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兵は拙速なるを聞くも、いまだ巧久なるを睹ざるなり(『孫子』)
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「戦国人物紹介」

松浦隆信 【まつらたかのぶ】
 1529-99

名字は「まつら」と読む。肥前の戦国大名。水軍を率いた松浦党として知られ、元寇でも活躍した。出自については諸説あるが、一字名の人物が複数いることから、嵯峨源氏の一族である渡辺氏の流れを組んでいると思われる。この系図の場合、源頼光の家臣で頼光四天王と呼ばれた四人の家臣の筆頭である渡辺綱(わたなべのつな、大江山の酒呑童子退治で有名)の子孫ということになる。

隆信(道可)、鎮信(法印)父子の二代あとがまた隆信(宗陽)、鎮信(天祥)という名の父子であったり、(彼らは二字名だが)その前後は一字名の人物が多かったり、系図としてはややこしい。それにしても一字名は珍しい。百人一首にも選ばれている平安時代の参議小野篁(おののたかむら)など他にも探していないことはないが、松浦氏の一字名は江戸時代、ほかの大名からも珍しがられたという。

隆信(道可)は龍造寺隆信と同じ名前である。十人以上いる「長政」をほぼ唯一の例外として、同時代の同地域に同じ名前の人物がいたことは珍しい。肥前平戸でポルトガルや明との貿易を始めて莫大な利益をあげる。龍造寺氏と対立し、これに服属するが、1584年の沖田畷の戦いで隆信が敗死。1587年の秀吉の九州攻めに従い、所領安堵。

子の鎮信(しげのぶ、法印)が跡を継ぎ、朝鮮出兵に従軍。関ヶ原では東軍に属して所領を安堵され、初代平戸藩主となる。松浦氏はオランダやイギリスとの交易を進めたが、1623年、イギリスの平戸商館は閉鎖、1641年、オランダの商館は長崎出島に移され、平戸の繁栄も終焉する。子孫は転封されることなく平戸で廃藩を迎えた。

2013年2月の新武将。

阿蘇惟将 【あそこれまさ】 ?-1583

肥後の戦国大名。阿蘇神社の大宮司家が戦国大名化したものである。南北朝期には一族が北朝方・南朝方に分かれて対立した。戦国時代、肥後では大友氏の勢力が拡大し、さらに龍造寺氏や島津氏の圧迫にも苦しめられた。家臣の甲斐親直(宗運)の助けで領国を維持したが、惟将、宗運の死後は島津氏の攻撃を受けて、1585年、降伏。ここに戦国大名としての阿蘇氏は滅亡した。秀吉により阿蘇神社大宮司の地位は認められ、明治に至って男爵を授けられた。


甲斐宗運 【かいそううん】 1515-85

阿蘇氏の筆頭家老。宿老とも軍師とも呼ばれる。民部大輔。実名は親直だが、出家後の宗運(牧庵軒宗運)で知られる。大和守親宣の子。1541年、阿蘇氏に反乱した御船房行を討ち、その居城を与えられて肥後益城郡の御船城主となるという。豊後の大友氏と結んで阿蘇氏の領国を保つが、1578年、耳川の戦いで大友宗麟が島津氏に敗れると、離反した城氏、名和氏などと戦い、これに勝利している。1581年には大友氏を離れて龍造寺氏に人質を送って降伏。島津氏に降ったかつての盟友相良義陽が攻めてくるが、これを破って義陽を敗死させている。以後は島津氏に対して外交手腕をもって阿蘇氏の勢力維持に努める。

死後は子の親英が継ぐが、島津氏の花の山城を攻めたことから、島津氏の反撃を招く。甲佐・堅志田城を失い、居城の御船城を放棄。隈庄城をも開城させるが、和平交渉中に捕らえられて八代へ連行される。秀吉の九州攻めで御船城を回復するが、肥後の領主となった佐々成政に反抗し、1587年の国人一揆に加担するが、戦死する。



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耳川の戦い後もしばらく大友方となっているが、龍造寺氏に人質を出して降伏。島津氏の圧迫を受けるが身動きが取れず。大勢力の中で板挟みになるが、存命中は阿蘇氏の勢力を死守。
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「戦国人物紹介」

初のキリシタン大名

大村純忠 【おおむらすみただ】 1533-87

勝童丸。民部大輔、丹後守。肥前大村の領主。大村氏は藤原純友の子孫を称しているが疑問視されている。有馬晴純の二男で有馬晴信は甥に当たる。1538年に大村純前の養子となり、1550年に家督を継ぐ。しかし、純前には純忠の養子入りに先立って実子がおり、純前は有馬氏をはばかってこの実子を後藤氏に養子に出された(後藤貴明)。貴明を初め、家臣にも純忠に反発する層があり、統治は当初から困難を極めた。

この打開のため早くから海外貿易を行い、貿易による経済、軍事面での利益獲得を図った。1563年には初のキリシタン大名となっている。貿易の利権をめぐっては周囲の豪族との対立を招き、ついには龍造寺隆信と対立する。1580年、長崎港は教会に寄進したが、自身は龍造寺氏に屈服し、人質を出して降伏する。1584年、沖田畷の戦いで、龍造寺隆信が島津・有馬連合軍に敗死すると龍造寺氏の支配から解放される。秀吉の九州攻めにより秀吉に従ったが、長崎は貿易の利益に目を付けた秀吉に没収され、直轄地となった。

子の喜前(よしさき)が跡を継ぐ。朝鮮出兵に従軍し、1598年には居城を三城から玖島城に移した。関ヶ原の戦いでは在国し、小西行長の居城である肥後宇土城を攻める加藤清正の軍を援護した。その後は一門の領地没収や領内総検地など、大名支配、財政基盤確立のために努力した。大坂冬の陣では長崎を守備、翌年春に致仕(老齢に達したため職を辞すこと)した。もと父と同じくキリシタンであったが、仏教徒に転じてキリシタンを弾圧したためキリシタンに毒殺されたという。子孫は転封されずに廃藩を迎えた。



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長崎を教会に寄進したことがポルトガルによる植民地化の第一歩であることに本人は気付きもしなかったに違いない。植民地化を見抜いたのか、長崎を直轄化した秀吉の慧眼はもっと評価されてもよいのだが。

後藤貴明 【ごとうたかあきら】 1534-83

又八郎。大村純前の子。肥前武雄の領主後藤純明の養子となる。実子の自分を差し置いて大村家を継いだ純忠にしばしば反乱する。一時、松浦隆信の子惟明を養子に迎えたが不和となり廃嫡している。龍造寺氏の勢力が拡大するとこれに従うが、実子晴明を龍造寺隆信の養子とし、自分は娘と隆信の三男家信を結婚させ、家信を養子とするものであった。家は家信が継ぎ、子孫は佐賀藩の武雄領主となって鍋島氏を称している。

有馬晴信 【ありまはるのぶ】 1567-1612

十郎。名は鎮純、鎮貴、久賢、正純とも。左衛門大夫、修理大夫。父は有馬晴純の子義貞(義直)で、早世した兄義純に代わって家督を継いで肥前日野江城主。龍造寺氏の圧迫を受けるがイエズス会からの支援によってこれを耐え抜く。1580年、受洗。1582年には大村純忠、大友宗麟らとともに天正少年使節を派遣している。1584年の沖田畷の戦いでは島津軍とともに龍造寺隆信と戦って、隆信を敗死させる。九州攻めでは秀吉に属し、朝鮮にも渡海した。

関ヶ原の戦いでは小西行長の催促で大坂に赴こうとするが、途中で引き返す。加藤清正が行長の居城である肥後宇土城を攻めたときには、目の病を理由に子直純を参加させた。のち大坂で家康に謁見して本領を安堵されている。1610年、子の直純に家康の養女(本多忠政の娘、家康の曾孫に当たる)国姫をめあわせ、正室(小西行長の姪)を離縁させる。 1608年、派遣した商船の乗組員や家臣がマカオで殺され、報復として翌年長崎に入港したポルトガル船を包囲し沈める。その功を幕府に上申し、有馬氏の旧領(藤津、杵島など)回復をあっせんするとした本多正純の家臣岡本大八に多額の金品を贈賄する。1612年、これが発覚して大八は火刑に処され、晴信も甲斐に流された。キリシタンであったため、切腹を拒否し、斬首になったという(岡本大八事件)

子の直純は家康の養女を正室としていた縁で連座を免れるが、キリシタンの弾圧不徹底を理由に日向県(あがた、のちの延岡)に移される。島原の乱が起こるのはこの地である。子孫は越後糸魚川を経て越前丸岡で定着。 子に家康の養女を配するあたりは深慮だが、中央に近づきすぎたことが悲劇を招く。



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龍造寺隆信の圧迫をしのぎ、関ヶ原でも生き残るが、悪い人に騙されて斬首に…。
「戦国人物紹介」

九州でいってみましょう、マイナー武将特集!

茶器が救った家名、子孫に名君が出る

秋月種長 【あきづきたねなが】 1567-1614

長門守。種実の子。秋月氏は渡来系である阿智使主(あちのおみ、後漢の最後の皇帝である献帝の後裔という)の子孫と言われ、代々筑前秋月に住んで、弘安の役(元寇)にも出陣、南北朝時代には菊池氏とともに南朝方となっている。1557年、祖父秋月文種と長男の晴種は大友宗麟に攻められて自害し、二男の種実は家臣に連れられて古処山城を脱出する。1559年、秋月氏を復興し、毛利氏と結んで大友氏に抵抗するが、結局は大友氏に降伏した。その後、大友氏が衰退して島津氏の勢力が伸びてくると島津氏と結ぶが、1586年、秀吉の九州攻めに遭うと、種長ともども降伏した。名物の茶器である楢柴肩衝(ならしばかたつき、初花、新田肩衝と並んで「天下三肩衝」と呼ばれた茶入)を差し出して家名は保ったが、所領は筑前秋月から日向櫛間(福島)城に移された。児島郡と諸県郡の一部などで三万石を領する。

関ヶ原の戦いでは西軍に属して伏見城攻めに加わり、その後は美濃大垣城を守備する。本戦で主力が敗退すると、相良頼房(長毎)や実弟の高橋元種とともに、垣見家純(一直)、熊谷直盛、木村由信・豊統父子を謀殺して東軍に降った。のち、居城を櫛間から財部(高鍋)に移し、そのまま廃藩を迎えた。ちなみに、七代藩主種茂の弟は、出羽米沢藩に養子入りした上杉鷹山(ようざん、名は治憲)である。優秀な遺伝子だったのだろうか。

乱世を生き残るが関ヶ原で失敗

筑紫広門 【つくしひろかど】 1556-1623

二九市丸、左馬頭、上野介、従五位下。惟門の子。鎌倉時代以来の名族である少弐氏の一族と言われ、筑前に割拠した豪族。小勢力の常で、少弐氏、大内氏、毛利氏などに属した。その後は高橋紹運(立花宗茂の実父)の宝満城を攻めるなど大友氏と対立するが、広門と紹運の妻が姉妹(斎藤兵部大輔鎮実の娘)であったことから和議が成立し、広門の娘を紹運の二男統増(のちの立花直次)の室として大友方となった。

1586年、島津軍が北上して大友領への侵攻が始まると、高橋紹運は岩屋城で玉砕したが、広門は嫡子(弟とも)晴門が戦死すると島津軍に降伏した。筑後大善寺に幽閉されたが、秀吉の九州攻めが始まると、脱出して家臣を集め、肥前五ヶ山城を奪って旧領を回復、秀吉軍に加わって筑後上妻郡山下城一万八千石を安堵された。朝鮮出兵にも従軍した。

関ヶ原の戦いでは西軍に属して、伏見城、大津城攻撃に加わる。本戦での主力敗戦後、帰国して加藤清正の家臣に城を明け渡した。入道して夢庵と号し、清正、ついで細川忠興に寄食した。子の広門(父と同名、主水正)は大坂の陣での戦功を理由に三千石を与えられ、子孫は旗本として続いた。



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大勢力の中を必死に生き抜いた彼らの姿も見てほしい。

「戦国人物紹介」

その強さから「皇帝」と呼ばれたシンボリルドルフは「ル」の音が発音しづらく、実況者泣かせの馬名だったのですが(実況が噛んでいるシーンがいくつかある)、「こばやかわたかかげ」もキーボードを打つ人を泣かせる読みなんですよね。「たかかげ」と「か」が連続するところが難しい(そうでもない?)

誰もが認める良将ですが、事績を書こうとすると実は難しい人物です。毛利家では水軍を率いて主に山陽方面で活躍、とありますが、具体的な戦いが挙がるわけではありません(決戦を強いずに勢力を拡げたというのはある意味名将かもしれない)。五大老の一人にも挙げられますが、中央でどのように政治に携わったのかはよくわかりません。小早川秀秋を養子に迎えたことも含めて、彼の存命時は毛利家が維持発展できたということが有能さの証明なのかもしれません。

041 小早川隆景 【こばやかわたかかげ】 1533-97 後編

中務大輔、左衛門佐、従五位下、従四位下侍従、正四位下参議、従三位権中納言。

1571年、元就が死去する。元就は輝元に「毛利家は天下を望んではならない」と遺言するが、天下統一を目指す織田家との戦いが激化していく。毛利両川は輝元を補佐するが、実際に輝元の養育を任されたのは隆景である。家臣の前でなければ時に折檻までして厳しくしつけたという。隆景は水軍を率いて主に山陽方面の軍事を担当するとともに、内政、および外交も担当し、八面六臂の活躍を見せる。

織田家との戦いは次第に劣勢となり、1582年には清水宗治がこもる備中高松城が包囲される。輝元、元春、隆景は毛利軍三万を率いて救援に赴くが、秀吉には信長の本隊が援軍に来る予定であり、敗北は必至であった。安国寺恵瓊を通じて秀吉との和睦交渉を行うが、そこに本能寺の変が起こる。秀吉は信長の死を秘して毛利家と和睦を結び、東へ向かった(中国大返し)。信長の死を知った毛利家中では吉川元春が追撃を主張したが、隆景は「和睦の誓紙の血が乾かないうちに追撃するのは不義である」として反対、結局、毛利家は秀吉を追撃しなかった(秀吉が高松城を囲っていた堤防を決壊させたために追撃ができなかったともいう)。

その後は、秀吉と距離を置く兄元春とは対照的に、積極的に秀吉に協力。1585年の四国攻めの戦功で伊予を与えられている。九州攻めにも従軍し、筑前・筑後両国と肥前一郡半を与えられて三十七万石余を領した。しかし、この九州攻めで兄元春、その子元長を失い、以後は隆景一人で輝元を、毛利家を支えていくことになる。元就同様、輝元の器量に不安を感じていた隆景は壮年を超えても第一線に出続ける。

1590年の小田原攻めに参加し、1592年には朝鮮に出陣、翌年の碧蹄館(へきていかん、ペクチェガン)の戦いでは立花宗茂らとともに明軍と戦い、これを撃破している。1594年には秀吉の養子である羽柴秀俊を養子として迎えている(のちの小早川秀秋)。これは当時、輝元に子がなく、秀吉が養子を送り込んで毛利家乗っ取りをたくらんでいたのを、同じく子がなかった隆景が秀吉に頼みこんで養子にもらいうけたとされる。小早川家を犠牲にして毛利の本家を救ったのである。翌年、家督を譲って隠居し、安芸三原城に移った。しかし、1597年、家臣と談話中に突然嘔吐してそのまま死去。数時間前まで執務していたというから死因は卒中と言われる。

隆景の家臣は毛利家に帰参し、小早川家は秀吉から附属された家臣たちが秀秋を補佐した。毛利両川はここに一方を失い、元春の三男である広家に毛利家の命運が託されることになった。



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小早川氏の家紋は左三つ巴。次のアレの代で断絶してしまうが、明治になって再興する。
「戦国人物紹介」

毛利三兄弟の中では、もっとも父元就に似ると言われたのが、三男の隆景である。特に父譲りの知略を発揮して毛利家の維持存続に貢献した。自分を黒田官兵衛(孝高、如水)と比較して「貴殿(官兵衛)は才智があるので即断即決するが、思慮を尽くしていないから後悔することもあるだろう。自分はすぐには決断できないが、その分思慮を尽くすので、後悔することは少ない」と言ったという。

彼については絶賛してもいいのだが、唯一惜しまれるのは命が長く続かなかった点である。この人が存命であれば、関ヶ原の戦いもまた異なった経過をたどったであろうが、いずれにせよ、毛利家を過たずに導いたであろうことは容易に想像できる。

関ヶ原の戦いで、毛利輝元は西軍の総大将に祭り上げられて、家康と敵対することになり、吉川広家は家康と密約を結んで本戦では非戦を貫いた。小早川秀秋は西軍に従うそぶりを見せながら本戦で東軍に寝返って、東軍大勝利のきっかけを作った。吉川、小早川はかつて毛利両川と謳われたが当時はこの様である。すでに小早川秀秋は毛利家とは別の家になっており、戦後加増を受けたが、毛利家は大減封となった。

本能寺の変がなければ、1582年に毛利家は滅んでいた。その本能寺の変が起こって、撤退する秀吉軍を毛利家は追撃しようとするが、いったん結んだ和議を破るのは義にもとるとして留めたのが小早川隆景である。彼の親秀吉路線は秀吉を活かし、毛利家をも活かした。しかし、秀吉に非協力的な兄元春との関係は微妙なものとなり、毛利両川の不和は毛利家の将来に暗い影を落とした。

とはいえ、文武に優れた良将とはまさに彼のような人物のことで、毛利家の家臣でありながら、毛利輝元とともに五大老に選ばれている。『名将言行録』では、直江兼続、堀直政とともに、「天下の仕置もしかねまじきものなり(し損じることはない)」と、天下三陪臣(ばいしん、家臣の家臣、の意味)の一人に挙げられている。隆景が死去すると、秀吉の側近が「よき中国の蓋(ふた)でありました、惜しいことであります」と言うと、それを聞いた秀吉は「そんな小さなことではない、日本の蓋としても余るものであった」と言ったという。親交のあった黒田官兵衛も「隆景が亡くなって日本に賢人は絶えた」と嘆いた。

041 小早川隆景 【こばやかわたかかげ】 1533-97 前編

徳寿丸、又四郎。元就の三男で母は妙玖。兄隆元、吉川元春とは母を同じくする三兄弟である。名乗りの「隆」は大内義隆から、「景」は(竹原)小早川氏の通字である(となれば、元服する前に大内義隆の意を受けて、小早川氏に養子に送られたということである)。

初め安芸の豪族である竹原小早川興景の養子となる。小早川氏は頼朝に仕えた土肥実平の子孫で土肥実平は桓武平氏良文流とされている。その後、小早川氏の本家である沼田小早川家の当主繁平が若年で、また盲目であったため、大内義隆は尼子氏の攻勢に耐えられるか心配し、元就と共謀して繁平を拘禁し、繁平の妹と隆景をめあわせて、沼田・竹原小早川氏を合体させた(1551年)。なお、その後、反対派は粛清されたが、繁平自身は出家し、禅に帰依して教真寺に入り、1574年に三十余歳で天寿を全うしている。

以後、小早川氏は毛利家臣に組み込まれ、水軍を率いて活躍することになる。1555年の厳島の戦いにおいては、村上水軍とともに、陶軍を厳島にくぎ付けにし、毛利家の勝利に貢献している。北九州においては大友軍と激戦を重ね、立花道雪とも互角に渡り合っている。また尼子氏の月山富田城包囲戦にも参加。兄隆元の死後は遺児輝元を元春とともに補佐した。



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本質的には「文」の人であったと思われるが、「武」の方もまずくない。
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