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兵は拙速なるを聞くも、いまだ巧久なるを睹ざるなり(『孫子』)
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「戦国人物紹介」

優秀な家臣たちに支えられて
 

相良頼房 【さがらよりふさ】 1574-1636
 
長寿丸、のち長毎(ながつね)。四郎次郎、宮内少輔、宮内大輔、従五位下。義陽の二男。兄忠房が夭逝したため、十二歳で家督を継ぐ。
 
肥後というと加藤(清正家)、ついで細川家の印象が強いが、肥後一国を支配していたわけではなく、相良氏が江戸時代も肥後人吉の大名として存続していた。相良氏は藤原南家工藤氏流。遠江榛原郡相良庄に住んで相良氏を称した。のち肥後球磨郡多良木庄に移る。義陽(よしひ、よしはる)の代になると島津氏の圧迫を受け、争うも降伏。1581年には阿蘇氏の甲斐宗運と戦って戦死ししため、滅亡の危機に瀕する。
 
頼房が家督を継ぐと島津氏の後見下にあったが、家臣深見長智(宗方、宗芳と号す)、犬童頼安らの補佐を受け、秀吉の九州攻めに従って、球磨郡の所領を安堵される。関ヶ原の戦いでは西軍に属して伏見城攻めに加わり、その後は美濃大垣城を守備する。本戦で主力が敗退すると、家臣である犬童頼兄(頼安の子)の勧めで秋月種長(種実の子、種実の娘は頼房に嫁いでおり、義兄に当たる)、高橋元種(秋月種長の実弟、同じく頼房の義兄に当たる)とともに、垣見家純(一直)、熊谷直盛、木村由信・豊統父子を謀殺して東軍に降った。戦後、所領を安堵された。その後は深見氏と犬童氏の対立に悩まされるが藩政の確立に努力。相良氏は廃藩まで転封されることなく続いた。
 

旧領を回復

伊東祐兵 【いとうすけたか】 1559-1600
 
祐隆、虎熊丸、六郎五郎、民部大輔。従五位下豊後守。島津氏に日向を追われた義祐の子。
 
伊東氏は藤原南家工藤氏流。伊豆の伊東庄に住んで伊東氏を称す。のち日向の地頭となって日向に移った。義祐は島津氏と争うが敗れ、1577年、大友氏を頼って豊後に逃れた。翌年、大友宗麟は島津氏を攻めるが、耳川の戦いで大敗し、日向回復の望みは断たれた。その後、祐兵は同族の伊東長実を頼って秀吉に従い、山崎の戦いでの戦功により河内国内で五百石を与えられた。1587年、九州攻めでは先導役として日向に入り、飫肥(おび)などを与えられて旧領を回復した。朝鮮出兵にも従軍。
 
関ヶ原の戦いのときには大坂にあったが、病のため伏見城攻めには加わらず、子祐慶を帰国させ、黒田如水を通じて家康に誼を通じた。祐慶は飫肥に戻ると日向唯一の東軍として戦った(島津豊久は西軍に属し、本戦で討ち死に。秋月種長、高橋元種は本戦後東軍に寝返って所領を安堵された)。祐兵は本戦後まもなく大坂で病死。祐慶と島津方の戦いは翌年まで続いた(のち和議)。祐慶は大坂冬の陣に参加(夏の陣には間に合わず)。子孫は飫肥で廃藩を迎えた。
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