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兵は拙速なるを聞くも、いまだ巧久なるを睹ざるなり(『孫子』)
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「コーヒーの話をしよう」的なノリなのですよ。
「歴史は人です」と言い切ってしまうかどうかはともかく。

天下人になるくらい、英雄なのですから、
幼少期の「神童」と言われるような逸話があっても
いいと思うのですが(創作でも捏造でも)

ということで、「家康伝説」に若い頃、
というか特に子供の頃の逸話が少ないような、
という話を前回してみましたが、
今川家の人質時代の話はいくつかありますね。

居並ぶ今川家の重臣たちを前に、
縁側で小便をして豪胆さを示してみせたとか
(なぜこの人はこの手の話ばかり残っているのか)。
太原雪斎本人の教えを受けたかはともかく、
当代一流の教育を受けさせてもらっています。
一般に思われているような悲惨な人質生活ではなく、
今川家の準一門のような待遇で、
辛酸をなめたのは家臣たちだったのですが。

信長の場合は太田牛一の『信長公記』に若い頃の話が
豊富に記されていますが、他にも、乳児の時に、
乳母の乳首をかみ切るほど癇癪が強かったのですが、
池田恒興(信輝、勝入)の母親(養徳院)を乳母にすると
おさまったという話はよく知られています。


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徳川家康についてつらつらと

関ヶ原の戦いに至るまで、途中の段階では、
想定以上に「西軍」の勢力が大きくなり、
危機を迎えた、というのが最近の見方のようです。

本戦自体も、苦戦の末、勝利したというよりは、
短時間で勝利したという見方も出ています。
(掘ったら何か出てこないのかね)

勝ったとはいえ、徳川家による勝利ではありませんでしたし、
豊臣の家臣同士による争いでしたから、
そこから三年を経て幕府を開いたとはいえ、
豊臣家を完全に超えるところまでは行きませんでした。

ともかく。
家康は天下人となって、江戸幕府は二百年以上続くのですが、
必ずしも(本人にまつわる)いい話だけが残っているわけではなく、
焼き味噌だったり、ケチだったり、タイのてんぷらに当たったり、
あまり格好良くない逸話も少なからず残されています。
(江戸時代はおおっぴらに批判することはできなかったのでしょうが)

秀吉あたりは成り上がりですから、
出生からの英雄譚が捏造されていますが
(秀吉を授かる時に母親(大政所)が太陽を飲み込んだので、
「日吉丸」と名付けたとか、一月一日に生まれたとか)、
家康にはそういうものがほとんど見当たりません。
(石合戦の勝敗を当てたという話くらいか)

家臣の裏切りで売られたという有名な話もありますが、
どうも家康の幼少期は謎が多いですね。

前にも書きましたが。

http://naraku.or-hell.com/Entry/2010/

安保法案をやるならやるで、やればいいのですが、
いま急いでやる必要性というのはさっぱりわかりません。
(まあ、アメリカに急かされているのでしょうが、
 来年になれば経済がどうなるかわかりませんし、
 そうなると株高・円安で支えられている支持率もあやしくなってきます)

説明をして、国民に信を問えばいいのですが、
それが難しい(説明もできないし、選挙でも勝てないかもしれない)
と見るや、憲法を無視して法案成立に邁進する、
この行為は法治国家(かどうかは措きますが)では致命的です。

ワイマール憲法下でのヒトラーの行為に似ていますが、
国民の熱狂的支持に基づいていない点が異なっています。

憲法を無視してやればこうなるのはわかっているけどやらない、
というのが為政者の自制、いや、理性だと思うんですけどね。
安倍首相を突き動かすのは、本人の理想ではなく、
アメリカの要求なのでしょう。

さて、挑発合戦が続く中国も、
そして、もしかしたら猫(いや、犬)の手も借りたいアメリカも、
七十年間寝ていた子を起こしてしまうことになるんじゃないかと危惧します。

夏休み前企画、ではありませんが、ほぼ記憶のみに頼って、ババッと書いた方が気楽ではあります。裏を取ろうとするとたいへん、手間を惜しんではいけないけど。

家康の六男忠輝の場合は、「色が黒く、まなじりがさかさまに裂けて恐ろしい(顔だ)」と嫌われて捨てられたとか。皆川広照に預けられ育てられたから、豊臣鶴松の例のように「捨て子はよく育つ」という迷信に沿ったようにも見えますが、その後の冷遇を見ると、本当に嫌っていたというか、避けていたように見えます。

忠輝七歳の時に家康と面会しますが、家康は「恐ろしき面魂かな、三郎(自害した長男信康)の幼い時に似て」と言ったといいますから、忠輝はともかく、信康とはやはり不仲だったのかと思ってしまいます。そのくせ、関ヶ原の戦いでは、「信康がいればこれほど苦労をしなくても済んだのに」とぼやいたりするのですから、家康という人物も複雑です。信康は武勇には秀でていたようですから、不仲だったとしても、この発言は矛盾していませんが。

のちに越後高田七十五万石の大名となりますが、これは岳父伊達政宗の後見(と大久保長安の暗躍?)があってのことで、弟たちに比べると、出世のスピードは見劣りします。関ヶ原の戦い前夜に適当な年齢(伊達政宗の娘五郎八姫を迎える年齢)になっていなかったらどうなったことかという気はします。

忠輝、忠直(結城秀康の子)あたりは、カッとなると何をしでかすかわからないところがありますが、反省するとおとなしくなるようです。家光の同母弟である忠長(駿河大納言)も似たようなタイプなのですが(家康の周辺はこういう人が多い)、これは家光が赦さず、自害させてしまいました。忠輝、忠直は天寿を全うしているのに。忠輝に至っては、捨て子だから丈夫に育ったのかわかりませんが、享年九十二歳で死んだのは1683年、世は五代将軍綱吉の時代です。

秀忠は、家康の臨終に駆け付けた忠輝を会わせなかったり(その後すぐに改易した)、家光も母親の愛情を取られた恨みか、忠長を自害に追い込んだり、信康や秀康、忠輝、忠直などとはタイプが違うような気がします。とはいえ、隆慶一郎の影響かもしれませんが、秀忠が一番陰湿という気はします(表面は穏やかそうですが)。

この子孫における二つのタイプは、家康自身の二面性そのものでしょう。忍従を重ねて天下を取ったように見えますが、激しい気性を併せ持っていて、それが子孫に現れたということだと思います。

家康の子を養嗣子にもらった平岩親吉の絡みで、
家康の男子を調べ直しているのですが、
後世の脚色が混じっているとしても、
秀康や忠輝に対する扱いは酷いですね。

秀康は家康の二男ですが、生まれても会わず、
三歳の時に長兄信康の取り成しで面会したとか。
(当時は正室の築山殿も存命だったので、
 側室の子である秀康は遠ざけられた)
一方で、「ギギ」という魚に似た顔だったので、
幼名を於義伊(おぎい)としたとか。
いつ名を付けたのでしょうか。
また、当時は不吉とされた双子だったので、
疎まれたとも言います。

関ヶ原の戦い後、秀康、秀忠、忠吉のいずれが
後継者としてふさわしいか、
家康が重臣たちに聞いたという逸話がありますが、
秀康を推す声が多かったとか。
忠吉は徳川四天王の一人である井伊直政の娘婿で、
直政は忠吉を推したようですが、
秀忠を推したのは大久保忠隣だけだったとか。

結局、秀忠が二代将軍となり、
秀康は「将軍の兄」という特異な地位を占めることになりますが、
「自分は大坂の秀頼の義兄であるから、事があれば弟を護る」
と言ったとか。

越前北ノ庄(福井)で七十五万石を領したことは、
関東(江戸)からは遠ざけられたとも見えますが、
徳川家に反旗を翻したわけではなく、
加賀の前田氏や西国大名の抑えとして
重要な地に大封をもって置かれたとも見えます。

関ヶ原の戦いで完勝できなかった家康としては、
西国はもちろん、畿内周辺にもほとんど家臣を配置できませんでした。
(戦後直後は近江彦根、近江膳所まで)

このような徳川家、豊臣家、両方の属性を持っていた
秀康がいたことは家康の強みだったかもしれません。

あ、忠輝を書けなかった・・・。

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