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兵は拙速なるを聞くも、いまだ巧久なるを睹ざるなり(『孫子』)
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『戦国IXA』 新武将カード(2013年12月のその2らしい…実質2014年1月分かな

・花舜夫人

知らない。島津義久の正室で忠良の娘(忠良は義久の祖父であるから、

義久から見るとおばに当たる)。

・出雲阿国

歌舞伎の祖とされる伝説的人物。名は「クニ(国)」だが、様々に書かれる。

出雲大社の巫女とされる。当時、「出雲のおくに」と呼ばれたわけではない。

・愛姫

一般に「めごひめ」。田村清顕の娘で伊達政宗の正室。陽徳院。

政宗との間に忠宗、五郎八姫(松平忠輝室)らをもうけた。

秀吉の奥州仕置で改易された田村家の再興を願っていたが、

それが果たされたのは彼女の死後、孫の宗良の時である。

NHK大河ドラマ『独眼竜政宗』では後藤久美子、のち桜田淳子が演じた。

『天地人』は知らない。

・朝日姫

あるいは旭姫。家康の継室。秀吉の異父妹。駿河御前、南明院。

最初、佐治日向守(あるいは副田甚兵衛、または副田吉成)に嫁ぐという。

小牧長久手の戦いののち、秀吉によって離縁させられ、家康に嫁がされる。

警護に当たった本多作左衛門重次が冷遇したため、病気がちになって、

母の大政所よりも先に死去した。

・栄姫

「えいひめ」。ねね姫。大涼院。

父は保科正直。母は久松俊勝の娘多劫(たけ)姫。

多劫姫の母は於大の方で、家康の異父妹である。

(栄姫は家康の姪に当たる)

関ヶ原の戦いの直前に、家康の養女として黒田長政に嫁いだ。

(来年のNHK大河ドラマ『軍師官兵衛』を意識しての登場?)

石田三成らが東軍に属した武将の妻子を人質に取ろうとした際は

大坂を脱出して九州まで逃れている。

長政との間にもうけた忠之は、のちに黒田騒動を引き起こして、

黒田家を改易寸前に追い込むが、

ドラマではそこまで描かれるのかどうか…。

・千姫

天樹院。秀忠とお江の方との娘で秀頼に嫁ぐ。

大阪の陣後は本多忠刻(忠勝の孫)に嫁ぐ。

秀頼と側室の間にできた娘(天秀尼)の助命を嘆願、

天秀尼はのちに縁切り寺として知られる鎌倉東慶寺の住持となった。

「吉田通れば二階から招く」の吉田御殿での乱行は事実ではない。

・冬姫

信長の娘で蒲生氏郷に嫁ぐ。当時の氏郷は人質であったが、

信長が氏郷の才能を見込んで娘を嫁がせたという。

信長の一族は美貌で知られているが、

氏郷が若くして死去すると、冬姫も秀吉に狙われたという。

側室への誘いを拒否したことが、

子の秀行が会津九十二万石から宇都宮十二万石に

減転封される一因となったという。

蒲生氏は氏郷以後、早死にの家系なのか、

後継ぎが誰もいなくなって、断絶することになる。

冬姫はそれを見届けて死んだ。
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前にも書きましたが、「戦国人物紹介」に限らず、

文章を書くときにはいくつかの書き方があって、

最初から思いのままに書き連ねる場合と、

最初から調べながら少しずつ書いていく場合と、

その中間とでも言えるような、

最初にラフな文章、

あるいは記憶のままに思いついた言葉を置いていって、

あとから裏取りとでも言いますか、

調べながら文章にしていく場合があります。


今回は平岩親吉を書き始めていますが、

このラフな段階で1,400字を超えてしまいました。

ひさしぶりなので、関連させて書きたいことがたくさんありすぎ…。

織田氏も放置されているので、繰り返さなければいいのですが。


まとめる文章力も身に付けなければ…。
「戦国IXA」にはなぜかログインできないのですが

(正確に言うと、ログインしても、前にいたワールドに入れない)、

それはそれとして…


毎月の新武将から、これはと思う武将について書き留めていこうかと。

ただ、自分のところだけで書き溜めるのもなんなので、

それなりにまとまればここに投稿する感じで。

ナンバリングなしの「戦国人物紹介」ですかね。


今月の新武将だと、松永久秀、毛利元就は前に書きました。

稲富一夢(祐直)は書くかもなあ。こういう生き様もあるということで。

(批判はしたくない)

香宗我部親泰はなぜかメガネキャラですが、

あまりインスピレーションがわかないので、今回はパス。

長宗我部氏は元親、信親、盛親、と書きたいのですけどね。

花房職秀は書くかもしれません。

きっと、従来のような「戦国人物紹介」だと、

通り過ぎた人物だと思うので。

宇喜多家、関ヶ原、その後(花房氏)、と触れたいところです。

大道寺政繁は北条氏政のところで書こうかと。

平岩親吉は渋いカードデザインと「毒饅頭」のスキルにやられましたね。

策謀家のイメージなのか、これは。

太田左近は知らないのでパス(太田宗正、紀州の人らしい)



織田氏・2
 
「八重の桜」において、松平容保(かたもり)が朝廷への書面で「源容保」と書かれていましたが、それなりの家は由緒ある家柄ということで、先祖は源氏(源姓)とか、藤原氏(藤原姓)と称したんですね。本当にそうだったかはともかく。姓(せい)にもいろいろありますが、中でも人気だったのは「源平藤橘」の四つ(四姓)でした。橘氏は早くに衰えましたが、江戸時代の大名の多くは源氏や平氏、藤原氏を祖と称していました。
 
では、「松平」がなんだったかというと、これは苗字(名字)と呼ばれます。地名や官職などから来ています。正式な名乗りで言えば、「松平肥後守源朝臣容保」などとなるのでしょうが、これは正式な場面(朝廷への書面など)でしか用いられません。呼び方とすれば、一般的にはおそらく「会津中将」などと呼ばれていたでしょう。「会津」は容保が治めていた地で、「中将」は左近衛権中将にちなみます。いまも昔も「実名」を避けて、地名や役職で呼ぶ、というのは前にも書きました。
 
ですから、「八重の桜」で容保の無事を確認した西郷頼母(たのも)が「容保様…」と思わず言ったのには相応の意味があります。普通は実名を言うことは避ける上に、容保は頼母の主君に当たるわけですから、なおのことです。ちなみに、「頼母」というのは通称で、実名は近悳(ちかのり)と言います。「土佐(土佐守)」や「内蔵助」のように朝廷の職に由来するものではありませんが(土佐や内蔵助もおそらくは代々伝わるような自称で、実際に朝廷に任じられたわけではない)、それに準じて他家でも使われています。西郷頼母は維新後には保科(ほしな)頼母と名を変えており、通称を実名としています。「保科」は会津松平家のもとの名字で、藩祖の正之(二代秀忠の子で家光の異母弟)は保科氏の養子として保科正之と名乗っています(子孫が松平氏を名のった)。西郷氏は保科氏の縁戚でもあります。
 
さて、話を織田氏に戻しますが、いまに伝わっている織田氏の系図の一例を示すと以下のようになります。
 
桓武天皇-(略)-平清盛-重盛-資盛-織田親真-親基-親行-行広-末広-基実-広村-真昌-常昌-常勝-教広-常任-勝久-久長-敏定-信定-信秀-信長
 
前回書いたように、信長以降の「織田氏」、いわゆる江戸時代に大名として残った、信長の二男信雄と信長の弟長益(有楽斎)の家系が行ったことは、一つは、織田氏を平氏の子孫とすることであり、もう一つは、信長を織田氏の本家とすることでした。信長の家は「弾正忠家」と言って、尾張守護斯波氏の家臣である守護代織田氏のさらに家臣でしかなかったのです(守護代の織田氏と同族だったのかも確証がない)。
 
要するに、系図の改変、創作を行ったのであり、それは事実の改竄ではないか、と思われる人もいるでしょうが、こういったことは織田氏に限ったことではありません(だからいいとか悪いということでもない)。
 
次回は、他家の例を見る前に、もう少し織田氏について見ていきましょう。
「戦国人物紹介」

織田氏

 
織田氏は後世、桓武平氏を称している。平清盛の嫡男重盛の子資盛の子親真を祖とするものである。しかし、2011年に親真の墓が見つかり、そこに記された没年(1290年)から、親真を資盛(1185年没)の子とすると、親真の年齢が百歳を超えることになり、親真を資盛の子とするのは無理があるようである(ただし、墓に刻まれた文の読み方には異説もある)
 
一般には越前国丹生郡織田庄の織田剣神社の神官の出とされ(なお、いずれも「おた」と読む)、このことから忌部(いんべ)氏の流れを汲むとされている。室町時代に入ると、越前や尾張で守護を務めた斯波氏(三管領家の一つ)に仕え、一部は越前から尾張に移った。斯波氏の守護代というのは、甲斐氏、朝倉氏と同じである。
 
織田氏と朝倉氏は同じ斯波氏の守護代であるが、そこから織田氏よりも早く下剋上で越前の守護となった朝倉氏と仲が悪い(朝倉氏が一方的に敵視したように見えるが)のは、こういうところにも因縁がある。
 
尾張の守護代となった織田氏は上四郡を治めた岩倉織田氏(伊勢守家)と下四郡を治めた清洲織田氏(大和守家)に分かれて争ったが、清洲織田氏には清洲三奉行と呼ばれた三家が仕えていた。因幡守家、藤左衛門家(この名は藤原氏の子孫を思わせる)、弾正忠家の三家である。弾正忠家から信長が出るが、弾正忠家が守護代の織田氏につながるかどうかははっきりしていない(無関係の氏族が主家と同じ織田氏を称した可能性もある)。
 
要するに、信長を出した織田弾正忠家が織田氏(の宗家)につながるかはわからず、その織田氏自体も、さかのぼると平氏なのか忌部氏なのか、それ以外の氏族なのか、よくわかっていないというのが実情である。
 
ともかく、弾正忠家から信長が出て、江戸時代に大名として残った織田氏も信長の系統(二男信雄と弟有楽斎の子孫)であるから、後世、信長を織田氏の嫡流とする系図が創られた。
 
さて、織田氏の先祖には藤原信昌、将広という親子がいたことから、信長は若い頃、藤原姓を称している。1549年、熱田八ヶ村に出した制札には「藤原信長」と署名している。1554年、信長の弟信勝(「信行」の名で知られる)が熱田神宮に寄進した菅原道真の画像にも「藤原織田勘十郎」と記されている(この名乗り方には違和感があるが)。
 
信長はのちに平姓に改めている(1571年、越前白山別山権現に寄進された鰐口の銘文に「平信長」とあるのが初見)が、これは源平交代思想の影響とされている。ただし、この思想自体は俗説に過ぎず、真偽は不明である。源姓である足利氏に取って代わる意で平姓を称し、これを宣伝したようだが、これをもって織田氏を平氏の子孫とする根拠にはならない(自称に過ぎない)。
 
信長の文書は、もっぱら「天下布武」の印や、単に「信長」としてあるだけなので、信長自身はさほど出自にはこだわっていなかったのではなかろうか。
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