兵は拙速なるを聞くも、いまだ巧久なるを睹ざるなり(『孫子』)
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地名の話・2
そもそも地名というものは、地名を「付けた人」と、その地名を「認めた人」がいて初めて成立するものです。あの山は「高山」だ、いや「青山」だ、いやいや「神山」だ、と各人がてんでばらばらのことを主張していたら地名なんて決まらないわけです。一方で、「別名」や「異称」というものもありますよね。「信州」と言えば、日本人なら誰でも長野のことだとわかるでしょう。この「信州」も「信濃国」の言い換えなんですけどね。地名に限らず、対象の識別におけるあいまいさ、ふところの広さとでもいいましょうか。アバウトさが残っている部分もあります。ともかく、地名というものは、ある程度文化的に均一性を持ったコミュニティがあって存在するものです。違う文明の人々が来たら、その文明なりの地名を付けるかもしれません。
さて、前回、少なくとも近世(江戸時代)以前の日本人は、地名を変えることをタブー視していたのではないかという話をしましたが、これには例外が多々あります。
地名を変えることのタブーから少し自由であった人々、ということになりますが、まずは織田信長を挙げましょう。いろいろな方面で革新的、創造的であったと評されることが多い信長ですが、それは地名に対する考え方についても表れています。ここでは「岐阜」「長浜」「安土」について取り上げてみましょう。
1567年、信長は十年をかけて美濃を攻略すると、稲葉山城に入り、その地の名称であった井口(井ノ口、いのくち)を「岐阜」と改め、尾張から本拠地を移しました。改名を進言したのは信長の顧問とも言える立場であった禅僧の沢彦(たくげん)宗恩とされています。
若き信長の奇行を諫めて切腹したとされるのが平手政秀ですが、沢彦は政秀を弔った政秀寺を開山した人物として知られています。しかし、沢彦のほかの事績はあまり明確でなく、政秀寺開山と岐阜改名のほぼ二事で歴史に名を残した人物と言えます。
岐阜改名の話にはいくつか異説があるようですが、一つは沢彦が中国の地名にちなんで、「岐山、岐陽、岐阜」のいずれかから採って改名を勧めたとする説です。三つの候補を出したものの、勧め方としては最後の「岐阜」が本命だったのでしょう。もう一つが同じく中国の地名に基づいて沢彦が選定したもので、「岐山」と「曲阜」を合わせたとする説です。
「岐山」ですが、周の文王の祖父である古公亶父(ここうたんぽ)が岐山のふもとに周を建てました。文王は太公望(呂尚)を参謀に迎えたことで知られ、文王の子である武王が殷の紂王(「酒池肉林」の故事で有名、中国古代の代表的な暴君)を滅ぼしたとされています。天下を治めた周の建国の地であり、天下統一を目指す信長には通じるものがあったのでしょう。「曲阜」は儒教の祖である孔子生誕の地として知られています。ちなみに「岐」は「岐路」の語でもわかるように「分かれる」「分かれ道」の意味であり、「阜」は「丘」の意味です。「阜」という字は日本ではあまりなじみがないだけに、当時はこの字から曲阜、そして孔子を連想したのではないでしょうか。
一方で、古来より「岐府、岐陽、岐山、岐下、また岐阜」であったという説があり、岐阜命名は信長に始まるものではないとする見方もあります。ただこれは後世の記述によるもので、当時の典拠が明らかになっていないので、後世の人が信長の功績にケチをつけただけなのかもしれません。アンチ信長派の人々からすると、「それ見たことか」と信長の独創性を否定する材料になるのでしょうが。
「岐阜」改名の意味するところ
新たに名付けたとしても、旧名に復したとしても、「岐阜」という地名に改めたこと自体は信長の事績として認められるところです。そしてそこには天下統一を目指すという意志が込められており、またその意志を周囲に知らしめたことも間違いありません。同時期の話として、信長が「天下布武」の印判を使い始めたことが知られています。「天下布武」とは「天下に武を布く(しく)」の意味で、これも沢彦が選んだとされていますが、岐阜改名と同じく、天下統一の意志が感じられます。
ちなみに、何十冊にもなる大きな漢和辞典を紐解くと、「布武」には「ゆっくり歩く」という意味もあると書かれています。「天下をゆっくり歩く」とは、何事にも性急な信長を暗に諫めたと考えるのは深読みのしすぎでしょうか。
「岐阜」の話だけで終わってしまいました。次回は「長浜」、そして「安土」の話をしましょう。
そもそも地名というものは、地名を「付けた人」と、その地名を「認めた人」がいて初めて成立するものです。あの山は「高山」だ、いや「青山」だ、いやいや「神山」だ、と各人がてんでばらばらのことを主張していたら地名なんて決まらないわけです。一方で、「別名」や「異称」というものもありますよね。「信州」と言えば、日本人なら誰でも長野のことだとわかるでしょう。この「信州」も「信濃国」の言い換えなんですけどね。地名に限らず、対象の識別におけるあいまいさ、ふところの広さとでもいいましょうか。アバウトさが残っている部分もあります。ともかく、地名というものは、ある程度文化的に均一性を持ったコミュニティがあって存在するものです。違う文明の人々が来たら、その文明なりの地名を付けるかもしれません。
さて、前回、少なくとも近世(江戸時代)以前の日本人は、地名を変えることをタブー視していたのではないかという話をしましたが、これには例外が多々あります。
地名を変えることのタブーから少し自由であった人々、ということになりますが、まずは織田信長を挙げましょう。いろいろな方面で革新的、創造的であったと評されることが多い信長ですが、それは地名に対する考え方についても表れています。ここでは「岐阜」「長浜」「安土」について取り上げてみましょう。
1567年、信長は十年をかけて美濃を攻略すると、稲葉山城に入り、その地の名称であった井口(井ノ口、いのくち)を「岐阜」と改め、尾張から本拠地を移しました。改名を進言したのは信長の顧問とも言える立場であった禅僧の沢彦(たくげん)宗恩とされています。
若き信長の奇行を諫めて切腹したとされるのが平手政秀ですが、沢彦は政秀を弔った政秀寺を開山した人物として知られています。しかし、沢彦のほかの事績はあまり明確でなく、政秀寺開山と岐阜改名のほぼ二事で歴史に名を残した人物と言えます。
岐阜改名の話にはいくつか異説があるようですが、一つは沢彦が中国の地名にちなんで、「岐山、岐陽、岐阜」のいずれかから採って改名を勧めたとする説です。三つの候補を出したものの、勧め方としては最後の「岐阜」が本命だったのでしょう。もう一つが同じく中国の地名に基づいて沢彦が選定したもので、「岐山」と「曲阜」を合わせたとする説です。
「岐山」ですが、周の文王の祖父である古公亶父(ここうたんぽ)が岐山のふもとに周を建てました。文王は太公望(呂尚)を参謀に迎えたことで知られ、文王の子である武王が殷の紂王(「酒池肉林」の故事で有名、中国古代の代表的な暴君)を滅ぼしたとされています。天下を治めた周の建国の地であり、天下統一を目指す信長には通じるものがあったのでしょう。「曲阜」は儒教の祖である孔子生誕の地として知られています。ちなみに「岐」は「岐路」の語でもわかるように「分かれる」「分かれ道」の意味であり、「阜」は「丘」の意味です。「阜」という字は日本ではあまりなじみがないだけに、当時はこの字から曲阜、そして孔子を連想したのではないでしょうか。
一方で、古来より「岐府、岐陽、岐山、岐下、また岐阜」であったという説があり、岐阜命名は信長に始まるものではないとする見方もあります。ただこれは後世の記述によるもので、当時の典拠が明らかになっていないので、後世の人が信長の功績にケチをつけただけなのかもしれません。アンチ信長派の人々からすると、「それ見たことか」と信長の独創性を否定する材料になるのでしょうが。
「岐阜」改名の意味するところ
新たに名付けたとしても、旧名に復したとしても、「岐阜」という地名に改めたこと自体は信長の事績として認められるところです。そしてそこには天下統一を目指すという意志が込められており、またその意志を周囲に知らしめたことも間違いありません。同時期の話として、信長が「天下布武」の印判を使い始めたことが知られています。「天下布武」とは「天下に武を布く(しく)」の意味で、これも沢彦が選んだとされていますが、岐阜改名と同じく、天下統一の意志が感じられます。
ちなみに、何十冊にもなる大きな漢和辞典を紐解くと、「布武」には「ゆっくり歩く」という意味もあると書かれています。「天下をゆっくり歩く」とは、何事にも性急な信長を暗に諫めたと考えるのは深読みのしすぎでしょうか。
「岐阜」の話だけで終わってしまいました。次回は「長浜」、そして「安土」の話をしましょう。
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