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兵は拙速なるを聞くも、いまだ巧久なるを睹ざるなり(『孫子』)
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「戦国人物紹介」

■上杉謙信6 謙信と信玄(後編)

決戦する人、しない人

戦国時代というと、各地の戦国大名が天下統一を目指して戦った、という印象が強いがそんなことはない。天下を考えていたのは信長と信玄くらいである。あとは自分の領地をいかに守るかに汲汲としていたのが実情である。そんな彼らは、大きな損害を被る決戦は避ける傾向が強かった。せっかく勝っても、損害が大きければ得た領地を維持できないのである。城攻めで損害を出すことはなるべく避けて、内応工作などの調略に努めたことは、信長の美濃攻めや信玄の信濃攻めの例を見るまでもなく明らかであろう。戦わずして敵を屈服させるのに越したことはない。

一方で、相手を滅ぼすまで戦う決戦もある。これは信長が朝倉、浅井氏を滅ぼした戦い(注:姉川の戦いのことではない)、秀吉と柴田勝家の賤ヶ岳の戦い、関ヶ原の戦いなど、天下、政権の主導権をめぐって争う場合に起こる。相手を滅ぼさなければ、自分が滅びるのである。ただ、そういう場合でも、当然のことながら、自分の損害は極力抑えようとする意志が働いた。関ヶ原での内応や寝返りは有名だろう。

第四回の川中島の戦いにおける両軍の死傷者数ははっきりとわかっていない。お互い、相手の損害は大きく報じているが、自分たちの損害については口を閉ざしたままである。濃霧の中の遭遇戦で乱戦となり、武田軍は信玄の弟信繁ほか指揮官級の武将が戦死、上杉軍も謙信みずからが太刀を振るって戦っている。両軍の損害は少なくなかったと思われるが、数ヵ月後には関東に出兵していることもあり、通説にあるような何千人単位での死傷者が出たことは考えにくい。

信玄の死を聞いて

信玄の死の報せを聞いた謙信は食事中だったが、箸を落として号泣したという。「惜しい大将を失った、英雄とは信玄のような武将を言うのであろう。これで関東の弓矢柱はいなくなった」と嘆き、三日間城下の音曲を禁止させた。家臣たちは、この機を逃さず信濃に出陣すべきと進言したが、謙信は、「いま出陣すれば甲斐まで攻め取ることができる、しかし、人の落ち目を見て攻め取るのは本意ではない」として、聞き入れようとしなかった。

信玄も死に際して勝頼にこう言い残している。「謙信は義人なり。天下にいまだ比べられる人を知らず。このような武将と事を構えてはならぬ。この信玄は一生彼と戦うことになったが、甲斐の国を保つには、彼の力にすがるほかない」

こういう話を聞くと、お互いの能力を認めあう好敵手だったと思えそうだが、一方で、謙信は信玄のことを嫌っていたという説もある。川中島で十年以上争ったのも、謙信の正義感が信玄を受け入れなかったためだという。信玄と言えば、少なくとも結果的には父を追放して家督を継いだ。また、妹が嫁いでいた諏訪頼重を滅ぼし、頼重の娘を側室にした行為は家臣にも眉をひそめる者が多かった。ほかにも謀略が多かった武将という見方はできる。

たしかに信玄には徳に欠けるという部分があって、その業の深さは子の勝頼の代に祟って武田家を滅ぼすことになる。のちに天下を取った徳川家が武田旧臣を多く召し抱えたこともあり、信玄は称賛され、神格化までされたが、同時代の評価には厳しいものもある。
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