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兵は拙速なるを聞くも、いまだ巧久なるを睹ざるなり(『孫子』)
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「戦国人物紹介」

■秀吉の改易・3

木村吉清 【きむらよしきよ】 ?-1598
1591年、一揆発生、陸奥三十万石→改易
伊勢守。もと明智光秀に仕えるが、山崎の戦いの後に秀吉に仕えた。小田原攻め後に奥州の葛西・大崎氏の遺領三十万石を与えられるが、葛西大崎遺臣の一揆が起きたことから、責任を問われて所領を没収された。秀吉は一揆が起きることを見越して、あえて吉清に大領を与えたとも言われ、その手法は肥後に封じられてのち改易された佐々成政の場合に似る。改易後は蒲生氏郷に仕えるが、氏郷の子秀行が宇都宮に移された際に豊後国内で一万四千石を与えられて大名に復帰した。子の秀望(清久)が関ヶ原の戦いで西軍に属したため改易となった。秀望は大坂の陣で大坂に入城し、夏の陣で討ち死にした。

大友吉統 【おおともよしむね】 1558-1610
1593年、軍務怠慢、豊後三十万石余か→改易
初め義統。大友義鎮(宗麟)の子。大友氏は宗麟の代に九州六カ国を領する大大名となったが、1578年の耳川の戦いで島津氏に大敗、家中統制もうまくいかなくなり、領国は崩壊。秀吉の九州攻めにより豊後一国のみを安堵される。1593年、朝鮮出兵で小西行長の救援要請を受けるが撤退したため、秀吉の怒りを買い、改易される。関ヶ原の戦いでは毛利氏の支援を受け、西軍に属して豊後に攻め入るが、石垣原で黒田如水に敗北。子の義乗が幕府の高家として続いた。



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九州の名門復興を願うもかなわず。家臣だった立花氏が大名として生き残ります。

毛利秀頼 【もうりひでより】 1541-93
1593年、不明、信濃飯田十万石→一万石
初名は長秀。河内守。尾張守護であった斯波氏の支流である津川義近(斯波義銀)の弟。信長に仕え、武田攻めの後、信濃伊奈郡を与えられた。本能寺の変で所領を放棄し尾張に逃れ、のち秀吉に属した。小田原攻めの後に信濃伊奈郡に復帰、飯田城に入った。子は成人していたと思われるが、遺領の大半は娘婿の京極高知(高次の弟)が継いだ。

織田信包 【おだのぶかね】 1543-1614
1594年、不明、伊勢安濃津→近江二万石
信長の弟。兄に仕えて伊勢上野城主。本能寺の変後は秀吉に属し、伊勢安濃津城主。1594年、上意に背いたとして改易となり、老犬歳と号した。一説に小田原攻めで北条氏政の助命を嘆願したことが秀吉の不興を買ったという。のち丹波柏原城主。孫信勝の代に無嗣絶家となるが、しばらくして一族の織田信休(信雄の五男高長の子孫)が同地に入り、子孫相継いで廃藩を迎えた。

宇都宮国綱 【うつのみやくにつな】 1568-1607
1597年、不明、下野宇都宮十八万石→改易
広綱の子。宇都宮氏は源頼朝や足利氏にも仕えた下野の名門。北条氏に圧迫されるが、秀吉の小田原攻めに参加して所領を安堵された。しかし、1597年、突如秀吉の命により所領を没収される。浅野長政に検地をさせたときに所領を偽ったためとも、浅野長政の子を養子にすることを断ったためともされるが、詳細は不明。朝鮮出兵に参加し、戦功を立てるも、秀吉の死により旧領回復は果たせなかった。その後、江戸浅草で死去。子孫は水戸藩に仕えた。



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国綱の父。上杉氏や佐竹氏と結んで北条氏と対抗したが早死に。

小早川秀秋 【こばやかわひであき】 1582-1602
1598年、軍務怠慢、筑前名島三十万石→越前北ノ庄十五万石
初名は秀俊。秀吉の正室である北政所(高台院)の兄木下家定の子。秀吉の養子を経て、1594年に小早川隆景の養子となる。朝鮮出兵で軽率な行為があったとして秀吉の譴責を受けている。この結果、越前北ノ庄に減転封されるという処罰を受けるが、家康のとりなしや秀吉の死もあって、1599年に五大老の命によって筑前の旧領に復帰する。関ヶ原の戦い後は備前岡山五十万石余を与えられるが、二年後に子のないまま死去、関ヶ原の戦い以降では初の無嗣改易となった。

蒲生秀行 【がもうひでゆき】 1583-1612
1598年、御家騒動、陸奥会津九十二万石→下野宇都宮十二万石
蒲生氏郷の子。母冬姫は信長の娘。正室は家康の娘振姫。父氏郷が四十歳で死去したため、秀行が家督を継いだがわずか十三歳の若さであった。父に比べて凡庸とされ、家中統制がうまくいかず、重臣間の対立を招くという(蒲生騒動)。秀吉とすれば、東北や関東の抑えとして氏郷に代わる大名を入れようと考えたと思われる。結果的には、秀行の後の会津には越後から上杉景勝が入った。関ヶ原の戦後、東軍に属した秀行は会津に復帰し、六十万石を領した。秀行も三十歳で死去、忠郷、忠知と続いたが、いずれも早世、無嗣絶家となった。
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