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兵は拙速なるを聞くも、いまだ巧久なるを睹ざるなり(『孫子』)
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「戦国人物紹介」

042 大友宗麟 【おおともそうりん】
 1530-87 (後編)
 
1567年には再び毛利氏と戦うが、重臣の高橋鑑種が毛利氏に内通して反旗を翻す。これは立花道雪を派遣して鎮圧させる。1569年にも毛利氏の侵攻に遭うが、大内輝弘(大内氏の一族)を周防に上陸させ、毛利軍を撤退させている。1570年、肥前に攻め込むも、今山の戦いで龍造寺隆信に敗れ、弟の大友親貞を失う。以後、この方面では龍造寺氏の勢力伸長を止められなくなってしまう。
 
1576年には長男の大友義統に家督を譲って丹生島城へ隠居するが、実権は握り続けており、二頭政治を招いたことから、大友氏の政情は混乱してしまう。1578年、島津氏に攻められて日向から逃れてきた伊東義祐の要請に応じ、日向に侵攻する。一説には現在の延岡市に「無鹿」という地名をつけ宗教王国の建設を夢見たという。無鹿(むじか)は「music」の意で、Muse、ゼウスの娘である9人の女神、その技、が原義である(もともと「務志賀」という地名があったともいう)。しかし、耳川の戦いで島津軍に惨敗し、佐伯惟教、田原親賢、田北鎮周、角隈石宗など多くの家臣を失うと、家臣の間には動揺が広がり、1579年には田原親貫(親賢、号紹忍、の本家筋に当たる)、1580年には田北紹鉄(名は鑑富、鑑重。鎮周の兄で養父)などの大友氏庶流や秋月種実、和睦していた龍造寺隆信らの謀叛、離反が相次いだ。島津氏の北上もあり、大友氏は急速に衰退していく。
 
1586年には自ら大坂城に赴き秀吉に支援を懇請、同年、豊臣軍の先遣隊が派遣される。しかし、戸次川の戦いで島津軍と戦って、長宗我部元親の嫡男である信親が戦死するなど大敗。島津軍は宗麟のこもる豊後に侵入、丹生島城に籠城する宗麟は大砲をもって島津軍を退けるが、大友氏は滅亡寸前まで追い詰められた。1587年、豊臣軍の本隊が到着。秀吉の九州攻めにより島津氏が敗れると、大友氏には豊後一国のみが安堵されたが、宗麟自身は島津氏の降伏直前に豊後津久見で病死した。死因は伝染病、ペストともチフスともいう。
 
1551年、フランシスコ・ザビエルと面会し、キリスト教の布教を許可、1578年には自らもキリスト教の洗礼を受ける。純粋な信仰心と言うよりは、鉄砲に使う硝石や大砲の輸入、さらには貿易の利益が目的であったというところか。
 
フランシスコの洗礼名を持つキリシタンであるから、仏教側の史料から見れば暗君であり暴君であるように書かれるところもあるのではないだろうか。家臣の妻を奪ったとか、酒色におぼれたというのは、典型的な暗君、暴君のあり方であり、偏った書かれ方である。
 
とはいえ、若いころは粗暴だったといい、父義鑑もそんな宗麟(当時は塩法師丸)を嫌い、塩法師丸の弟に家督を継がせようとしたともいう。
 
天正遣欧使節は大友宗麟、大村純忠、有馬晴信の三大名が派遣したとされているが、宗麟は関与していなかったという説もある。また、耳川の戦いに至るまでの日向侵攻戦には宗麟も参加しているが、主導したのは子の義統という説もある。あまりに「大友宗麟」という光が強すぎて、何事も彼の功罪にされてしまう嫌いがある。
 


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この人ならこんな格好をしていてもおかしくはない、というのもイメージ。
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