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兵は拙速なるを聞くも、いまだ巧久なるを睹ざるなり(『孫子』)
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「戦国人物紹介」番外編

コラム 本拠地の話・4-2


中世には、多くの職業を生業とする集団が多数存在しており、農民を中心とした史観は訂正を要するが、それはともかく、中世以前から「農民」の多くは武装しており、「兵」と「農」は分離していなかった。むしろ、両者は一致していたと言ってもよい。他の武装農民の攻撃から身を守るために武装していたのは当然のことである。
 
戦国大名の多くは、彼らを徴兵して戦争を行ったが、農繁期(田植えや収穫の時期)の徴兵は制限され、自然、農閑期における戦争が多くなった。本拠で徴兵を行い、遠征したとしても、農繁期までには本拠に帰って、兵を戻さなければ、食糧の生産に支障をきたすことになる。信玄や謙信を初めとする多くの戦国大名は本拠を移さなかった、というよりも、移せなかったのは、この兵質によるところが少なくない。
 
加えて、戦国大名の立場に負うところも大きい。以前から繰り返しているように、信玄も謙信も家臣たちに擁立されて家督を継いだ。家臣たちは独自の領地を有し、主君に背いたり、家臣同士で争ったりすることもあった。戦国大名の権力は思っているほど絶大なものでも盤石なものでもない。謙信が自身の調停にもかかわらず、家臣間で領土争いが続くことに嫌気がさして出家騒動を起こしたことや、穴山氏や小山田氏が武田家滅亡時に武田家を見限って離反したことは知られている。
 
これは戦国大名にとって、本拠と雖も、領国支配が完全ではなかったことを示している。もう少しさかのぼって見れば、過去の武田家の当主には、反対派の妨害により甲斐に入れなかった者もいる。
 
その点、信長は常備軍を整備して、農繁期・農閑期を気にすることなく戦争ができたし、家臣たちに擁立されたわけではない(弟を擁立する集団を倒して家督を確固たるものにした)から、「土地に縛られる家臣」の制約を受けることもなかった。常備軍を整備できたのは経済力の拡大によるところも大きい。常備軍というのは生産せずに消費するだけの存在であるから、経済的に余裕がなければ常備軍を持つことはできない(なお、傭兵という存在があったことも付け加えておく)。
 
この生産せずに消費するだけの存在がのちに士農工商における武士になっていく。江戸時代の武士は、基本的に生産活動はせず、幕府や藩から給料(米)を支給される存在であった。幕府や藩のお勤めはこなしていたから、いまのサラリーマンとそれほど変わらない。
 
なお、信長が最初に常備軍を備え、これが兵農分離の始まりとなったとするのは正しくない。必要以上に信長を革命的先駆者とするのは改める必要がある。信長以前にも戦闘を専業とする集団は存在したし、兵農分離は江戸時代に入っても実現しなかった。ちなみに、秀吉の専売特許と思われている刀狩だが、実施したのは柴田勝家の方が早い。ただ、秀吉に見られるような身分統制の動きは江戸時代にも受け継がれて、形式的には「士農工商」と言われるような身分制度が成立した。とはいえ、農民が武装解除されたわけではなかった。農民が完全に武装解除されるのは、第二次世界大戦後のことである。

織田信行:信長の同母弟。通称は勘十郎。実名は信勝など。

父信秀の葬儀で、兄は「抹香をくわつと御つかみ候て、仏前へ投懸け御帰り」した一方、

「御舎弟勘十郎は折目高なる肩衣・袴めし候て、あるべきごとくの御沙汰なり」と、

「形のごとく整った作法」をしていたという。林・柴田に擁立されてクーデターを図るが失敗。

のちに殺された。
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