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兵は拙速なるを聞くも、いまだ巧久なるを睹ざるなり(『孫子』)
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048 鍋島直茂 【なべしまなおしげ】 1538-1618 (後編)
 
1587年、秀吉の九州攻めに従い、龍造寺政家は肥前本領三十二万石を安堵され、直茂も肥前神埼郡に四万五千石の所領を賜り、翌年、長崎の代官となった。1590年、政家は病気のため、隠居して家督を子高房に譲ったが、国政は直茂に委ねられた。朝鮮出兵では豊臣政権から龍造寺家臣を率いて渡海するよう求められ、子勝茂とともに加藤清正に属し戦っている。直茂は龍造寺氏の血を引くが、最後まで龍造寺氏を称することはなかった(龍造寺氏の家老になったこともないとされる)。
 
秀吉の死後は家康に接近、関ヶ原の戦いでは直茂は肥前に在国した。勝茂が伏見城攻め、伊勢安濃津城攻めに加わっているが、本戦には不参加。直茂は帰国した勝茂とともに毛利(小早川)秀包の久留米城を攻め、さらに立花宗茂の柳川城を攻めるなど東軍としての行動を取る。戦後は黒田長政を通じて謝罪し、龍造寺氏の所領も合わせた佐賀三十五万七千石の安堵に成功している。この間、龍造寺高房は堪忍料として八千石を与えられていたが、1607年に自殺。ただちに勝茂が所領を安堵され、鍋島氏の支配を確立した。勝茂は大坂の陣でも直茂の名代として参加。島原の乱にも従軍している。
 
勝茂以降の藩主は鍋島氏一族から三支藩(蓮池、小城、鹿島。御三家ともいう)を創り、龍造寺氏の嫡流(村田氏を名乗った)を含む四家を親類、庶流を親類同格(龍造寺四家)として服属させた。
 
鍋島氏は外様大名の多くが改易される中でも所領を維持したが、これら一族などの所領が多く(本家は六万石に過ぎなかったという)、手伝普請や長崎防備などで藩財政は窮乏した。また、文治主義でも知られ、「武士道とは死ぬことと見つけたり」(誤解されているが、何かあったらすぐ腹を切るということではない)の一節で知られる『葉隠(はがくれ)』は有名である。
 
幕末に鍋島直正(閑叟、かんそう)が出て、藩財政を立て直し、アームストロング砲の製造や大型船の建造など、佐賀藩を幕末維新の雄藩とした。しかし、藩論が倒幕に統一されたのは1867年と遅く、倒幕勢力としての活躍はほとんど見られない(「日和見」と言われた)が、彰義隊の戦い以降、最新式の兵器を使用して旧幕府軍を圧倒した。新政府では直正自身、議定に就き、江藤新平、大隈重信、副島種臣、大木喬任らを送り込んで存在感を示した。薩長土肥の「肥」は肥前佐賀のことである。ただ、1871年に直正は死去、1873年、征韓論(明治六年の政変)に敗れた江藤新平や副島種臣が下野、続く佐賀の乱で江藤新平が刑死したことから、旧佐賀藩の影響力は弱まった。



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ゲームにおいても、九州では手に入れたい人材の一人。

次回は直茂の妻の話と、「乗っ取り」についてもう少し考えてみます。
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