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兵は拙速なるを聞くも、いまだ巧久なるを睹ざるなり(『孫子』)
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そろそろ平常の営業に戻ります。現実を見ないといけません。

「戦国人物紹介」外伝

「道理」について考える


漢の高祖(劉邦)は秦を討つと、「法三章」と呼ばれる簡素な法を出しました。

「人を殺せば死刑、人を傷つければ処罰、人の物を盗めば処罰」

秦の複雑な法に民衆は苦しんでおり、劉邦はあえてこのような簡単な法にしたのです(かつて、法は必ずしも公開されたものではなかったことにも留意する必要があります。要は為政者だけが法を知っていて、恣意的に運用されることもあった)

ところで、「罪刑法定主義」という考え方があって、これは犯罪行為を犯罪とし、刑罰を科するには、その旨を定めた法文がなければいけないということです。逆に言うと、法文がなければ処罰できないことになります(多くの人が「これは悪いことだ」と思ったとしても、それを罪とする法がなければ裁けないのである)

一方で、例えば飲酒運転で車を突き落として三人の子供を殺したのに、従来の刑罰でいいのか、もっと厳罰に処すべきではないか、そういう声が大きくなれば、法律が改正されることもあります(最高裁は高裁の認めた危険運転致死傷罪を支持して上告を棄却したが、同罪が成立するかについては議論があるし、懲役20年でも軽すぎるという意見もある)

さて、「法三章」ではありませんが、人を殺したり、傷つけたり、人の物を盗んだりするのはいけないことだ、ということは法律のわからない子供にもわかる「道理」でしょう(なぜいけないのかは本旨とずれるのでここでは論じない)

「非理法権天(ひりほうけんてん)」という言葉があります。近世(江戸時代)の日本の法観念を表しているとされていますが、それ以前でも、それ以降でも日本人ならば理解できる概念なのではないでしょうか。「理(道理)は非(無理)に勝り、法は理に勝り、権(権威)は法に、天(天道)は権威に勝る」とするもので、後半はやや難解かもしれませんが、法治国家でも、それを超越するような天意(例えば天罰のようなもの)の存在を認める人は多いのではないでしょうか。

これに対し、中世では「道理」がもっとも重視される要素でした。権力者でも道理=法に拘束されると考えられていました(ここでは法が権力者に(恣意的に)制定されるものではないとの考え方がある)。

何がよくて何が悪いか、時代によって異なりますし、文化や宗教によっても異なります。

聖徳太子については、そもそも実在を疑う説もありますし、十七条憲法も作っただけで施行していないという説もありますし、当時の作かどうか、太子の独創なのか、などなど様々な議論がありますが、ともかく。これを後世に遺した人はこれを(遺した時点の感覚としても)もっともなことだとしたのです。

一条には「和をもって貴しとなし」とあります。みんなの同意を最初に持ってきたんですね。二条が「篤く三宝を敬え」で、三宝とは「仏法僧」のことです。法(のり)は「和」よりも後なんです。ちなみに三条が「詔を承りては必ず謹め」で、詔(みことのり、天子の命)はさらに下って三番目です。天子の命令よりも法よりも、まずみんなの同意、納得が大事ですよ、ということを太子は言っています。もちろん、太子が言ったからそうなったわけではなく、太子は日本人の特性をよく知っていたのでしょう。ここに太子の明があります(詳しくは、井沢元彦あたりを読むとよい)。倭(わ)=和なら、日本の異名である「大和(やまと)」という字も興味深いものですけどね。

民主主義の意思決定は多数決によって決められることがほとんどで、「和を貴し」とする日本人は、多数決で決まれば何をしてもいいと思っているところがありますが、多数決の原理で重要なのは少数意見も尊重することですし(でなければ、多数派による専制になってしまう)、多数意見だから何をしてもいいということにもなりません(例えば、基本的人権を害するような意見)。

陶晴賢に話を戻せば、彼には大内家重臣としての責務(大内家を存続させる義務)がありましたし、そもそも彼自身、大内家の一族でした(形式的には、取って代わらずに新たな主君を擁立したのは彼の賢明さか限界か)。主君である大内義隆が政治を執らなければこれを改めさせるのが彼の責務です。何度も諫言を行いますが、容れられることはなく、彼自身が重臣の地位を追われるに至り、決断を迫られます。ここで彼が取った行動は中国における「放伐」の論理に近いものがあります。

放伐とは暴君や暗君を(武力によって)追放したり討伐したりすること(そしてそれに代わって天子となること)ですが、徳がない(「不徳の致すところ」の「徳」である)主君を廃することは絶対悪ではありません(ただし、曹操の子曹丕が漢を滅ぼして魏を建てたときのように、実際は「禅譲」といった形を取ることがもっぱらである)

政治を顧みない大内義隆を追放すること(最終的には殺したが)は、陶晴賢にとっては「道理」であり、多くの人々の納得が得られる行動になるはずでしたが、晴賢に対する反対派も多く、成功には至りませんでした。

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「戦国人物紹介」

036 陶晴賢 【すえはるかた】
 1521-55(享年35) 後編

この人を知るときに注意しておきたいのが、「毛利家フィルター」と「主殺しの論理」である。

毛利家フィルター
歴史は勝者が記すというが、往々にして後世の史家が記すものであるから、記すときの状況によって筆を枉げる(まげる)ことがある。例えば浅井長政であるが、彼は天下人である織田信長の義弟という徳川家康以上に恵まれた立場にありながら、朝倉家との交誼を重んじて家を滅ぼした凡将である。しかし、長政は三代将軍家光の祖父であり、明正天皇の曽祖父でもあるから、長政の評価にはフィルター、バイアスがかかっていて(偏りがあって)、少なくとも近世までは悪く書かれることは少ない。姉川の戦いでも奮戦したように書かれている。それだけ織田軍が弱く、同盟軍として参加した徳川軍のおかげで勝ったように書かれている。それが徳川史観とでも言うべきものである。近年は妻である「戦国一の美女」お市の方とのバランスを取るためかイケメンに改造されている。「戦国IXA」ではまさかの坊主だが。



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これだと、私の中では、やり手の筒井順慶といったイメージである。

さて、毛利家も江戸時代を生き抜いて、維新の主役となったのであるから、毛利家に近い部分の歴史については、毛利家がいかに賢く(それゆえに勝利した)、滅ぼされた者たちがいかに愚かだったか(それゆえに滅んだ)という書かれ方をされる傾向がある。大内義隆は文弱の暗君であるし、陶晴賢はその義隆を殺した謀反人であり極悪人であり、いともたやすく元就の謀略にかかって滅んでしまう。毛利家フィルターをはずしてみなければ彼らの真実の姿は見えてこないだろう。

主殺しの論理
主君の地位に取って代わるとなると下剋上ということになるのだが、主君に統治能力(それはこの時代であれば、家臣たちの既得権益を守るということに近いのだが)がなければその主君を代えてもいい、というのもタブーではない。武田信虎(信玄の父)は家臣団のクーデターで国を遂われたし、上杉謙信も家臣の意向により実兄から当主の座を譲られている。この考え方は江戸時代も続き、岡崎藩の水野忠辰など、遊興にふける藩主が家臣によって座敷牢に「押し込め」られ、隠居を強要される例もあった。家臣たちの権益を守れなければ、主君では居られないのである。

晴賢も義隆を殺さずに隠居に追い込むか国外追放くらいにしておけばここまでの悪名もなかったと思うのだが、これは結果論に過ぎるだろう。義隆の子義尊を擁立する考えもあったというが結局は殺してしまう。晴賢は大内家の重臣であったが、義隆を排除したのは大内家臣の総意ではなかったし、晴賢自身、家中に多くの敵を抱えていた。
「戦国人物紹介」

036 陶晴賢 【すえはるかた】
 1521-55(享年35) 前編

「晴賢」と名乗ったのは、1551年に主君の大内義隆を殺したあとに擁立した大内晴英(のちに義長と改名)から一字を拝領した時からである。それまでは「隆房」と名乗っていた。晴賢の方が知られているため、本稿では基本的に晴賢で通す。

五郎、中務大輔、従五位上尾張守。陶氏は大内氏の一族で、右田氏の分かれである。父は周防守護代陶興房、母は同族右田隆康の妹。陶弘護は応仁の乱の際に在国して大内教幸の反乱を鎮圧し、在京していた大内政弘を助けた。その子が興房で、北九州・中国地方で軍功があったが、和歌や連歌にも優れた人物で、公家の飛鳥井雅俊や連歌師の宗碩(宗祇の弟子)とも交流があった。

1539年、興房が死去すると、家督を継いだ晴賢は翌年からの吉田郡山城の戦いに参戦、大内軍を率いて尼子晴久の軍を破る。しかし、1542年の尼子領侵攻(月山富田城攻め)には失敗し、大内晴持(義隆の養嗣子)を失う。このため、義隆は政治に関心を示さなくなり、文化面に傾いていく。そんな中、文治派の相良武任と対立し、義隆との関係も悪化していく。軍事を放棄した義隆に武断派の晴賢はたびたび諫言を行うが、聞き入れられることはなかった。

1551年、晴賢は決起すると、山口を襲撃し、大寧寺で義隆を自害させる。ついで、大友氏から宗麟の弟であり、義隆の甥に当たる大友晴英(母が義隆の父義興の娘)を大内家の当主に迎えた。晴英は大内義長と名乗り、晴賢も初名の隆房から改名している。

そんな大内家の内紛をじっと見ていたのが安芸の毛利元就である。大内義隆の姉を正室とする石見の吉見正頼が陶氏打倒を目指して挙兵する。これはいったん講和となるが、1555年、再び正頼が挙兵すると、これに呼応した元就は大内軍の隙を突いて安芸の大内方の城を落とし、安芸を支配下に収める。晴賢は自ら兵を率いて安芸厳島に侵攻するが、毛利軍の奇襲によって敗北し、自害した(厳島の戦い)。その後の大内氏は毛利氏の防長(周防・長門)攻略に遭い、抵抗するも敗れて、1557年、大内義長が自害。ここに名実ともに大内氏は滅亡した。



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文武に秀でた名将になる素養は秘めていたのだが、主君に恵まれず。
「戦国人物紹介」

少なくとも中世であれば、権力者の子がその地位を世襲するということは当然のこと(血こそが正統性の証である)で、金正恩も中世に生まれていれば危なげなく権力者の地位を継承していたと思われますが、いまは中世ではありません。社会主義国家が世襲をするのも極めて異例ですし、北朝鮮が中世の段階にしか達していないという一つの証左かもしれません、政治だけでなく経済も含めて。日本に世襲政治家が多いことも時代錯誤の感は否めません、国民性なのかもしれませんが。権力者は担がれているだけで、実務を担う人が利益配分をするのが日本の形です。

さて、系図が好きで、武将個人だけでなく、「家」もよく見ることが多いです。系図自体はその家をより良く見せるために、有名な人物につなげたり、出自を偽ったりと、「粉飾」がなされていることが多いので、一級資料とは言えないことが多いのですが、連綿と血が(時に現代まで)つながっているのを見ると感動します。 いままで何百という家の系図を見てきましたが、長く続けば続くほど、大きければ大きいほど、必ずと言っていいほど、家督争いが起こります。優秀な当主を失った場合に、後継者を巡って家中を二分するような内紛が起こることもよくあります。

織田信長は父信秀の死後、弟信勝(信行)と家督を争いましたし、信長の死後も織田家の家督争いがありました(信長は生前家督を嫡男の信忠に譲っていたが、本能寺の変で信忠も死んだため、二男信雄と三男信孝が家督を争った)。豊臣家も秀次から秀頼への継承はすんなりといきませんでしたし、徳川家にも家康の次は誰かという後継者問題が存在しました。信玄は父信虎を追放して家督を継ぎましたし、謙信の死後、上杉家は内乱状態となりました。一見、盤石に見える伊達家や島津家にも家督争いがありました。

ここまでが大内義隆の長い前振り。大内家も家督争いがあって、足利義満に挑戦した義弘の死後や、その後の内乱を制して家督を継いだ盛見の死後など、家督をめぐる争いがあり、政弘が応仁の乱で在京したときも地元では叔父教幸の反乱がありました。一方で、大内家の中興の祖とも言われ、全盛期を築いた義興には嫡子義隆のほか後継者はなく、家督継承も円滑に行われました。家督争いの続く家で行われた円滑な家督継承、ここに緩みがあったかもしれず、大内家が滅びる遠因を見ます。

035 大内義隆 【おおうちよしたか】 1507-51

父は義興、母は長門守護代内藤弘矩の娘。亀童丸。周防介、大内介ほか。周防・長門・石見・豊前・筑前・安芸守護。左京大夫、左兵衛権佐、兵部権大輔、伊予介、太宰大弐、兵部卿、侍従、従二位。元服後は父に従って安芸に出陣するが、1528年、父の死により家督を継いでからは北九州の経略に注力した。少弐氏・大友氏らとの戦いは一進一退が続くが、1536年には太宰大弐に任じられ、太宰少弐であった武藤(少弐)資元を肥前多久城に討って少弐氏を滅亡させた(のち子の冬尚が再興するが、龍造寺隆信に滅ぼされる)

父義興は十年間在京して幕政に関与したこともあり、1537年、義隆も将軍足利義晴から幕政に参与するよう招かれ、上洛を計画する。しかし、尼子氏の勢力伸長もあり領国経営に専念するため断念した。1540年、大内氏に属していた安芸吉田郡山城の毛利元就が尼子氏に攻められると、重臣の陶隆房(のちの晴賢)らを援軍として送ってこれを撃破し(吉田郡山城の戦い)、翌年には厳島神主家の友田氏、銀山城の安芸武田氏を滅ぼして、安芸を領国に収めた。

1542年には尼子氏を討つために大軍を率いて出雲に遠征し月山富田城を囲んだが、戦線は膠着状態となった。越冬を余儀なくされ、兵站の維持に困難を極めたことから、大内軍の士気は低下、国人衆の離反もあって敗北を喫することとなった。敗走する中で養嗣子晴持(義隆の姉の子)は溺死、以後、政治に関心を失ったと言われる。1545年には嫡子義尊(よしたか、と読むと父と同じ読みになる)が生まれているが、文治的な傾向は変わらなかった。文治派の相良武任(肥後の相良氏の一族という)らを重用したことから、武断派の陶隆房らの反発を招き、1551年、陶隆房が兵を挙げると山口を逃れたが暴風雨のため逃げきれず、長門大寧寺にて自害した。嫡男の義尊も殺され、大内家の正統は事実上滅亡した。

義隆は大内家の歴代の中に限らず、戦国大名の中でも特に好学で、類を見ない文化人であった。儒学や和歌、連歌などに秀で、有職故実にも精通していた。ザビエルに布教を許可し、明や朝鮮との貿易も栄えた。また三条西実隆、吉田兼右、飛鳥井雅俊ら多くの文化人と交流した。
 


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まさかのメガネw(2回目)

今川義元のように家督争いを経ていたら、もう少し変わった人生になっていたかもしれない。中国地方のみならず、北九州にも覇を唱え、毛利元就も従わせていた大内氏はもっと評価されてよい。
「戦国人物紹介」

大内氏・西日本最強の勢力


戦国時代における中国地方の歴史となると、最終的に中国地方を制覇した毛利元就をはじめとする、毛利氏中心の歴史になるのだが、毛利氏飛躍の転機となった陶晴賢との厳島の戦いを書き、さらにそれ以前、大内氏の歴史について語らなければならない。毛利氏も元は大内氏に仕える安芸の国人領主に過ぎなかったのである。

大内氏と言うと、文弱に流れた大内義隆が陶晴賢の謀叛に遭って自害し、実質的に滅んだ場面の印象が強く、今川義元や朝倉義景に近い分類をされているのではないかと思うが、戦国時代になって毛利氏や大友氏が台頭するまで、室町時代にあっては西日本における最大最強の勢力であったと言っていい。それは軍事力だけではなく、日明貿易による経済力、山口の文化都市としての繁栄など多くの範囲に渡る。

さて、大内氏は日本の氏族としては珍しく、「源平藤橘」につながらず(つなげておらず)、日本に仏教を伝えた(仏教公伝)百済の聖明王の第三子である琳聖(りんしょう)太子の子孫を自称している。これは朝鮮半島との貿易を有利にするためと言われているが、太子の存在自体は疑われており(記録にない)、実際は平安時代の多々良氏の末裔とされている。周防吉敷郡大内県に住み、また周防の在庁官人として周防介、権介を世襲し(介は地方官の一つで守の次になる)、大内介と称し、ここから大内氏を名乗ったとされる。また鎌倉時代の末期には幕府の御家人となり六波羅評定衆にもなっている。のち山口に拠点を移し、山口を中心に中国地方、九州北部に勢力を伸ばしていくことになる。

大内義弘(1355-99)は室町幕府に従い、九州探題今川貞世(了俊、義元の先祖ではないが同族)の九州攻めに従軍し、1391年に山名氏清(いわゆる「六分一殿」)が足利義満に反乱した明徳の乱でも活躍し、1392年の南北朝合一にも仲介を務めた。周防・長門など六か国の守護となった義弘であったが、義満に警戒され、最後はその挑発に乗り堺で反乱するに至る。義満の討伐を受けた義弘は、堺に籠城一か月余で敗死し、これにより大内氏の勢力は一時的に後退する。

義弘の弟盛見(もりはる)が一族の争いを制して家督を継ぐと、幕府もこれを認め、周防・長門の守護職に復帰した。九州北部にも勢力を広げるが、少弐氏との戦いで戦死した。その後は義弘の子である持世と持盛の間に家督争いがあり、持世が勝利した。持世は周防・長門・豊前・筑前四か国の守護となり、少弐氏・大友氏と争うが、1441年、将軍足利義教が赤松満祐に殺される嘉吉の乱に巻き込まれて重傷を負い、それがもとで死去した。

二代あとの政弘は日明貿易をめぐって管領細川勝元と争い、四国伊予の河野氏を支援して細川氏と戦った。政弘の母は山名宗全の養女であり、1467年、応仁の乱が起こると、中国・九州の兵数万を率いて上洛し、西軍の山名宗全に与した。1470年、乱の最中に下関にあった叔父教幸が東軍に応じ反乱すると、政弘は陶弘護を派遣してこれを鎮圧させた。弘護は陶晴賢(隆房)の祖父に当たる。乱が終わると帰国し、安芸・石見にも勢力を伸ばした。1491年には上洛して、将軍足利義稙を援けて近江の六角高頼を討っている。政弘は文化にも造詣が深く、応仁の乱で荒廃した京から多くの公家や僧侶、芸術家を山口に招いた。水墨画家の雪舟が明に渡ったのも政弘の支援があってのものである。また政弘自身和歌に秀でており、宗祇の『新撰莵玖波集』にも多くの歌が選ばれている。

政弘の子義興は北九州で大友・少弐氏と戦う一方で、中央に進出する。1508年、山口で庇護していた足利義稙を擁して上洛、将軍義澄を追放して、義稙を将軍位に就け、みずからは管領代・山城守護となった。その後も中央での戦いが続くが、家臣たちには負担が大きく、領国では出雲の尼子経久が勢力を伸ばしてきたため、帰国して尼子氏と戦った。1523年には日明貿易をめぐる細川氏との争いが明の寧波(ニンポー)であり(寧波の乱)、一時日明貿易は中絶するが、その後は大内氏が貿易を独占するに至った。義興の子が義隆であり、義隆の代に大内氏は最盛期を迎えるが陶晴賢の反乱に遭って自害した。義隆については別項にて述べる。

宗家は滅亡したが、支流が生き残って、山口氏を称し、常陸牛久(うしく)藩主となって廃藩に至っている。牛久市は先日大関に昇進した稀勢の里の出身地として知られている。
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