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兵は拙速なるを聞くも、いまだ巧久なるを睹ざるなり(『孫子』)
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「戦国人物紹介」

島津氏 

鎌倉時代から幕末維新まで続く名門
 
後世、初代忠久は源頼朝の庶子と称しているが伝説に過ぎない。秦の始皇帝の後裔で秦氏の子孫である惟宗姓で、歌人の惟宗広言の子孫とされてきたが、現在では惟宗忠康の子孫とされている。
 
ちなみに、忠久を頼朝の庶子とする話はこうである。
 
頼朝は伊豆の蛭ヶ小島に流されていたが、比企能員の妹丹後局と関係を持った。しかし、(北条)政子の怒りを買って、丹後局は遠ざけられた。局は西に向かったが、摂津住吉社で産気づいた。地元の人からは宿を貸してもらえず、おりしもの大雨で社殿の石の上で休んでいたところ、狐火の中で男子を出産した。これが島津氏の初代忠久であるというものである。
 
出産したときの石は忠久誕生石といい、住吉社内の稲荷神社にある。これを島津稲荷と称し、以後、島津氏は稲荷神社を尊崇するようになった。
 
局は頼朝の配慮により、惟宗広言に嫁いだ。これにより、忠久は惟宗姓と十文字紋を得ることになった。また、忠久は畠山重忠を烏帽子親として元服し、重忠から忠の字を賜った。頼朝は忠久を憐れんで、薩摩・大隅・日向の三国にまたがる日本最大の荘園である摂関家領の島津荘の地頭職を与えた。これが1185年のことである。1197年には薩摩・大隅両国の守護となり、島津氏を称した。さらには日向の守護にも任じられる。
 
ただ、この頼朝落胤説は早くても室町時代になって見られるものであり、広く認められるようになるのは戦国時代以後である。
 
島津氏は惟宗氏の一族で、その中に摂関家の筆頭である近衛家の下司となったものがあった。忠久はこの子孫と考えられ、近衛家から島津荘の荘官職に任じられており、頼朝に地頭職を賜ったのもこれがもととなったと考えられる。なお、島津氏は近衛家の本姓である藤原姓を称したこともあり、戦国時代には藤原姓と源姓を混用することになった。
 
なお、島津氏も大友氏や武田氏と同様、一族、庶流が多い。山田氏、伊集院氏、新納氏、樺山氏、北郷氏、川上氏、喜入氏などは庶流である。
 
島津氏の内訌
鎌倉時代の末期には五代貞久が反幕府方として九州の幕府勢力を滅ぼすのに功があった。貞久の長男氏久は大隅守護、次男師久は薩摩守護になる。この並立関係は師久系が滅びるまで続く。
 
九代の貞国は弟の用久や子の立久と対立し、十一代忠昌は一族や庶流の反乱を討伐できないまま、1508年に自害に追い込まれた。憤死した父の跡を継いだ子の忠治も大隅の吉田城を攻略中に病死。弟の忠隆が継ぐがわずか四年にして死去。さらに弟の勝久が継いだが、この頃には島津氏の領国はほぼ崩壊していた。本国である薩摩では分家である薩州家の実久、伊作家の忠良、相州家の運久が分立しており、入来院氏ら他の国衆も自領の支配を強めていた。
 
この中で忠良が子の貴久を島津宗家の家督とすることに成功する。貴久の子義久は九州統一寸前まで至るが、秀吉の侵攻により屈服。関ヶ原の戦いでは西軍に属すが、義久の弟義弘の子家久(忠恒)が本領を安堵される。江戸時代も外様の雄藩として知られ、佐幕派として中央でも影響力を持った。幕末は長州藩と結んで倒幕勢力の中心となり、新政府にも多数の人材を輩出した。

家門は丸に十の字、あるいは轡十字が有名だが、初期の頃は丸がなく、十字であった。
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