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兵は拙速なるを聞くも、いまだ巧久なるを睹ざるなり(『孫子』)
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昨日の「歴史秘話ヒストリア」は

(前半は)鈴木貫太郎でした。

以前に書いていましたね。

http://naraku.or-hell.com/Entry/464/


阿南陸相については、批判する立場を知らないで

昨日の番組を見てしまうと、

陸軍の暴走を抑えようとしたところは評価できる人物?

みたいな印象を持ってしまいそうです。


たしかに、阿南が降伏反対で、鈴木内閣を潰そうと思えば、

陸軍大臣を辞めれば済む話です。

当時は「軍部大臣現役武官制」でしたから、

降伏反対の陸軍が代わりの大臣を出さなければ、内閣を維持できないわけです。

(「現役」でなければ、予備役や退役した軍人でもいいのですが)

鈴木内閣が総辞職すれば、

次の組閣は降伏に反対する陸軍大臣を持ってこなければなりません。

そうなると、終戦工作はさらに遠のくことになります。

(いまとは組閣の仕組みが違うので、興味のある方は、

 詳しいところを調べてみてください)


あるいは、阿南に陸軍大臣を辞める気がなくても、

陸軍が阿南を辞めさせる、または殺してしまうと、

同じことになりますから、

阿南は陸軍の意を汲んで降伏反対の立場で振る舞った、

という意見はたしかに一理あります。


それはそれとして、さっさと、自決してしまったというのは、

陸軍大臣の責任の取り方としては疑問です、

というか、非難します。

(先頭に立って降伏の意を示したのだとしても)

多くの下士官までが罪を問われて、死刑になったというのに。


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『謎解き 関ヶ原合戦 戦国最大の戦い、20の謎』

桐野作人、アスキー新書、本体762円+税

2012年の初版ですが、もとは2000年の『真説関ヶ原合戦』(学研M文庫)に

大幅に加筆修正したものです。

210円くらい内容が増えている(はず)


筆者の著作はかなり読んでいますが、

参考にしている文献が豊富で、主張にも説得力があります。

まあ、関ヶ原の戦いを題材にした本作でも、

いわゆる軍記物をベースにした部分もあるので、

そこはどのようなお考えなのか、詳しく聞きたいところではあります。


参考文献の数々を見ても羨ましい限りです。


桐野氏は本能寺の変では、かつては朝廷黒幕説でしたが、

いまは四国説(明智光秀の重臣斎藤利三が関与)ですかね。


当時、信長を殺したい人はたくさんいたのでしょうが、

信長があの時期にあの人数で京にいたというのは偶然というか、

誰かが事前に予測できたものではなく、

黒幕の存在というのは根本的にあり得ません。


題材にしてフィクションを書くのは自由ですけどね。

真実を求めるのとは別です。

昨日の続き(第2回)

『新解釈 関ヶ原合戦の真実 脚色された天下分け目の戦い』
白峰旬、宮帯出版社、本体1,300円+税

PC版は右下にアマゾンのリンクを貼りましたので、興味のある方はどうぞ。

■「第一章」について
■■史料の使い方(史料批判)
ここで唐突に生駒利豊の書状が登場します。まずは生駒利豊という人物の説明からしなければなりませんが(現に本書ではそうしています)、一般には馴染みの薄い、というかほとんどない史料を用いるのであれば、最初に史料の信憑性、史料価値から検証すべきではないでしょうか。筆跡、料紙(用紙の原料)、言葉遣い、内容などから史料の検証が必要です。生駒利豊の略歴を述べても、それは書状の信憑性とは別の話です。

あるいは、この書状が所収されている『生駒家戦国史料集-尾張時代の織田信長・信雄父子を支えた一家』(生駒陸彦・松浦武編)を読んでください、ということなのかもしれませんが、この書籍は手軽に入手できるものではありません。所蔵している図書館も限られています。であれば、この書状の信憑性について、もう少し丁寧に説明をした方が、読者の理解も得やすかったのではないかと思います。

書状の写真は掲載されていますが、本文では筆者による現代語訳のみが示されており、釈文がないのでは、現代語訳の正誤を確かめようがありません。筆者はほかに解釈の余地はないと考えているのかもしれませんが、書状の写真があったとしても、古文書を読める知識が乏しい人にとっては、判断材料がないのと同じです。

■■史料批判の不足から来る説得力の希薄さ
関ヶ原の戦いに参加した誰かが生駒利豊に仮託した可能性があるかどうかの判断はしようがありませんが、仮に、「関ヶ原の戦いに参加した」「生駒利豊」が、戦いから十年ほど後に、当時を思い出して(あるいは過去に書き留めたものを見ながら)書いた書状だとしても、書状の内容がすべて事実であるとは限りません。

一次史料かどうかの史料批判が不足したままで、「一次史料であるから」と、そこに書いてあることすべてが事実であり、書いていないことは「存在しなかった」かのように扱うのは疑問があります。自分の都合のいいように、事実でないことを書き加えたり、あるいはその反対に、都合の悪いことを書かなかったり修正した部分がないと言えるのでしょうか。書状の内容は興味深いのですが、他に同様の史料がない、孤証であるのなら、用いるには慎重であるべきです。

そのあたりの史料批判が不足していると感じられるため、書状の内容も鵜呑みにはできません。本節の最後で鈴木眞哉氏の著書を引いて、鈴木氏の「白兵戦の存在を否定した指摘」に対し、生駒利豊の書状の内容は「有効な反証になるであろう」としていますが、これには首肯しかねます。なお、次節に取り上げられている細川家の「首注文」の史料(『綿考輯録』)は、白兵戦があった証左にはなりますが(当然、関ヶ原の戦いでも白兵戦は存在したでしょう)、遠戦志向を否定する根拠にはなりません。

■■ずれていく論点
そもそも、本書で引用している鈴木氏の指摘、「戦国大名たちにとって白兵主義は、そもそも無縁のものであった」、「戦国時代もまた白兵主義時代などといえるものではなく、遠戦志向のきわめて濃厚な時代だったのである」(鈴木眞哉『謎とき日本合戦史-日本人はどう戦って来たか』)、このどこをどう解釈すれば「白兵戦の存在を否定した」と言えるのでしょうか。

私の手元には鈴木氏の前後の著書(『戦国合戦の虚実』『戦国時代の大誤解』)がありますが、鈴木氏の主張は、戦国時代(に限らず、南北朝時代や室町時代も含めて)における合戦の主体は遠戦志向(弓矢・投石、のちには鉄砲)であって、日本古来と思われている「白兵主義」は、明治以降の軍部、あるいは教育機関によってつくり出されたものであるということで、白兵戦自体の存在を否定しているものではありません。

むしろ、戦前の軍部(とその周囲の教育機関、歴史学者など)が戦国時代の合戦の真の姿をゆがめたという点では、二人の主張には共通する部分があるのではないでしょうか。

と、ここまで書いてきて気づいた点がありますが、それはまた次回に。

(次回に続く)
『新解釈 関ヶ原合戦の真実 脚色された天下分け目の戦い』
白峰旬、宮帯出版社、本体1,300円+税

関ヶ原の戦いにおける通説を批判的に検証する姿勢は評価しますし、内容も興味深いものですが、史料の使い方を中心に疑問が残りました。

全般的に通説におけるいくつかの個別部分を批判したに留まっていて、関ヶ原の戦い全体の流れをどのように解釈するかについては今後のさらなる研究が必要だと思いました。通説を否定しただけで真説を考察できていない部分もありましたが、現状では結論が出ない論点も少なくないですから、問題提起としては重要でしょう。

なお、引用した史料については、原則として筆者が現代語訳したものを示すとしていますが、重要な史料については、現代語訳だけではなく釈文(ここでは読みにくい筆跡を読みやすい字体に直したもの)も示すべきだったと思います。

■「序章」について
■■『当代記』の記述を鵜呑みにしていいのか
最初に『当代記』が出てきますが、史料の中では成立年代が早いものです。成立年代は一般に寛永年間(1624~44)とされていますが、本書では元和九年(1623)説も紹介しています。関ヶ原の戦いから二十年ほどしかたっておらず、後代の軍記物や家康の神格化の影響は少ないと思われます。『当代記』の「関原合戦」部分は、本書中に筆者による現代語訳がありますし、『当代記』全体も『史籍編纂苐二』に収められており、インターネットでの閲覧も可能です。

ただし、『当代記』の記述自体があまりにそっけないとも感じます。『当代記』は他の記録を再編した編纂史料で、年代や事柄によって、記述の内容や量に偏りがあります。本書では「記載内容に脚色・誇張がないという点では一定の信憑性はあると思われる」としていますが、これはむしろ、『当代記』の編纂者(一般に家康の外孫である松平忠明とされる)の史料的な制約(情報の偏り)なのではないでしょうか。

とはいえ、いくら記述が多いといっても、話に尾ひれがついているような後代の軍記物や、「公式文書」といっても家康の神格化の影響を受けているような幕府の編纂史料を用いる場合には注意が必要なことは言うまでもありません。

■■戦場と合戦の名称
合戦の名称について本書では、合戦当日や直後の関係書状から「山中(やまなか、美濃国内の地名)合戦」として、本来の主戦場を関ヶ原でなく、山中(三成方の諸将が布陣した場所)としています。「山中」は通説では大谷吉継が布陣した場所で、主戦場とされる関ヶ原からは1.5キロほど西になりますが、文字通り狭隘な地で、少なく見積もっても二万から三万はいたと思われる西軍の主力、宇喜多秀家や石田三成、小西行長らはどこに布陣して、どのように東軍と戦ったと考えるべきでしょうか。

合戦の呼称は通常、戦った地名によりますが、いわゆる「姉川合戦」にしても、これは徳川氏における呼称で、織田氏・浅井氏は「野村合戦」、朝倉氏は「三田村合戦」といって、それぞれの軍が戦った地名に因って呼んでいます。「長篠合戦」にしても、この戦いは長篠城を囲む武田軍に対し、後詰に来た織田・徳川軍との間で生起したもので、実際に戦ったのは設楽原(したらがはら)、あるいは有海原(あるみはら)であり、「長篠設楽原(の戦い)」と併記されることもあります。

本書の第四章では『日本戦史』の布陣図に歴史的根拠はないとしています。たしかに、いくつか伝わっている布陣図の中には、福島正則が東軍の陣地から飛び出しすぎているものや、本多忠勝の布陣の向きがおかしいものもあるので、そこは同意しますが、では両軍がどこにどのように布陣したのか、あるいは西軍は布陣する間もなく東軍に攻められて崩壊したのか(そうだとしても、東軍は各部隊が西軍のどの部隊と戦ったのか)は示されていません。流動的な戦場で、誰がどこに布陣して誰と戦ったのかを明らかにするのは困難ですが、この部分は今後の考証が必要でしょう。

(次回に続く)
陳舜臣氏の小説は学生時代によく読みました。

自分の中では、日本の歴史小説は司馬遼太郎、

中国の歴史小説は陳舜臣、と思っていた時期もありました。


「三国志」に興味のある人であれば、

『秘本三国志』は読んでおきたいところでしょう。

それまでの(いわゆる「演義」的な)曹操や劉備のイメージを変えた本です。

(いまでは定着してしまっていますが)


個人的には『小説十八史略』でしょうか。

90年代に講談社文庫で文庫化されましたが、

読みやすかったので、中国史への導入としては最適でした。


ご冥福をお祈りいたします。


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