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兵は拙速なるを聞くも、いまだ巧久なるを睹ざるなり(『孫子』)
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「戦国人物紹介」

秀吉の朝鮮出兵に振り回される人生
 

宗義智 【そうよしとし】 1568-1615
 
対馬の領主である宗氏の二十代当主。
 
いわゆる、源平藤橘(橘氏は早くに衰えた)の四姓を名家とするが、江戸時代の大名で、出自を平氏とした家は、源氏や藤原氏を称した家に比べると圧倒的に少ない。織田氏や相馬氏、上杉氏(長尾氏、ただし本来の上杉氏は藤原姓)、北条氏くらいなのだが、この対馬の宗氏も平氏を称した。平清盛の子である知盛の子孫と言われるが、実際は惟宗姓の在庁官人出身とされる。鎌倉時代から少弐氏の守護代として対馬を治め、朝鮮との交易で栄えた。元寇の際には当主助国(資国)が討ち死にしている。
 
1587年、秀吉の九州攻めの際に対馬を安堵され、翌年義智が家督を継いだ。1591年には小西行長の娘と結婚し、妻の勧めでキリスト教の洗礼を受ける。朝鮮出兵では義父の小西行長らと和平交渉を行うが果たせず。行長に従って先鋒として従軍した。
 
関ヶ原の戦いでは行長との関係もあり西軍に属すが、戦後、朝鮮との国交回復を図る家康から赦され、所領を安堵(翌年妻とは離別)。日朝間の交渉に当たり、1609年慶長条約(己酉約条)の締結に至る。子義成の代に国書を偽造していたことが露見し、改易の危機に立たされたが、家老の柳川調興が処断されることで改易は免れた。江戸時代、朝鮮と独自に交易することを認められ、十万石格の家格を得た。対馬府中藩として廃藩を迎える。


次回からは九州三国志、大友氏編がスタート。宗麟はまだ書いていませんが、立花道雪の逸話を集めているだけで楽しい。
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