忍者ブログ
兵は拙速なるを聞くも、いまだ巧久なるを睹ざるなり(『孫子』)
×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

菊池氏と言えば思い出すのが、箱根竹ノ下の戦いでの「菊池千本槍」である。

南北朝時代の頃までの主要な武器は太刀、弓矢、それに薙刀(女性の武器とされるのは後世)などであった。1335年、新田義貞に従った菊池武重は竹の先に短刀を付けた武器を考案、千名の手勢で足利直義の兵三千を敗走させたと伝わる(戦い自体は味方の寝返りで敗れる)
 
菊池氏 肥後を中心に南朝勢力の中心として活躍するが、乗っ取りに遭う
 
藤原道長の兄道隆の子隆家は政変により左遷されたが、のち眼病の治療のため進んで太宰権帥を拝命して九州大宰府に下る。1019年、刀伊の入寇(満州の女真族が九州に侵攻した事件)を撃退し、武名を挙げた。隆家の孫である則隆が肥後菊池郡に移って菊池氏を称したとされていたが、現在では否定されている。隆家のもとで太宰少弐を務めた政則(隆家の子経輔の子とも、隆家の子ともされる)、その子則隆が肥後菊池郡に下向、土着して菊池氏を称したとされる。その他大宰府の府官を務めた一族が在地領主化したものなど諸説がある。いずれにせよ、九州三人衆(少弐・大友・島津)よりも九州に入ったのは早い。
 
六代隆直は平氏に反発するが、平貞能の追討を受けて平氏に降った。1185年の壇ノ浦の戦いでは平家方に属して戦い、戦後は源義経に降伏するが斬首されたという。十代武房は元寇に際して一族を率いて防戦に当たっている。十二代武時は後醍醐天皇に応じて1333年、阿蘇惟直・少弐貞経・大友貞宗とともに鎮西探題の北条英時を攻めるが、このときは少弐・大友の裏切りによって戦死している(のち九州三人衆が鎮西探題を滅ぼしている)
 
武時の子武重は建武の新政で亡父の功を称されて肥後守に任じられた。1335年、足利尊氏が天皇に叛いて鎌倉から西に向かうと、新田義貞の軍に従って足利尊氏と戦うが敗れた(「菊池千本槍」はこの際の逸話である)。十五代武光は懐良親王を迎えて南朝方の勢力拡大に努める。幕府方の一色氏、少弐氏を破り、大宰府を攻略。1359年の筑後川の戦いでは武光が刀についた血糊を川で洗った場所が筑後太刀洗(たちあらい)という。南朝勢力の全盛期を築くが、九州探題として派遣された今川了俊(貞世)に敗れて大宰府を追われた。南北朝の合一により和議が成立したが、菊池氏の勢力は衰えた。
 
二十一代の重朝は応仁の乱を避けて九州に下向した桂庵玄樹を迎え、隈府内に孔子廟を建てさせている。重朝の叔父宇土為光は肥後の守護職を狙って反乱し、重朝の子能運は肥前に逃れ有馬氏を頼る。のち隈府を回復して為光を殺すが二十代の若さで死去。菊池氏の嫡流はここで途絶える。能運の後は政隆(重朝の従弟重安の子)が継ぐが、阿蘇惟長が反乱、大友氏の攻撃を受けて自害した。阿蘇惟長は菊池武経を称して肥後守護職となったが阿蘇大宮司を継いだ弟惟豊らと対立、敗れて薩摩に亡命する。その後は一族の詫間氏から武包、次いで大友義長(宗麟の祖父)の二男義武が迎えられる。1554年、義武は甥の大友宗麟により追放され自害。ここに菊池氏の正統は絶えた。しかし、能運の子で米良重為の子孫が江戸幕府から交代寄合に任じられ、明治維新の際に則忠が菊池姓に復して子武臣が男爵を与えられた。武臣の子武夫は陸軍中将・貴族院議員を務め、美濃部達吉の「天皇機関説」を批判したことで知られる。
 
藤原政則(蔵規)-菊池則隆(初代)-兵藤経隆-菊池経頼-経宗-常直-隆直-隆定=能隆-隆泰-武房=時隆=武時-武重=武士=武光-武政-武朝-兼朝-持朝-為邦-重朝-能運=政隆=武経=武包=義武
PR
この記事にコメントする
お名前
タイトル
文字色
メールアドレス
URL
コメント
パスワード   Vodafone絵文字 i-mode絵文字 Ezweb絵文字
[830]  [829]  [828]  [827]  [826]  [825]  [824]  [823]  [822]  [821]  [820
カレンダー
04 2024/05 06
S M T W T F S
1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30 31
ブログ内検索
最新のコメント
[10/03 Rakuna]
[10/03 セレス]
[09/25 Rakuna]
[09/25 セレス]
[08/22 Rakuna]
[08/22 セレス]
バーコード
アーカイブ
カウンター
Admin / Write
忍者ブログ [PR]