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兵は拙速なるを聞くも、いまだ巧久なるを睹ざるなり(『孫子』)
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「戦国人物紹介」

島津氏に行く前に、ちょっと番外編

 
なぜたびたび武田家について書くかと言うと、この家が「典型的な戦国大名」だからです。ただ、一般的に「典型的な戦国大名」と言うと、織田信長のような専制的な君主(独裁者と言い換えてもいい)を連想してしまいますが、それは少し異なります。武田信玄や上杉謙信も偉大な個性ではありますが、信長とは内実が異なります。ほとんどの戦国大名は在地領主の集合体の上に乗っかっていたに過ぎません(と書いてしまうと、やや言い過ぎですが)
 
(繰り返しになりますが)信長は家臣の生殺与奪の権を握って、独裁者として振る舞いましたが、ほかの戦国大名もそうだったかというと、そんなことはありません。信玄や謙信のときにも書きましたが、彼らは家臣に擁立される形で当主の座に就きました。絶対的な権力を築こうとする当主と、当主を自分の意のままに操ろうとする家臣の間には緊張感が存在していました。秦の始皇帝でも似たような話があります。時代が変わっても人間の根本的なところは変わりません。
 
武田勝頼・4 誰のために戦うのか?
 
武田信玄というと、卓越した戦術家であって、戦略家でもあり、また政治にも長けていました。これは信玄を好きか嫌いかにかかわらず評価せざるを得ません。軍事における手腕は芸術的と言ってもいいほどで、三方ヶ原の戦いでの圧勝はその極致と言えるものでしょう。この人の魅せる手品(詐術と言ってもよい)は当時の人だけではなく、後世の人も惑わせるほどで、徳川幕府下での神格化も含めて、実力以上に評価されている感は否めません。
 
家中統制においてもしかりです。家臣たちの目を外部に向けさせ、拡張戦争を繰り返し、自主性の強い家臣たちをうまくまとめあげました。支持率を上げるためには対外戦争もいとわない、アメリカの大統領のようではありませんか。
 
冷戦における世界の構造
さて、1945年、第二次世界大戦後に始まり、1989年に崩壊した「冷戦」ですが、ほんの二十数年前まで、世界はアメリカ(アメリカ合衆国)を盟主とする自由主義陣営と、ソ連(ソビエト社会主義共和国連邦)を盟主とする社会主義陣営とに二分されていました。子供のころは、いつ全面的な核戦争が起こって人類が滅ぶのかと不安でした。
 
自由主義陣営はアメリカや西欧の国を中心とし(「西側」とも呼ばれる)、社会主義陣営はソ連や東欧の国を中心とし(「東側」とも呼ばれる)、各国を自らの陣営に取り込もうと、互いに勢力を競い合っていました。冷戦構造の中で特徴的なものが、安全保障についてです。例えば、日本では日米安全保障条約が結ばれていますが、当時の想定としては、東側の国(ソ連や中共)に攻撃された場合に、アメリカが日本の防衛に協力してくれるというものでした。早い話が「うちの舎弟に手を出したら、親分が黙っていないぞ」ということです。
 
戦国時代の構造
話を戻して、戦国時代にも同じようなことが言えます。中小の領主(領地もあれば家臣もいる)は単独では生き残っていけません。もっと大身の大名に保護してもらわなければ領地や家臣を維持できません。武田勝頼に属する領主であれば、ほかから攻められたときに、勝頼の救援が来なければ、降伏するしかありません。勝頼のために死ぬまで戦おうという頭はないのです。基本的に、武田家のために、織田や徳川の兵を一人でも多く倒して玉砕しよう、などとは考えません。コンピュータのゲームとは違うのです。
 
武田家滅亡時には仁科五郎盛信(勝頼の弟、高遠城で自害)や武田信豊(典厩信繁の子、小諸城で自害)のような例もありますが、武田信廉(信玄の弟)や穴山梅雪(母は信玄の姉で妻は信玄の娘、親族衆の筆頭)のように、武田家の一族にも勝頼を見限った人々がいます。補足で後述しますが、長篠城の奥平信昌や岩屋城の高橋紹運の場合は例外と言えるでしょう。
 
「忠臣は二君に事えず(つかえず)」(原典は『史記』で中国の戦国時代の話から)や「御家大事」といった、江戸時代に一般化される「家」の概念は、戦国時代にはまだ確立されていません。自分の命を投げ出してまで尽くすことはないのです。大名の下にはこういった中小の領主が数多く存在していました。
 
しかし、勝頼の方は、攻められた領主を助けにかなければなりません。ほかの領主たちは、自分たちが攻められたら、勝頼は助けに来てくれるのだろうかと疑心暗鬼になるでしょう。長篠での惨敗後も武田家は七年続きましたが、高天神城を見殺しにした勝頼の信用は地に堕ちます。信玄の娘が嫁いでいた木曽義昌が織田方の調略に応じ、武田家から離反。これを機に織田、徳川、さらには北条家が武田領に侵攻すると、家臣たちの離反が相次ぎ、高天神城の開城から一年、織田家などの侵攻からわずか一か月で武田家は滅亡に至ります。
 
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