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兵は拙速なるを聞くも、いまだ巧久なるを睹ざるなり(『孫子』)
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「戦国人物紹介」

大友氏

 
初代は大友能直であるが、出自ははっきりとしない。源頼朝の庶子とするのは島津氏と同じく伝説に近い。古庄(ふるしょう)能成(あるいは近藤能成)の子で母の父である波多野経家の相模大友荘を領したことから大友能直と名乗ったという。頼朝の側近で、母の縁戚でもある中原親能の猶子となり中原能直と名乗るなど、名字は転々としている。この縁で頼朝に寵愛され、豊後などの守護職に任じられた。実際に九州に赴いたのは孫の三代頼泰の代であるが、能直の子が託磨氏や一万田氏、志賀氏、田原氏などの祖となって九州に下っている。
 
六代貞宗は後醍醐天皇の挙兵に呼応して、北条氏の鎮西探題を攻め滅ぼした。南北朝時代には大友氏も南北に分裂する。その後は九州に勢力を伸ばす大内氏と対立、家中からも大内氏に与する勢力が出て、分裂が続いた。これを統一するのが十五代の親繁である。しかし、親繁の死後、子の政親とその子義右が対立、政親は義右を毒殺するが、政親は大内氏に攻められて自害、大友氏は滅亡の危機に瀕するが、政親の弟親治が家督を相続する。親治の代に大友氏は戦国大名化したとされる。
 
親治は将軍足利義澄と通じ、子義長への家督譲渡の承認を得た。また、豊後・豊前・筑後の守護職を安堵され、大友氏の治世は一応の安定を得た。義長は「大友義長条々」を制定、以降、義鑑・義鎮(宗麟)・義統(吉統)の代における家訓となった。1534年、義鑑は勢場ヶ原の戦いで長く対立していた大内義隆に勝利。しかし、嫡子義鎮(塩法師丸)に代えてその弟である塩市丸を寵愛し、塩法師丸を廃嫡して塩市丸に家督を継がせようと図ったため、反対派に斬られる。臨終に際して、塩法師丸に家督を譲って死去した。これが二階崩れの変である。ここに大友氏の家督として義鎮(宗麟)が登場する。1550年のことである。
 
南北朝時代に南北両派に分かれて争ったころは、争うだけの一門がいたのだが、それが終焉するとほぼ長子が単独で相続する形となり、一門の数も少なくなる。一方で早くから分かれた一族(一万田、田原、立花など)が宗家を支える(あるいは争う)のは武田、伊達、島津といった古くからの名家と同様である。宗麟は義統に家督を譲って隠居した後も一定の影響力を持ち続けて二頭政治を招くなど、どうもこの家は他の家に比べると内紛の要素が多い。
 
その後の大友氏については「秀吉の改易」のところで書いた。
 
http://naraku.or-hell.com/Entry/393/
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