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兵は拙速なるを聞くも、いまだ巧久なるを睹ざるなり(『孫子』)
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「戦国人物紹介」

鍋島直茂の妻の話

 
直茂の正室(勝茂らの母)は肥前石井氏の出身で陽泰院という(名は彦鶴。彦鶴姫という)。父は石井兵部少輔忠常(常延)。石井氏は石井党という武士団を率いて活躍し、一族も繁栄した。石井忠清の五子はそれぞれ家を立て、長男家(嫡男家)、次男家(二男家)、三男家、四男家、五男家と呼ばれた。陽泰院は長男家の出で、忠清の子が忠常である。
 
『葉隠』によれば二人の出会いはこうである。
 
龍造寺隆信、鍋島直茂らが出陣の途中に、石井忠常の屋敷に立ち寄って食事を取ろうとした。石井家では突然の来訪に慌てて食事の準備をすることになり、鰯を焼いてもてなそうとしたが、人数が多く間に合わない。それを見ていた忠常の娘陽泰院は、侍女たちを押しのけて、かまどの火を出して拡げ、その上に鰯を移して一気に焼き上げた。これを見ていた直茂、「あのような機転の利く女性を妻にしたい」と思い、以後、石井家に通うようになる。石井家の家臣に怪しまれたり、盗人扱いされたりもしたが、しばらくして結ばれることになった。
 
秀吉が朝鮮出兵で名護屋に在陣したときに、九州諸将の妻女を招いたが、秀吉の女好きは有名である。陽泰院はわざと額の髪を真四角に剃って(角が生えたように見せて)、異様な化粧をして現れた(醜いふりをした)。これには秀吉も驚いて、二度と彼女に会いたいとは言わなくなったという。
 
前田利家の妻芳春院、山内一豊の妻見性院などと並ぶ賢婦人と言っていい。
 
鍋島氏の「乗っ取り」をもう少し考える
 
「病により」政務が執れないとは、どこかの法務大臣のようだが、隠居させる理由(隠居する理由、ではない)としては十分である。龍造寺政家がみずからそう言ったとは考えづらいし、直茂が言わせたというのも無理がある。重臣たちから直茂に国政の委任があったというのが実際のところではないだろうか。これが豊臣政権にも認められ、直茂は龍造寺氏の「家督代行者」とみなされるようになった。子勝茂が龍造寺氏の跡を継いだのも同じであろう。勝茂は徳川政権に認められて初代佐賀藩主となった。この際、家臣から勝茂に忠誠を誓う起請文を出している。
 
龍造寺家の家督は政家の子高房が継いだが、1607年、高房が自害し、政家が急死すると、遺領を含めた所領は龍造寺氏の血を引く勝茂が継ぎ(相続し)、ここに鍋島氏の佐賀藩三十五万七千石が成立する。勝茂は佐賀藩初代、直茂は藩祖とされる。
 
ちなみに、高房の子がのちの龍造寺伯庵である。1607年には四歳で、龍造寺家は御家断絶扱いとなった。家光の代になって龍造寺家の御家再興を求めるが、願いは聞き届けられず、会津藩の預りとなった(実質的な配流処分)。
 
秀吉は、上杉景勝の家臣である直江兼続に米沢三十万石を与えて、自らの家臣に誘ったことは知られているが、この分断戦略とでも言おうか、大名の力を弱めることにかけては秀吉は巧みである。それは九州の仕置(戦後処理)にも見ることができ、大友氏の家臣であった立花氏は独立大名となっており、龍造寺氏の実質的な支配は鍋島氏に移っている。島津氏も兄弟が分裂の危機にさらされたが、結束を保って、付け入る隙を与えなかった。
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