
あれはこけていると言った方が
この人は徹頭徹尾、山内上杉。

憲政とは離れちゃったので、(憲政に対して)どれだけ影響力があったのかは不明。独立しなかったのは、山内上杉の旗印があったから求心力を保てたというのもあるかもね。
Rakuna 2010/09/16(Thu)22:47 編集
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