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兵は拙速なるを聞くも、いまだ巧久なるを睹ざるなり(『孫子』)
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「戦国人物紹介」

英雄か暗君か
 
042 大友宗麟 【おおともそうりん】 1530-87 (前編)
 
塩法師丸、名は義鎮(よししげ)。左衛門督、豊後・豊前・肥前・肥後・筑前・筑後守護。洗礼名はフランシスコ。
 
「戦国人物紹介」の九州編をやると言いつつも、なかなか本編に入れなかったのは、この人をどう書こうか構想がまとまらなかったからである。六カ国の太守となるなど、九州における英雄の一人なのだが、キリスト教に傾倒し仏教派の家臣たちとの対立を招き、また晩年の凋落もあって、毀誉褒貶が激しい。結果だけを見て批判することは簡単だが、九州における戦国大名の先駆者として、この人なりの功績もあるのではないだろうか。
 
大友義鑑は長男の塩法師丸(義鎮)よりも三男の塩市丸を寵愛し、塩法師丸を廃嫡して塩市丸に家督を譲ろうとする。甲斐武田家や伊達家、美濃斎藤家などにも似たような話があったが、こういう御家騒動はどこにでもある。大友家中は二派に分かれて対立。義鑑は塩法師丸廃嫡に反対する斎藤播磨守長実を誅殺、危機を感じた津久見美作守・田口蔵人は大友館の二階にいた塩市丸、その生母を襲撃して殺し、義鑑にも重傷を負わせた。津久見と田口はその場で斬られたが、義鑑も数日後に傷がもとで死去、義鎮に置文(遺言状)を残した。義鑑の死後、戸次鑑連(のちの立花道雪)らに擁立されて義鎮が家督を継いだ(二階崩れの変、1550年)。背景には義鎮の母は大内義興の娘と言われ、大内氏の勢力を排除しようとする動きがあったとも言われるが、義鎮自身のクーデターという見方もある。
 
塩市丸派であった入田親実(親誠)は妻の父である阿蘇惟豊のいる肥後に逃れたが、惟豊に殺された。三年後には服部右京亮・一万田弾正忠(鑑相)らが義鎮を暗殺しようとして発覚するなど、当初は不安定な時期が続いた。
 
1551年、大内義隆が家臣陶隆房(晴賢)の謀叛により自害すると、晴賢から請われて弟の晴英(幼名は塩乙丸)を大内家の当主として送り込んだ(大内義長)。これにより長く続いた大内氏との対立状態が解消され、豊前・筑前に勢力を拡大するとともに、博多港を得た。1554年には叔父であるが大友氏にたびたび叛いていた肥後の菊池義武を討った。1557年、大内義長が毛利元就に討たれると、毛利氏との戦いが始まる。九州北部の領主が毛利氏に通じて大友氏に叛いたため、筑前の筑紫氏・原田氏・秋月氏などを討った。1559年にこれまでの豊後・肥前・肥後に加え、将軍足利義輝から豊前・筑前・筑後守護、および九州探題に任じられる。
 
これで終われば、六カ国の太守であり、大友氏の最盛期を築いた英主、というところだが、そうはならなかった。毛利氏との戦いが続き、龍造寺氏の台頭や島津氏の挑戦もあったのだが、凋落の要素は外だけではなく内にもあった。大友氏の庶流である同紋衆と在地の国人である他紋衆の間には権力闘争、対立があったが、これに拍車をかけたのが宗教対立である(宗教対立としては宇喜多家の騒動も知られている)。領内にキリスト教の布教を強化したことが家臣団の対立と結びついたのである。1562年、出家して宗麟と号しているが、従来の宗教側との妥協の産物である。
 


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「轟音music」とはなかなか乙なネーミングである。後編に続く。
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