忍者ブログ
兵は拙速なるを聞くも、いまだ巧久なるを睹ざるなり(『孫子』)
×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

「戦国人物紹介」番外編

本拠地の話・4-4


単身赴任はつらいよ
 
仮名遣い、漢字は適宜改めた(角川日本古典文庫による)
 
正月二十九日、御弓の者福田与一宿より火事出来。是偏に妻子を引越し候はぬ故回禄の由、御諚なされ、則、菅屋九右衛門御奉行として、御着到を付けさせられ、御改候の処、御弓衆六十人・御馬廻六十人、百二十人妻子越し候はぬ者一度に御折檻。御弓衆の内より火を出し申すに付いて、先曲事の旨上意にて、岐阜中将信忠公へ仰遣はされ、岐阜より御奉行出され、尾州に妻子置き申候御弓衆の私宅悉く御放火なされ、竹木迄伏(伐)せさせられ、これに依って、取物も取敢へず、百二十人の女房共安土へ越し申候。今度の過怠として、御構の南江の内に新道を築せられ、何れも御赦免候なり。
 
(天正六年、1578年)正月二十九日、弓衆の福田与一宅から火事が起こった。これは偏(ひとえ)に妻子を連れて(安土に)引越ししなかったための火事とのことで、信長は菅屋九右衛門(長頼)を奉行として人名を書き並べさせて、検分したところ、弓衆六十人、馬廻六十人、合計百二十人の者が妻子を連れてきておらず(要は単身赴任だった)、一斉にお叱りなされた。弓衆から火を出すのはけしからん(信長の直臣だから、か?)ということで、信忠(信長の嫡男、当時は岐阜城主)に使者を出し、岐阜から奉行を出して、尾張に妻子を置いていた弓衆の家をことごとく火を放ち、竹や木まで伐採してしまった。このため、妻子は取るものも取りあえず、弓衆・馬廻百二十人の妻は安土へ引っ越した。今回の罰として、安土城の構の南、琵琶湖の入り江に新道を築かせ、いずれもお許しになられた。
 
実は、火事(放火)というのは昔から罪が重い。現住建造物等放火罪の法定刑は死刑、無期懲役、5年以上の有期懲役と規定されており、殺人罪と同等である。理論上は、死者が出なくても、死刑になる可能性がある。
 
住んでいる人を殺すだけでなく、延焼によりほかの建物(人を含む)も燃える可能性があることから、傷害罪や傷害致死罪とは別に罪が定められているのである。
 
江戸の町は「火事と喧嘩は江戸の花」という言葉が残っているほど、火事が多かったが、ここでも放火は重罪とされ、放火犯は市中引き回しの上、火あぶりの刑に処された(失火の場合はこの限りではない)

日本一短い手紙として知られている本多重次の手紙も「一筆啓上 火の用心 お仙泣かすな 馬肥やせ」である。
PR
この記事にコメントする
お名前
タイトル
文字色
メールアドレス
URL
コメント
パスワード   Vodafone絵文字 i-mode絵文字 Ezweb絵文字
[1183]  [1182]  [1181]  [1180]  [1179]  [1178]  [1177]  [1176]  [1175]  [1174]  [1173
カレンダー
04 2024/05 06
S M T W T F S
1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30 31
ブログ内検索
最新のコメント
[10/03 Rakuna]
[10/03 セレス]
[09/25 Rakuna]
[09/25 セレス]
[08/22 Rakuna]
[08/22 セレス]
バーコード
アーカイブ
カウンター
Admin / Write
忍者ブログ [PR]