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兵は拙速なるを聞くも、いまだ巧久なるを睹ざるなり(『孫子』)
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「戦国人物紹介」~九州戦国史~

九州の戦国史を見るために、鎌倉時代までさかのぼる。戦国大名にも鎌倉時代以前より続く名家が多いからである。大友氏と島津氏の初代はいずれも源頼朝の落胤と称しているが、これらはいずれも伝説の域を出ない。大友氏、島津氏に少弐氏を加えた三氏(九州三人衆と呼ばれることもある)が九州の守護の中心であった。
 
元寇では少弐氏、大友氏をはじめとした九州の多くの武士が参加する。戦後処理のために鎮西探題が置かれるが、探題職には執権北条氏の一門が配され、九州でも北条氏の勢力が拡大する。一時は九州のうち六カ国が北条一門の守護国となったほどである。1333年、後醍醐天皇が挙兵すると九州三人衆はこれに呼応し、鎮西探題の北条英時を攻撃して滅ぼした。鎌倉幕府滅亡の三日後である。
 
その後、後醍醐天皇の建武新政が始まるが、足利尊氏は新政権に叛き、鎌倉から上京する。しかし、北畠顕家、楠木正成、新田義貞らに敗れて九州に逃れる。少弐頼尚に迎えられると、1336年、筑前多々良浜の戦いで天皇方の菊池武敏らを破り、態勢を立て直すと、東に向かい、湊川の戦いで楠木正成、新田義貞を破って再び京に入った。
 
三勢力の鼎立
九州には九州探題として一色範氏が残され、大宰府に入ったが、面白くないのが少弐頼尚である。少弐氏は太宰少弐という職に任じられたことを名字の由来とする家である。大宰府を中心に勢力を拡げてきた。1349年、足利尊氏の庶子で尊氏の弟直義の養子となった直冬は尊氏と対立して九州に逃れてくると、頼尚は直冬を擁立して一色範氏と争う。これには敗れるが、先に菊池氏に迎えられていた後醍醐天皇の皇子懐良(かねなが/かねよし)親王と結んで一色範氏を攻撃、1355年には一色範氏を九州から退去させることに成功した。共通敵がいなくなると、南朝方と対立するが、敗れて大宰府を追われた。
 
南朝勢力の躍進と今川了俊
以後、中央では衰退していた南朝勢力だが、九州においては最盛期を迎える。懐良親王は独自に外交を行い、「日本国王良懐」として明から冊封を受ける。
 
さて、中世の九州における人物を一人挙げよと言われれば、今川了俊を選ぶ。
 
今川了俊 【いまがわりょうしゅん】 1326-1420?
 
実はいまだに没年がはっきりしない。名は貞世(さだよ)。了俊は法名である。室町幕府の武将で、南朝勢力の強かった九州に入り、九州平定を成し遂げた武将であるとともに、『難太平記』などの著作を残し、歌人としても知られる人物である。「今川」と言えば、今川義元を思い浮かべる人も多いだろうが、了俊の兄範氏の子孫が義元である。今川氏は足利氏の一門である吉良氏の分かれで、畠山氏や斯波氏、一色氏なども同族である。
 
1370年に足利義満(三代将軍)から九州探題に任じられ、翌年九州へ赴く。当時の九州は菊池氏が奉じる後醍醐天皇の皇子である懐良親王の征西府が九州における南朝の最盛期を築いていた。足利義詮(二代将軍)が斯波氏や渋川氏を九州探題としたがうまくいかず、切り札として送り込まれたのが了俊である。
 
了俊は周防の大内義弘、肥前の松浦党などの協力も得て、当時南朝方に占領されていた大宰府を奪回し、懐良親王、菊池武光らを肥後に追った。1375年、水島の陣において九州三人衆(豊後の大友親世、筑前の少弐冬資、大隅の島津氏久)の来陣を促す。九州探題と対立する少弐冬資は来陣を拒んだが、島津氏久の説得で来陣した。しかし、了俊は陣において冬資を謀殺してしまう(水島の変)。これにより面目を失った島津氏久は了俊から離反、大友親世も了俊に疑いを抱き、了俊は二氏からの協力を得られなくなってしまう。一転して窮地に陥った了俊であったが、大内義弘の援助により態勢を立て直し、大友親世の帰順もあって、再び九州平定に乗り出した。1377年には肥前蜷打の戦いで南朝方に勝利。以後も戦いを続け、1391年には征西府を降伏させ、翌年、南北朝合一を機に菊池氏とも和睦し、二十年余をかけて九州平定を果たす。
 
しかし、九州における勢力拡大を恐れた義満によって九州探題を解任され、遠江と駿河の半国守護となった。1400年には義満によって了俊追討令が出されているが、赦された。晩年は『難太平記』(『太平記』を難じる、欠点を挙げて非難するの意)の執筆などを行い、90歳代半ばで死去した。子孫は遠江今川氏としてのち堀越氏を称するが衰退、江戸幕府の旗本として続いた。
 
その後の九州
了俊が去った後の九州探題には渋川氏が任命されるが、大内氏の後援によってようやく地位を保っていられる状況であった。少弐氏は菊池氏と連合して、探題側とたびたび戦っている。九州探題は衰退し、大内氏と少弐氏が対立するようになる。その少弐氏も大内義興(義隆の父)に敗れると、肥前東部の一勢力に転落。少弐氏の被官であった龍造寺氏が台頭する。大友氏、島津氏は内紛が続いていたが、やがて統一され、戦国大名へと成長していく。

少弐氏は戦国時代に滅び、大友氏は宗麟の子義統が秀吉によって改易され、江戸時代は幕府の高家として続いた。守護大名を経て戦国大名となり、江戸時代も大名として続いた島津氏がいかに名門かおわかりいただけると思う。

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無題
うちのご先祖様は菊池氏とかなり近しい間柄でした。
というか分家みたいな感じかな。
セレス 2012/05/01(Tue)05:00 編集
無題
九州の中世(鎌倉・室町)を書いていくうちに、少弐氏と菊池氏は取り上げたいなと。個別の人物を書くのは難しいので、一族の歴史を追っていきたいと思います。

九州の場合は鎌倉幕府の御家人に由来する「下り衆」がいる一方、在庁官人から成長した集団もあるので、家の歴史を見て行くのもなかなか面白いですね。
Rakuna 2012/05/01(Tue)19:51 編集
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