兵は拙速なるを聞くも、いまだ巧久なるを睹ざるなり(『孫子』)
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龍造寺家を乗っ取って、佐賀藩を築いたのが鍋島直茂である。秀吉が織田家を乗っ取ったようなものだが、直茂には乗っ取りに付きまとう黒い印象がない(ほとんど血が流れていないこともある)。人柄と言ってしまえばそれまでだが、家臣たちが、直茂ならば自分たちを路頭に迷わせることはしない、と選ぶだけの人物だったのだろう。また、直茂もそのように振る舞った。龍造寺の嫡流は執拗に潰したが、庶流は重臣として遇している。
なぜ、直茂が龍造寺隆信の嫡男政家を差し置いて、藩主(普通、直茂を藩祖、子勝茂を初代藩主とする)となりえたかである。秀吉や家康の意向が働いているとはいえ、無能では当主の座は務まらない。隆信の横死後、龍造寺家の家政を執った(「執政」と呼ばれる)のが直茂である。政権の命によって朝鮮に出兵するにしても、指揮する人間が必要である。龍造寺一族も含めて、その任に直茂を選んだということである。下手に幼君や暗君が出て失態を犯せば、秀吉や家康によって改易されないとも限らない。こうして、最終的には政権によって、直茂の乗っ取りは承認、正当化された。
048 鍋島直茂 【なべしまなおしげ】 1538-1618 (前編)
幼名は彦法師。通称は孫四郎。名は信安、信真、信昌、信生(のぶなり)とも。左衛門大夫、飛騨守、加賀守、従五位下。父は清房、母は龍造寺家兼の子家純の娘。
鍋島氏はその祖を少弐氏(藤原姓)につなげているが、龍造寺氏の重臣として台頭する以前ははっきりしない。肥前佐賀郡鍋島村に住んで鍋島氏を称した。1530年、少弐氏に属す龍造寺家兼が大内氏の杉興運と戦ったときに、赤熊一揆の姿で敵を攪乱して勝利をもたらしたのが、鍋島清久・清房父子である。この戦功により、清房は家兼の子家純の娘を与えられている。
1538年、直茂は肥前本庄に生まれるが、1541年、少弐・龍造寺・千葉三氏が有馬氏に対抗するため、小城郡の千葉胤連の養子とされた。1545年、少弐氏によって龍造寺氏の多くが謀殺され、両氏の対立が表面化すると、養子縁組を解消して実家に戻った。1556年、隆信の母慶誾尼が父清房の後妻となったため、隆信の従兄弟であると同時に義弟となり、龍造寺氏の家臣団の中でも、一族に次ぐ別格の存在となった。
1569年、大友宗麟が佐賀に侵攻してくると、毛利氏の来援を予想して籠城を進言。翌年の再侵攻では今山に布陣した宗麟の甥親貞に夜襲を敢行し、親貞を討ち取って大友氏を退けた。その後は隆信の子政家を補佐するが、実権を握る隆信にも従って、肥前統一、三強鼎立に貢献する。『寛政重修諸家譜』によればこのようである(適宜、かなづかいを改めた)、「九州所々において敵をうち、軍をやぶり、城を落とすこと二十度に及ぶ。あるいはみずから剣戟をとり、剛敵を破り、首級を得る事あげてかぞうべからず(数えることができない)」
1584年、自身は反対していた沖田畷の戦いに従軍するが、隆信が戦死すると、兵をまとめて佐賀に引き上げ、島津軍と徹底抗戦する構えを見せた。これにより島津氏は佐賀への侵攻を断念したが、龍造寺氏の領国は急速に崩壊。隆信の跡を継いだ政家は島津氏と和睦し、屈服を余儀なくされた。
なぜ、直茂が龍造寺隆信の嫡男政家を差し置いて、藩主(普通、直茂を藩祖、子勝茂を初代藩主とする)となりえたかである。秀吉や家康の意向が働いているとはいえ、無能では当主の座は務まらない。隆信の横死後、龍造寺家の家政を執った(「執政」と呼ばれる)のが直茂である。政権の命によって朝鮮に出兵するにしても、指揮する人間が必要である。龍造寺一族も含めて、その任に直茂を選んだということである。下手に幼君や暗君が出て失態を犯せば、秀吉や家康によって改易されないとも限らない。こうして、最終的には政権によって、直茂の乗っ取りは承認、正当化された。
048 鍋島直茂 【なべしまなおしげ】 1538-1618 (前編)
幼名は彦法師。通称は孫四郎。名は信安、信真、信昌、信生(のぶなり)とも。左衛門大夫、飛騨守、加賀守、従五位下。父は清房、母は龍造寺家兼の子家純の娘。
鍋島氏はその祖を少弐氏(藤原姓)につなげているが、龍造寺氏の重臣として台頭する以前ははっきりしない。肥前佐賀郡鍋島村に住んで鍋島氏を称した。1530年、少弐氏に属す龍造寺家兼が大内氏の杉興運と戦ったときに、赤熊一揆の姿で敵を攪乱して勝利をもたらしたのが、鍋島清久・清房父子である。この戦功により、清房は家兼の子家純の娘を与えられている。
1538年、直茂は肥前本庄に生まれるが、1541年、少弐・龍造寺・千葉三氏が有馬氏に対抗するため、小城郡の千葉胤連の養子とされた。1545年、少弐氏によって龍造寺氏の多くが謀殺され、両氏の対立が表面化すると、養子縁組を解消して実家に戻った。1556年、隆信の母慶誾尼が父清房の後妻となったため、隆信の従兄弟であると同時に義弟となり、龍造寺氏の家臣団の中でも、一族に次ぐ別格の存在となった。
1569年、大友宗麟が佐賀に侵攻してくると、毛利氏の来援を予想して籠城を進言。翌年の再侵攻では今山に布陣した宗麟の甥親貞に夜襲を敢行し、親貞を討ち取って大友氏を退けた。その後は隆信の子政家を補佐するが、実権を握る隆信にも従って、肥前統一、三強鼎立に貢献する。『寛政重修諸家譜』によればこのようである(適宜、かなづかいを改めた)、「九州所々において敵をうち、軍をやぶり、城を落とすこと二十度に及ぶ。あるいはみずから剣戟をとり、剛敵を破り、首級を得る事あげてかぞうべからず(数えることができない)」
1584年、自身は反対していた沖田畷の戦いに従軍するが、隆信が戦死すると、兵をまとめて佐賀に引き上げ、島津軍と徹底抗戦する構えを見せた。これにより島津氏は佐賀への侵攻を断念したが、龍造寺氏の領国は急速に崩壊。隆信の跡を継いだ政家は島津氏と和睦し、屈服を余儀なくされた。
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