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兵は拙速なるを聞くも、いまだ巧久なるを睹ざるなり(『孫子』)
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中国の歴史を見ても、集権的な体制と分権的な体制が代わる代わる国家を治めることが多いのですが、日本でも明治政府のような集権的な国家がある一方、幕府政治の頃は分権的な国家でした。平将門の自立や東国を中心とした鎌倉幕府の成立などは分権的な動きの現れですが、室町幕府にしろ、江戸幕府にしろ、完全な中央集権というのは成しえず、地方には半ば独立した勢力が温存されました。上が弱いと、あるいは上を弱くして、割拠しよう、というのは現在でもありますよね。地方の勢力からするとその方が自分たちに都合がいいわけです。権力も財源も自分たちで握っておくということです。
 
菊池氏(というか肥後の)・おかわり
 
「信長の野望・全国版」で肥後の大名は誰だったかなと調べてみると、阿蘇惟将だったりする。おそらく、桶狭間の戦いが起こる1560年がベースだろうと考えると(実際はそこまで厳密ではない)、すでに菊池義武は死んでいるので菊池氏は出てこない。相良氏でもない。マイナー大名にやさしい光栄(コーエー)だが、次の「戦国群雄伝」では九州(と東北)がバッサリ切られており、相良氏の初登場はその次の「武将風雲録」まで待たなければならない。
 
菊池が滅んだ後の肥後はどうなったか。次に書くのは佐々成政の時になるだろうが、当分来ないので、ここで少し触れておく。肥後と言えば、いまの熊本県だから、ここまで大友氏の勢力が伸びていたのか、と全盛期の大友氏の強さを思わせる。
 
菊池氏の嫡流は絶え、一族から政隆を当主に迎えた頃にさかのぼる。大友義長(宗麟の祖父)は阿蘇惟長を使って肥後に勢力を伸ばそうと図った。大友氏の支援を受けた惟長は菊池家の家臣に圧力をかけ、城氏・隈部氏・赤星氏(菊池三家老)ら重臣に、政隆を排除して惟長を肥後の守護として迎える起請文を出させた(菊池家臣の推戴で家督を継いだというものもあり、諸書によって書き方が異なる)。政隆は惟長に敗れて隈府を追われ、大友氏の攻撃を受けると自害した(1509年)。
 
阿蘇惟長は菊池武経を称したが、もともと独立心の強い菊池家家臣である。惟長の支配には従わない。惟長は大友氏ともうまくいかなくなり、1511年に隈府を出て本領の矢部へ戻った。その後の武経は大宮司職の奪還を目指して島津氏と結ぶ。弟の阿蘇惟豊を日向に追い落とすと、子の惟前を大宮司としたが、1517年、甲斐親宣(宗運の父)の支援を受けた惟豊の反撃に遭い没落、薩摩へ落ち延びた。惟豊の子が以前書いた惟将である。惟長は1537年に堅志田城で死去した。
 
一方、菊池家臣はどうなったか。三家老のその後を見てみよう。
 
城(じょう)氏
 
菊池氏八代当主菊池能隆の子隆経に始まる。肥後山鹿郡の城村に住んだことから城氏を称す。文人として知られる菊池重朝が主催した連歌の会では城為冬が発句している。阿蘇惟長を迎えた起請文では城頼岑が筆頭となっている。菊池氏が断絶すると城親冬は隈本城主となり、その子親賢は大友氏の衰退を受けて島津氏と誼を通じ龍造寺氏と戦う。秀吉が九州を平定すると、子久基は隈本城を佐々成政に明け渡し、大坂に住んだ。このため肥後の国人一揆に参加することなく、改易を免れたが、久基が若くして死んだため、家名は断絶した。久基の弟武房が井田氏を継ぎ、子孫は肥後に入った細川氏に仕えて肥後藩士となって続いた。
 
赤星(あかほし)氏
 
菊池氏九代隆泰の子有隆に始まる。肥後菊池郡赤星に住んだことから赤星氏を称す。元寇のときに、返り血で全身が赤い星のように染まったことが叡聞(天皇の耳)に達し、「菊池を改めて赤星と称すべし」との言葉を賜ったと伝わるが、赤星は地名に由来するものであり、家を飾る言い伝えであろう。菊池氏の衰退にともなって勢力を伸ばし、菊池義武が甥の大友宗麟と戦った際、赤星親家は大友方として活躍、菊池氏の本拠であった隈府城(菊池城)を恩賞として与えられた。しかし、同じ家老の隈部親永と対立し、親家の子統家は隈部氏と結んだ龍造寺氏に隈府城を追われる。その後、龍造寺氏に子を人質として送るが、去就を疑われて子を殺害されたために、以後は島津氏に属す。このため秀吉の九州平定後も旧領を回復できなかった。大坂にいたため、肥後の国人一揆にも加わらず。1619年に阿波で死去。
 
隈部(くまべ)氏
 
隈部氏は大和源氏源頼親の子孫である源親治(宇野親治)が保元の乱に敗れて、のちに肥後に下ったことに始まるとされる。菊池氏から隈部姓を与えられ、城氏、赤星氏とともに菊池三家老と言われる。菊池氏は菊池(隈府)城を囲むように十八の外城を築き、菊池十八城と言われたが、隈部の「隈」は隈府によるものであろう。位置は異なるが、のちに加藤清正が隈本(隈は狭いに通じる)を熊本と改めたことは知られている。代々菊池氏に仕えたが、菊池氏が滅ぶと、同じ家老であった赤星氏と対立、隈部親永は1559年、攻め込んできた隈府城の赤星親家を合瀬川の戦いで破り、1578年、龍造寺氏と結んで赤星統家を隈府城から追い、山鹿郡、菊池郡一帯を支配し、肥後北部では最有力の国人にのし上がった。島津氏に攻められると、一年余の籠城に耐え、和議を結んだ。秀吉の九州攻めでは秀吉に降るが、所領は半分以下となった。肥後に佐々成政が入ると検地に抵抗、これが肥後国人一揆の発端となる。子親泰の守る城村城に籠城し抗戦、この間、一揆は肥後国中に広がった。九州の大名が援軍に駆け付け一揆は鎮圧されたが、佐々成政は責任を問われて自害させられた。隈部氏一族もことごとく捕らえられて殺された。
 
隈部親永は「信長の野望」における特徴的な顔グラフィックでも知られ、AA(アスキーアート)にもなったほどである。
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無題
ご先祖様のことが取り上げられてた((*/Д\)
これ即ち名字がバレるということ!
セレス 2012/05/11(Fri)19:59 編集
無題
私はわかっていますが、黙っています(笑)
Rakuna 2012/05/11(Fri)20:56 編集
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