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兵は拙速なるを聞くも、いまだ巧久なるを睹ざるなり(『孫子』)
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「戦国人物紹介」

デブとかデブとかデブとか言われますが
 
ロシア帝国や旧ソ連はクマに例えられることがあったが、これは強い、あるいは凶暴といったイメージから来ている。龍造寺隆信は「肥前の熊」と渾名されたが、単に強かったことから熊と呼ばれたわけではない。
 
047 龍造寺隆信 【りゅうぞうじたかのぶ】 1529-84 (前編)
 
幼名は長法師丸、法名は円月坊、初名は胤信(たねのぶ)、山城守。龍造寺家の十九代。家兼の曾孫になる。父は周家、母は本家である龍造寺胤和の娘慶誾尼(けいぎんに)。
 
なぜ僧籍にあったのか
1545年、十六歳の時、馬場頼周の謀略によって隆信の父や祖父を初め、龍造寺一門の多くが殺された。この件が彼の人格形成に影響を与えたであろうことは想像に難くない。龍造寺氏を再興した曽祖父家兼の遺命によって、後継者に指名され、宝琳院から還俗すると胤信と名乗って、水ヶ江龍造寺家の家督を継いだ。一つ不思議なのは、彼が幼くして僧籍に入っていたことである。幼少時に僧の教えを受けることはよくあることだが、七歳で出家して、僧をしていた大叔父(名は豪覚)に師事したというのは長男の彼にしては不審である。七歳までに彼の器量を見抜いた人物がいて、それが高僧になる資質だったのか、あるいは龍造寺家には災いになる性質と判断して出家させたのであろうか。あるいは、後難を予期して命だけは助かるよう僧籍に入れたとすれば、それはそれで慧眼かもしれない。父の横死後、誰が家督だったのかも判然としない。家兼が遺命をもって家督を継がせるまで空席だったのだろうか(家兼が代行していたのだろうが)。
 
さて、1547年には本家の胤栄に従って少弐冬尚を攻め、これを筑後に追放した。しかし、翌年、胤栄が急死する。後継者には胤栄の弟家就と胤信の名が挙がったが、重臣たちの話し合いによって胤信に決まったという。あるいは籤(くじ)によって決まったともいう。いずれにせよ、すんなりは決まらず、隆信の家督に不満を持つものも少なくなかった。ともかく、胤信は胤栄の未亡人を娶って本家の家督を継ぐことになった。こののち、大内義隆と結び、義隆から一字を与えられて隆信と名乗った。
 
不安定な立ち上がり
しかし、1551年、大内義隆は陶晴賢の謀叛に遭って敗死したため、大内氏の後ろ盾がなくなってしまう。龍造寺家中では胤栄の旧臣であった土橋栄益が大友氏の後援を受けた龍造寺鑑兼(大友義鑑の偏諱)を擁して兵を挙げ、隆信らを肥前から追った。筑後に逃れた隆信は家兼と同じく柳川の蒲池鑑盛を頼った。1553年、およそ三年をかけて反対派に勝利し、肥前を奪回した。1556年、夫の周家を失って未亡人となっていた母慶誾尼は鍋島清房のもとに自ら押し掛けて再婚した。これにより慶誾尼の子隆信と清房の子直茂は義兄弟となった(二人はもともと従兄弟同士ではある)。絆を深めた二人は協力して龍造寺家の勢力を伸ばしていくことになる。
 
1559年にはかつての主家であった少弐冬尚を勢福寺城で自害に追い込み、少弐氏を滅ぼした。さらに千葉胤頼(冬尚の実弟)を滅ぼすなどして東肥前を制圧した。1563年には有馬・大村氏の連合軍が東肥前へ侵入するがこれを退ける。これらの動きは大友宗麟の警戒を招き、1569年には宗麟自らが大軍を率いて攻め込んできたが、このときは毛利元就が豊前に侵攻してきたため、大友軍は撤退した。
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