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兵は拙速なるを聞くも、いまだ巧久なるを睹ざるなり(『孫子』)
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「戦国人物紹介」

新年・武田家スペシャル(5回シリーズ)


武田勝頼・5-5
 
いままで信玄の事跡を見てきたが、信玄が勝頼に遺したものは何だったのだろう。
 
領国としては甲斐・信濃・駿河、それに西上野、さらには遠江・三河・飛騨・越中の一部に及ぶ。北条家とは甲相同盟があり、上杉家とは事実上の休戦状態にあった(越中の一向一揆に牽制させた面もある)。後継者に遺したものとしては悪くない。ただ、遺したものはこれだけではない。信玄の指示であれば従う重臣(勝頼の指示にはなかなか従わない重臣)、事実上の後継者でありながら、後継者として扱われなかった立場、これらは勝頼の行動を掣肘することになる。
 
1573年の信玄の死後、武田家の家督を継いだ勝頼だが、戦にはめっぽう強く、「喪を秘して三年は兵を養え」との信玄の遺言に反し、1574年、東美濃の織田領に攻め入ると、明智城をあっという間に落とした。信長の救援も間に合わなかったほどである。さらに、遠江の徳川領に侵攻し、信玄も落とせなかった高天神城を落とした。武田家の版図が最大となったのは勝頼の時である。

長篠の敗戦を見て、「信玄の遺言に従わなかったから、長篠の敗戦を招き、さらには武田家の滅亡につながった」とする主張も多い。しかし、信玄の死はすぐに知れ渡って、織田家や徳川家は攻勢に転じていたから、勝頼が黙っていれば、武田家はじり貧に陥った可能性の方が高い。
 
1575年の長篠の戦いについては以前書いたので詳述はしない。勝頼側近と重臣たちの意見対立があったとされるが、攻撃の判断を下したのは勝頼であり、それに従ったのは重臣たちである。自暴自棄になった重臣たちの集団自殺というのは結果だけを見た妄説に過ぎない。重臣たちも自分の家は大事である。勝つ成算があって攻撃を始めたと思うのだが。長篠の戦いにおける惨敗は戦術的敗北にとどまらず、領国支配の動揺も招いたが、勝頼にとっては家臣団再編成の契機となったことも事実である。
 
勝頼の判断が致命傷となったのは、1578年の御館の乱における対応である。これは信玄とは直接関係がない。越後一国の統治すらおぼつかない上杉景勝との同盟を選択したが(甲越同盟)、北条家とは絶縁してしまう。景勝と争った景虎は北条氏康の子であるから、越後から上野、関東まで北条家の勢力に囲まれることを忌避したと思われるが(これは信玄が外交に失敗した1568年と似た状況)、織田・徳川と対抗するためには北条・上杉との同盟が不可欠であった。ここにおいて、勝頼は戦略・外交判断を誤ったというしかない。

1581年、家康が高天神城を囲むが、勝頼は上野戦線の多忙を理由に救援を行わなかった。高天神城は落城し、勝頼の威信は失墜した。こののち、木曾義昌らの離反をきっかけに一門衆までが相次いで脱落、武田家の領国支配は崩壊し、1582年、わずか一ヶ月で武田家は滅亡することになる。
 
なお、このとき、上杉家は同盟相手としてはほとんど機能しなかった。本能寺の変がなければ、1582年、遅くても1583年までには上杉家は織田家に滅ぼされていただろう。



「戦国IXA」では、2012年12月に登場。武田信虎の娘。信玄や信繁、信廉(逍遥軒)らの同母姉。今川義元に嫁ぎ、氏真を生む。三国同盟成立の前に死去してしまうが、この婚姻がのちの三国同盟の基礎となった。武田信虎と今川義元の血を引くから氏真も優秀なはずなのになあ…。

追加でコラム的なものを二つ書く予定です。
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