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兵は拙速なるを聞くも、いまだ巧久なるを睹ざるなり(『孫子』)
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「戦国人物紹介」番外編

コラム 本拠地の話・4-1


最後の西上作戦では駿府あたりではなく、わざわざ甲府から出兵していた信玄。冬になるたびに越山して、越後から関東に出兵していた謙信。移動距離・時間を考えれば非効率ではという考えが浮かぶ。

信玄も謙信も、領土を拡大したにもかかわらず(謙信が領土欲を持たなかった、領土獲得のための戦争を起こさなかったというのは事実ではない)、本拠を動かさなかったが、信長は異なる。
 
1555年、信長は尾張の守護代であった織田信友を除いて清洲城に入るが、それから小牧を経て美濃の岐阜に移る。この時、井ノ口(井口)を岐阜と改めた逸話は有名である(異説もある)。
 
http://naraku.or-hell.com/Entry/445/
 
1576年、近江の安土に築城して本拠を移したが、安土が終着ではない。『信長公記』にも「大坂は凡そ日本一の境地なり」とあるが、本能寺の変がなければ、信長は大坂に城を築いていた(すでに築城を始めていたという説もある)。秀吉の大坂築城は信長の計画をなぞったに過ぎない(信長の後継者であることを示すといった秀吉自身の政治的な意味はある)。
 
家康は信長にならって、岡崎から浜松に本拠を移したが、これはもう少し考察がいるだろう。徳川信康の話になる。伊達政宗あたりも、本拠の移転については柔軟である。
 
話を冒頭の信玄と謙信に戻すが、彼らと争った北条氏は伊豆から興って、小田原城に移った。これは初代北条早雲(伊勢宗瑞)の話で、その後は関東に勢力を広げても本拠を移転しなかった。小田原が防備に優れていたためであろうか。一国内の争いで本拠を移すのは島津貴久(義久、義弘などの父)にも見られるし、統治面を考慮して毛利輝元は吉田郡山から広島に本拠を移している。
 
また、攻められて本拠を移さざるを得なかったという例もあるが、領土の拡張につれて本拠を移すというのは、大半の(それなりに勢力、領土を持った)戦国大名においては、そもそも本拠を移すという発想自体がなかったのではないかと思われる(だから、本拠を移した信長が偉大だという話にはならないが)。信長が領土の拡大とともに本拠の移転を繰り返したのを見て、移転を考えた大名もいるだろうが、現実問題として、本拠の移転は困難だったと考えた方がいいのではないだろうか(次回に続く)

米沢城に始まり、蘆名氏を倒して会津黒川城(のちの会津若松城)に入るが、秀吉に屈服。

秀吉政権下で米沢から岩出山に移され、最後は仙台に移った。

仙台藩は新田開発に熱心で、江戸中期には実収で百万石を超えていたという。

この米が江戸に回り、江戸の人々の胃袋を支えた。
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