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兵は拙速なるを聞くも、いまだ巧久なるを睹ざるなり(『孫子』)
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「戦国人物紹介」

平岩親吉・5

半年余りを経て続編です。
まずはバックナンバー。

平岩親吉・1
http://naraku.or-hell.com/Entry/1584/

平岩親吉・2
http://naraku.or-hell.com/Entry/1619/

平岩親吉・3
http://naraku.or-hell.com/Entry/1817/

平岩親吉・4
http://naraku.or-hell.com/Entry/1836/

第4回で、「次回は関ヶ原の戦いの起きた慶長五年(1600)に一万石以上の所領を持っていた家康の家臣(あるいはその子孫)についても触れてみよう」と書いてしまったので、調べてみました。

これまで取り上げた人物(家)は基本的に省略しています。
また、以前に調べた情報を基礎にしていますが、元号と西暦の置き換えを必ずしも正確には行っていない可能性があります。石高も諸説あります。

では、一気にどうぞ。

上野国
本多康重:1554-1611 白井2(前回取り上げ済み)
諏訪頼水:1570-1641 総社1.2
松平(奥平)忠明:1583-1644 長根0.7→伊勢亀山5
奥平信昌:1555-1615 小幡3 子家昌、忠政1614死
牧野康成:1555-1609 大胡2 子忠成1655死
松平(大給)家乗:1575-1614 那波1
菅沼定盈:1543-1604 阿保1 子定仍、伊勢長島2、1605死 弟定芳1643死

下総国
小笠原秀政:1569-1615 古河3、大坂夏の陣で戦死
土岐定義:1580-1619 守谷1
本多成重:1572-1647 井野0.3→1613年、越前丸岡4(福井藩付家老)
松平(藤井)信一:1539-1624 布川0.5→常陸土浦3.5
岡部長盛:1586-1632 山崎1.2
松平(久松)康元:1552-1603 関宿4
北条氏勝:1559-1611 岩富1(前回取り上げ済み)
武田信吉:1583-1603 佐倉5(のち10)
青山成重:1549-1615 飯田0.3→1608年、万石、1613年、大久保長安事件に連座
松平(深溝)家忠:1555-1600 小見川1 子忠利
天野康景:1537-1613 大須賀0.3 1607改易
松平(久松)定勝:1560-1624 小南0.3→遠江掛川3
保科正光:1561-1631 多古1
本多康俊:1569-1621 小篠0.5→三河西尾2

上総国
内藤家長:1546-1600 佐貫2 子政長
松平(大須賀)忠政:1581-1607 久留里3→遠江横須賀5.5 
(榊原康政の子だが、子忠次は父の生家榊原家を継ぐ)
石川康通:1554-1607 鳴渡2→美濃大垣5 養嗣子忠総(大久保忠隣の子)
松平(形原)家信:1565-1629 五井0.5→三河形原0.5

武蔵国
小笠原信之:1570-1614 本庄1→1612年、下総古河2
松平(竹谷)家清:1566-1611(※慶長15年12月21日) 八幡山1→三河吉田3
 子忠清1612死 無嗣除封、弟清昌交代寄合
松平(戸田)康長:1562-1632 東方1→下総古河2→常陸笠間3
松平(松井)康重:1568-1640 私市2→常陸笠間3→丹波篠山5
松平(桜井)家広:1577-1601 松山1 養嗣子忠頼、遠江浜松5、1609横死改易
渡辺守綱:1542-1620 野本3千 1613尾張義直に付属、1.4
酒井重忠:1549-1617 川越1 雅楽頭系 上野厩橋(前橋)3.3など
戸田一西:1542-1603(1604?) 鯨井5千 近江大津、近江膳所3 子氏鉄
西尾吉次:1530-1606 原市5千、戦後美濃で0.5加増 養子忠永
伊奈忠次:1550-1610 小室1 子忠勝1618死
高力忠房:1584-1656(明暦元年12月11日) 岩槻2
阿部正次:1569-1647 鳩谷5千 のち万石

相模国
本多正信:1538-1616 天縄1 十六神将に含まれていない
本多正純:1565-1637 正信の子
青山忠成:1551-1613 高座郡内0.5→戦後1

伊豆国
内藤信成:1545-1612 韮山1→駿河府中4→近江長浜4 子長正
戸田尊次:1565-1615 下田0.5→三河田原1

ということで、慶長十六年(1611)、二条城で行われた家康と秀頼の会見の直後に亡くなった家康の重臣、または家臣やその子(網羅はしていない)で、平岩親吉の地位や石高、知名度に及ぶ者はいないようです。

次回は親吉の名が使われた理由の「2」を考えてみたいと思います。

1.家康の重臣で、会見後に死んだ(相応に名が知られており、「間もなく」死んだ)
2.家康の信任が厚く、恩義を感じていた(命を投げ打って毒饅頭を食べるほど)
3.直接の子孫が残っておらず悪役に仕立てやすい(大名としては断絶した)

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「戦国人物紹介」

平岩親吉・4

平岩親吉・1
http://naraku.or-hell.com/Entry/1584/

平岩親吉・2
http://naraku.or-hell.com/Entry/1619/

平岩親吉・3
http://naraku.or-hell.com/Entry/1817/

平岩親吉・4
http://naraku.or-hell.com/Entry/1836/

平岩親吉・5
http://naraku.or-hell.com/Entry/1964/

今回は前回の補足で没年情報が中心。ここまで調べなくてもという気もしますが(すべてを調べる必要もありませんが)、存在しないことの証明は難しいのです。

■徳川四天王
酒井忠次:1596年死去、子家次:1618年死去
本多忠勝:1610年死去、長男忠政:1631年死去、二男忠朝:1615年戦死(大坂夏の陣)
榊原康政:1606年死去、子康勝:1615年死去
井伊直政:1602年死去、子直孝:1659年死去

■徳川十六神将(四天王を除く、諸説あり確定していない。五十音順)
植村家存:1577年死去、一族を含めて会見時に大名に列していない
大久保忠世:1594年死去、子忠隣:1628年死去(1614年に本多正信父子の謀略で失脚)
大久保忠佐:1613年死去(忠世の弟)、弟の彦左衛門忠教(ただたか)を養子に迎えようとしたが、忠教の同意を得られず、忠佐の死後は無嗣断絶で改易
高木清秀:1610年死去、子正次:1631年死去
鳥居元忠:1600年、伏見城で戦死、子忠政:1628年死去
鳥居忠広:1573年、三方ヶ原の戦いで戦死(元忠の弟)、子孫は大久保氏に仕える
内藤正成:1602年死去、子孫は旗本
蜂屋貞次:1564年死去、子孫は旗本
服部正成:1596年死去、子正就:1615年死去
平岩親吉:1611年死去、無嗣断絶
松平康忠:1618年死去(長沢松平家当主、家康の従弟、かつ義弟に当たる)
松平家忠:1600年戦死(伏見城、深溝松平家当主)、子忠利:1632年死去
米津常春:1612年死去
渡辺守綱:1620年死去

米津(よねきつ)常春が会見の翌年に死んでいるが、十一月のことである。なお、この人物は1564年に従軍した記録を最後に、五十年近く事跡がはっきりしないまま、1612年に死去したという記録があるだけである。子の正勝が大久保長安事件に連座したため、記録が残らなかったのだろうか。

さて、四天王と十六神将について掲げてみたが、ここには本多正信などが含まれておらず不十分なので、次回は関ヶ原の戦いの起きた慶長五年(1600)に一万石以上の所領を持っていた家康の家臣(あるいはその子孫)についても触れてみよう。



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酒井忠次 【さかいただつぐ】 1527-96 左衛門尉、従四位下、左衛門督
誰が何と言っても、徳川四天王の筆頭は酒井忠次である。
四天王のうち、家康より年長で、後見する立場にあったのは忠次だけである。

酒井氏の始祖である広親は松平氏の初代親氏の子で、酒井氏と松平氏は同族とされたが(要は酒井氏初代の酒井広親と松平氏二代目の松平泰親が異母兄弟という話で、時宗の僧で流浪していた徳阿弥、こと松平親氏はあちこちで婿になったという話になる)、伝説というか、創作の域を出ない。また、忠次以前の事跡がはっきりしないのも事実である。忠次の叔父(甥ともされるが、あるいは伯父か)とされる忠尚が三河一向一揆で一揆側に与したことも一因とされる。

忠次は酒井氏の宗家である左衛門尉家の出身で、正室は家康の父広忠の異父妹(碓井姫)であり、家康からは義理の叔父に当たる。家康が今川義元の人質として駿府に赴くときに従い、以後の戦いではもっぱら先鋒を務めて家康から重用され、東三河の旗頭に任じられた(西は石川家成。家成の母は家康の母と姉妹。石川数正は甥に当たる)。

いわゆる築山殿事件では、信長に対して信康の弁護をせず、信康は切腹となったが、家康はその後も忠次を重用し続けた。この事件は、信康の器量を恐れた信長が織田家の将来を危惧したため、家康に信康の切腹を命じ、家康が泣く泣く腹を切らせたというような単純な話ではないのだが、ここではこれ以上は措く。

関東入国の時には隠居しており、子の家次に三万石が与えられた。他の四天王には十万石以上が与えられており、忠次は家康に加増を願い出たが、家康からは「そなたも子がかわいいか」と言われたという。

事実かどうかはともかく、酒井氏では忠次以降、左衛門尉家の家運が一時的に衰え(孫忠勝が出羽庄内藩十三万石余)、別家の雅楽頭(うたのかみ)家が幕政で重きをなすことになった。下馬将軍と呼ばれ権勢を誇った大老の酒井忠清も雅楽頭家の出身である。



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本多忠勝 【ほんだただかつ】 1548-1610 平八郎、従五位下、中務大輔
徳川四天王の二番目と三番目だが、本多忠勝、榊原康政の順であろう。井伊直政は家康に最も寵されたが、もとは今川氏に属しており「外様」である(後述)。
本多氏は松平氏の五代目で安祥城主(現在の安城市、読みはいずれも「あんじょう」)であった長親に仕え、酒井氏や大久保氏とともに譜代では最古参の「安祥譜代」の一つとされる。



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榊原康政 【さかきばらやすまさ】 1548-1606 小平太、従五位下、式部大輔
足利氏の一族である仁木氏の庶流を称する。仁木氏では仁木義長が足利尊氏に従って、室町幕府の成立に貢献した。康政はその八代後に当たるとされる。初めは酒井忠尚の小姓だったが、家康に見出されて直接仕えるようになったという。

文筆にも長けており、小牧長久手の戦いでは、秀吉を非難する檄文をばらまいた。
「身分の低い秀吉が信長公に取り立ててもらったのに、その恩を忘れて信長公の二男である信雄殿と事を構えるとはなんたる忘恩の徒か。秀吉に従って不義の名を残すよりは我らとともに戦おうではないか」
これには秀吉も激怒し、康政の首に十万石の恩賞をかけたという。講和が成ると、一転して秀吉は康政の忠勤を賞賛し、従五位下式部大輔へ叙任させるなど厚遇しており、これは三国志の曹操と陳琳の話に似る(陳琳は官渡の戦いで曹操の父祖まで弾劾した檄文を書いたが、戦後赦された)。

文武に秀でた良将であったが、次第に政治の中枢からは遠ざかった。大久保忠隣や本多正純のように権勢を誇って失脚した例は少なくない。ましてや、康政の場合は武功も抜群であり、「狡兎死して走狗煮らる」ではないが、巧みな身の処し方であったと言える。

とはいえ、本多忠勝と同じ十万石だったのはまだしも、新参の井伊直政が十二万石であったことには不満で、忠勝とともに「殿は御記憶のよい方だが、不思議と加増の約束だけはお忘れになる」とぼやいたという。病床に伏すと、家康からの見舞いの使者が来たが、布団から下りることもなく、「康政はむしゃくしゃして腸が腐ってくたばり申すとお伝えいただきたい」と言ってのけた。その一方で、秀忠からの使者には布団を下りて、礼服を着て陳謝したという。関ヶ原の戦いにおける遅参をかばった康政と秀忠の関係がうかがわれる逸話でもある。

ともかく、康政の忠義に、家康は「榊原家を見捨てない」との起請文を書くのだが、この起請文が榊原家滅亡の危機を二度救うことになる。



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井伊直政 【いいなおまさ】 1561-1602 万千代、兵部少輔、従五位下、侍従
最後は、「外様」と言っては酷だが、新参譜代の井伊直政。南北朝時代にあって井伊氏は南朝方であったが、その後、北朝方の今川氏に属すようになる。井伊直盛は桶狭間の戦いで戦死、その跡を継いだ直親は織田氏との内通を疑われて今川氏真に殺される。直親の子直政は苦しい幼少を過ごしたが、家康に見出されて頭角を現した。関東に入国すると、譜代の諸将を押しのけて、家康家臣では最高の十二万石を賜った。関ヶ原の戦い後は石田三成の旧領である近江佐和山で十八万石を与えられたが、戦後処理に忙殺されて、戦いで負った傷が癒えぬまま死去。子の直孝の代に彦根に移った。

井伊氏は江戸時代には譜代大名最高の三十五万石を有し、五人の大老(直孝を大老に含めると六人)を出すなど、自他ともに認める譜代大名の筆頭であった。井伊氏は直政の血を絶やさないよう努めたことから、兄弟間の養子等はあるが、幕末の藩主までいずれも男系男子で直政の血を引いている。

幕末の大老井伊直弼は日本を開国へ導いたが、桜田門外の変で暗殺される。このような形で藩主が死んだのは、本来であれば御家断絶になってもおかしくないのだが、幕府は直弼の死を秘して子の直憲に井伊家の家督を継がせた。しかし、のちに安政の大獄を理由に、彦根藩は十万石を没収されたことから、これを恨みに思った彦根藩は譜代大名筆頭でありながら、維新時には新政府側に味方している。
「戦国人物紹介」

平岩親吉・3

2月以来なので、下はバックナンバー、および追加分です。
平岩親吉だけを取り上げたいのではなくて、その周辺も広く見てみたいのです。

平岩親吉・1
http://naraku.or-hell.com/Entry/1584/

平岩親吉・2
http://naraku.or-hell.com/Entry/1619/

平岩親吉・3
http://naraku.or-hell.com/Entry/1817/

平岩親吉・4
http://naraku.or-hell.com/Entry/1836/

平岩親吉・5
http://naraku.or-hell.com/Entry/1964/

「おあつらえ向き」だった平岩親吉の存在

暗殺者に親吉の名が使われた理由として考えられるのは以下の三つである。

1.家康の重臣で、会見後に死んだ(相応に名が知られており、「間もなく」死んだ)
2.家康の信任が厚く、恩義を感じていた(命を投げ打って毒饅頭を食べるほど)
3.直接の子孫が残っておらず悪役に仕立てやすい(大名としては断絶した)

1については、言うまでもなく、会見後に死んだ家康の重臣ということが最大の理由である。会見前に死んだのでは、話が合わない。

そこで家康の重臣を調べてみよう。

まずは、家康の重臣として知られているのが、「徳川四天王」「徳川十六神将」といった面々である。なお、「神将」というのは、家康が死後に朝廷から「東照大権現」の「神号」を贈られたことによる。「神君(しんくん)」というと、一般的には家康の死後の尊称となる。

もちろん、十六神将の中にも、会見よりかなり前に死んでいて、跡を継いだ子らが目立たない場合もあるし、本多正信など十六神将に含まれていない重臣もいる。

詳細はあらためて掲げるが、四天王や十六神将をはじめとする家康の重臣、もう少し範囲を広く取って、家臣やその子らで、平岩親吉以外にも慶長十六年(1611)三月二十八日の会見後、同年中に死んだ者は何人かいるが、いずれも親吉の地位や石高、知名度には及ばない。

会見後(直前も含む)、同年中に死んだ者たち

本多康重 【ほんだやすしげ】 天文二十三年(1554)-慶長十六年三月二十二日
本多家にもいくつかの流れがあって、有名なのは本多平八郎忠勝の系統と本多佐渡守正信の系統であろう。康重はまた別の系統である。
通称は彦次郎。従五位下、豊後守(慶長四年)。長篠の戦いでは左の股に銃弾を受け、生涯弾が抜けなかったという。家康が関東に入ると、上野白井城で二万石を与えられて、関ヶ原の戦い後は三河岡崎城五万石に移されている。慶長十六年三月、岡崎で病を得て死去。

北条氏勝 【ほうじょううじかつ】 永禄二年(1559)-慶長十六年三月二十四日
北条氏繁の二男で氏舜の弟。「地黄八幡」の旗で知られる北条綱成の孫に当たり、北条早雲(伊勢宗瑞)の血も引いている。
早雲-氏綱-娘(北条綱成に嫁ぐ)-氏繁-氏勝
譜代大名に分類されるが、小田原攻めの後で家康に仕えた新参の家臣である。下総岩富で一万石を与えられた。関ヶ原の戦い後は岡崎、犬山、丹波亀山の城番を務めたが、病のため、弟で養子の繁広が代わった。慶長十六年、岩富で死去。

植村泰忠 【うえむらやすただ】 天文八年(1539)-慶長十六年一月十九日
のちに子孫が大名となるが、泰忠自身は万石未満の旗本(上総勝浦で五千石)。一族の家存は徳川十六神将の一人だが、会見当時はすでに死去している。万石に達したのは孫の家政の代で、三代将軍家光の時である。

大久保忠常 【おおくぼただつね】 天正八年(1580)-慶長十六年十月十日
創業の功臣の一人である大久保忠世の孫。父忠隣に先立って死去した。忠隣は本多正信・正純父子との権力を争い、大久保長安事件の影響で慶長十九年に改易となった。
忠常が忠隣、あるいは本多父子の指示を受けたとか、大久保長安事件と絡めるとか、小説的な組み立ては出来そうだが、話が複雑になってわかりづらくなってしまうし、そもそも忠常くらいまで世代が下ってしまうと、家康との縁が薄くなってしまう。このような回りくどいことをしなくても、親吉の名を使った方が早いだろう。

ここまで範囲を広げてしまうと、知名度が下がってしまい、「重臣」としてはふさわしくないだろう。

「戦国人物紹介」

平岩親吉・2

平岩親吉・1
http://naraku.or-hell.com/Entry/1584/

平岩親吉・2
http://naraku.or-hell.com/Entry/1619/

平岩親吉・3
http://naraku.or-hell.com/Entry/1817/

平岩親吉・4
http://naraku.or-hell.com/Entry/1836/

平岩親吉・5
http://naraku.or-hell.com/Entry/1964/

それにしても、なぜこのようなマイナーな人物を取り上げるのかというと、きっかけは2013年11月『戦国IXA』の新武将カードとして登場したからです。渋いイラストと「毒饅頭(まんじゅう)」のスキルにしびれました。



家康と同い年なので、家康と同様に老けた印象がありましたが、近年の家康はショタ化しているので、親吉もこんなものかと。それにしても、書を片手に、煙草を吹かしながら、遠くを眺める親吉。本多正信もかくやの陰険な策謀家っぷりです。



本多正信:弥八郎、佐渡守。家康が「友」と呼んだ帷幄(いあく)の臣。
二十代の頃は、三河一向一揆で一揆側に立ち、一時出奔している。
まもなく帰参するが(帰参した時期には諸説ある)、焦ったのか、姉川の戦いでは敵中に深入りしすぎて、捕らわれそうになったところを味方に助けられたという。

平岩の毒饅頭
さて、この話にはいくつかの変種(バリエーション)があるが、中心となっているのは、慶長十六年(1611)三月二十八日、二条城で行われた徳川家康と豊臣秀頼の会見、および、その後の加藤清正と平岩親吉の病死である。

会見で家康(あるいは謀臣の本多正信)は秀頼の毒殺を図り、親吉は毒針で刺した饅頭をみずから食した上で秀頼に勧めたが、毒殺の意図を察した清正が饅頭を食べて秀頼の身を守った、という話である。会見後に、親吉が清正、池田輝政、浅野幸長、片桐且元を招いて、秀頼から賜ったという饅頭を食べさせようとする話もある。

清正も親吉も同じ年のうちに死んでいることから、巷間、「毒饅頭による暗殺説」がささやかれ、「毒饅頭を食べ、みずからの命を投げ打って、主君の身命を守る」という構図は歌舞伎にも取り入れられた。

明らかな創作
ただ、この話は明らかに創作であって事実ではない。清正が死んだのは会見から三か月後の六月二十四日であり、肥後への帰途、船中で発症し、やがて会話ができない状態になり、肌が黒くなって死んだとされており、このことから、死因は脳溢血や腎虚というのが一般的である。親吉に至っては、死んだのは十二月三十日であり、いかに「遅効性」の毒を使ったとしても、同じ毒でこれだけ間があるのはおかしい。

なお、「毒殺」を載せるような俗書で、秀頼の忠臣として名が挙げられているのは、清正のほかに、池田輝政と浅野幸長(よしなが)の二人だが、この二人も会見から二年ほど後の慶長十八年に死んでいる。輝政は五十歳だが、幸長は三十八歳の若さである。彼らの死にも暗殺説があるが、ここに福島正則は含まれていない。清正、輝政、幸長の三人が暗殺されたかはともかく、会見後に死んだために、名が挙げられたと考えた方がいいだろう。

さて、暗殺説は創作として、暗殺者に親吉の名が使われた理由を考えてみたい。考えられるのは以下の三つである。

1.家康の重臣で、会見後に死んだ(相応に名が知られており、「間もなく」死んだ)
2.家康の信任が厚く、恩義を感じていた(命を投げ打って毒饅頭を食べるほど)
3.直接の子孫が残っておらず悪役に仕立てやすい(大名としては断絶した)

次回はそれぞれについてもう少し深く考察してみよう。



加藤清正:虎之助。主計頭、肥後守、侍従。
母は秀吉の母大政所の縁者(いとことも)と言われ、秀吉子飼いの武将として育つ。賤ヶ岳の七本鎗の一人。佐々成政の改易後、肥後半国を与えられ熊本城に入る。死後、子の忠広が継いだが改易。その後に肥後に入った細川氏が清正を敬ったために、次第に神格化された。



池田輝政:幼名は古新、初名は照政。「輝政」と改めるのは晩年(1609年頃)である。三左衛門。侍従。
恒興(信輝)の二男。父と兄が小牧・長久手の戦いで戦死したため、池田家を継いだ。目立った戦功はないが、秀吉に取り立てられる形で厚遇される。秀吉の仲介で家康の二女督姫(初め北条氏直室)を娶る。関ヶ原の戦い後は播磨姫路五十二万石を与えられ、播磨宰相、西国将軍などと呼ばれた。



浅野幸長(よしなが):幼名は長満(ちょうみつ)。左京大夫、紀伊守。
長政の子。長政は秀吉の義弟に当たり、いわゆる「五奉行」の一人となった。武断派の一人として、秀吉の死後は三成排斥に動く。関ヶ原の戦い後は紀伊和歌山三十七万石を与えられる。幸長の死後は弟長晟(ながあきら)が継ぎ、大坂の陣後は安芸広島に入った。長晟の弟長重の系統は播磨赤穂に入るが、曾孫の長矩が殿中(江戸城内)で刃傷事件を起こして切腹となり、赤穂藩は取り潰しとなった。

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織田氏を中断してから5か月半ぶりに復活。

「戦国人物紹介」

平岩親吉・1
http://naraku.or-hell.com/Entry/1584/

平岩親吉・2
http://naraku.or-hell.com/Entry/1619/

平岩親吉・3
http://naraku.or-hell.com/Entry/1817/

平岩親吉・4
http://naraku.or-hell.com/Entry/1836/

平岩親吉・5
http://naraku.or-hell.com/Entry/1964/

平岩親吉 【ひらいわちかよし】 1542-1611

七之助。従五位下、主計頭(かずえのかみ、天正十六年四月叙任)
家康とは同い年であり、人質時代から近侍した。家康からの信任は厚く、長男信康の傅役となる。信康が謀反の嫌疑で切腹すると謹慎するが再出仕した。本能寺の変後、家康が甲斐を支配すると、目代(代官)となった。家康が関東に入ると、厩橋城(のちの前橋)で三万三千石を与えられた。

関ヶ原の戦いでは居城にあって上杉氏に備える。戦後、加増されて再び甲斐に入った。のち、家康の九男義直が武蔵忍から甲斐に移ると、傅役となり、甲府城代となった。さらに義直が尾張清洲五十三万石に転封されると、親吉もこれに従い犬山で十二万三千石を与えられた。

義直は清洲から名古屋に移ったが、名古屋城は家康が天下普請として西国の諸大名に築かせた城である。普請に参加した福島正則は「大御所(家康)の城ならともかく、大御所の息子の城普請まで手伝わなければならないのか」とこぼしたのに対し、加藤清正が「嫌なら国に帰って戦の支度をせよ」とたしなめた逸話が知られている。

親吉には嗣子がいなかったため、家康から八男仙千代を養子として与えられたが、仙千代はわずか六歳で夭逝。親吉が死ぬと、平岩家は無嗣絶家となったが、弟の家系が家名を伝えた。

平岩氏の出自
「平岩」の姓は親吉の五代前に当たる氏貞が三河国額田郡坂崎村(愛知県額田郡幸田町坂崎)に住み、同地にあった平らな巨岩にちなんで、平岩氏を称したという。しかし、当時の一般的な名字の付け方を考えると、先に「平岩」という地名があって、そこに住んだ氏貞が平岩氏を称したと考える方が自然であろう。

幸田町には「平岩」の地名があり、ここが名字の地と思われる。岡崎にも近い地である。なお、全国各地に「平岩」の地名があるが、愛知県内は地形のためか特に多く、二十以上の「平岩」の地名がある。

氏貞の四代前の照氏は三河国碧海郡平田庄上野に住んで上野氏を称し、新田義興(新田義貞の二男)に仕えたとするが、にわかには信じがたい。徳川氏の祖とされる新田氏と平岩氏の祖を結びつける創作ではなかろうか。

弓削氏
新田氏に仕えた話の真偽はさておき、平岩氏の本姓は弓削(ゆげ)氏とされる。弓削氏を祖とする家は珍しく、江戸時代に編纂された大名や旗本の系譜集である『寛政重修諸家譜(寛政譜)』でも弓削氏を祖とするのは平岩氏だけである。

弓削氏にもいくつかの流派があるが、この弓削氏は物部守屋(もののべのもりや)を祖としている。守屋は物部尾輿の子で、六世紀の仏教伝来に際しては、排仏派として、崇仏派の蘇我馬子と対立した。最後は馬子や厩戸皇子(いわゆる聖徳太子)らに攻められて敗死した。

守屋は母方の弓削氏を称して、物部弓削守屋とも呼ばれたが、この系統が弓削氏を称した。孝謙天皇(重祚して称徳天皇)に信任されて権勢をふるった道鏡(弓削道鏡)も一族になる。道鏡は女帝に取り入って皇位を狙った怪僧として知られていることから、『寛政譜』も、あえて「道鏡」の名は出していない。孝謙天皇の代に弓削氏の一族が河内国で繁栄したとのみ記されており、道鏡とその一門の出世を示唆するに留めている。
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