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兵は拙速なるを聞くも、いまだ巧久なるを睹ざるなり(『孫子』)
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「戦国人物紹介」
 
「三国志」で蜀の楊儀は、孔明の死後に叛いた魏延を討ち、その首を踏みつけると、「おろか者め、これでもう悪事はできまい?」と言ったというが、その後は功を誇ったために罷免されて、最期は自害した。「死屍に鞭打つ」も中国(伍子胥、ごししょ)の故事だが、死者を辱めるというのは忌まれたことで、心ある人は眉をひそめたことだろう。徳のある人がすることではない。伍子胥の終わりもまたよくない。
 
046 龍造寺家兼 【りゅうぞうじいえかね】 1454-1546
 
「信長の野望・天翔記」では、登場武将中、もっとも早くに生まれた武将だった。
 
孫九郎、左衛門佐。号は剛忠。龍造寺家十四代康家の五男。分家の水ヶ江龍造寺家を興したが、本家の村中龍造寺家では家兼の兄家和の死後、胤和、胤久が早世したため、家兼が本家を後見することとなった。少弐氏の筆頭家臣として台頭し、1530年、大内義隆の家臣である杉興連が一万余の大軍を率いて侵攻してきたときには、田手畷でこれを破った。この戦いで、赤熊の異様な面をかぶって大内軍を攻撃して混乱させたのが、家臣の鍋島清久、清房父子である。この功績により、清房は家兼の孫娘である龍造寺家純の娘を娶った。この二人の間に生まれたのが鍋島直茂である。
 
その後については諸書によってやや書かれ方が異なる。1534年に家兼の仲介により、大内氏と少弐氏の間に和議が成立するが、1536年、義隆は陶興房を派遣して少弐資元を攻め、自害させた。家兼の勢力拡大を快く思わない者たちは、資元の自害は家兼が大内氏に通じたせいだと反家兼包囲網を形成し始める。家兼は資元の子冬尚に引き続き仕えており、大内氏に通じていたかは不明である。
 
1545年、反家兼派の筆頭である馬場頼周は肥前の豪族を誘って反乱を起こさせると、この鎮圧を家兼に依頼した。家兼は各地に兵を分けて派遣するが勝利を得ることなく、水ヶ江城に帰還する。しかし、このとき少弐勢が二万の大軍で水ヶ江城を包囲しており、城は落城の危機に瀕していた。頼周は家兼に「冬尚様は貴殿が大内氏に通じたとの訴えを受けて城を包囲した。貴殿が城を出て筑後で隠居するなら、私がとりなしてみよう」と伝えた。家兼はその言葉を信じて筑後に退き、一門の周家、頼純、家泰の三人を謝罪の使いとして少弐冬尚のもとに遣わし、家純、家門、純家の三人を縁者を頼って筑前に向かわせた。しかし、これは頼周の謀略で、頼周は周家以下を神埼で、家純以下を川上で討ち、首を冬尚に差し出した。
 
筑後柳川に追放された形の家兼は九十歳を超えていたが、蒲池鑑盛の庇護のもと、復讐の機会を狙っていた。翌年、蒲池氏の支援を受けた家兼は再挙を期して兵を挙げると、鍋島清房らがこれに呼応、頼周父子を討って復讐を果たし、龍造寺氏を復興した。ある者は家兼に「頼周父子は(龍造寺)一族の方々の首を土足で踏みつけたと聞きます。頼周父子の首も大手門の下に埋めて、登城する者たちの土足で踏みつけましょう」と言った。しかし、家兼は「頼周父子と同じことをすれば、我々も彼らと同類となってしまう。頼周父子の首は丁重に弔ってやれ」と手厚く葬って供養させた。これらは後世に書かれたものであろうから、割り引いて考える必要があるだろうが、家兼の人柄がうかがえる逸話である。
 
この後、龍造寺氏の家督として、円月坊を還俗させて胤信と名乗らせた。のちの龍造寺隆信である。胤信に後事を託した家兼は九十三歳で死去した。
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