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兵は拙速なるを聞くも、いまだ巧久なるを睹ざるなり(『孫子』)
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夏休み前企画、ではありませんが、ほぼ記憶のみに頼って、ババッと書いた方が気楽ではあります。裏を取ろうとするとたいへん、手間を惜しんではいけないけど。

家康の六男忠輝の場合は、「色が黒く、まなじりがさかさまに裂けて恐ろしい(顔だ)」と嫌われて捨てられたとか。皆川広照に預けられ育てられたから、豊臣鶴松の例のように「捨て子はよく育つ」という迷信に沿ったようにも見えますが、その後の冷遇を見ると、本当に嫌っていたというか、避けていたように見えます。

忠輝七歳の時に家康と面会しますが、家康は「恐ろしき面魂かな、三郎(自害した長男信康)の幼い時に似て」と言ったといいますから、忠輝はともかく、信康とはやはり不仲だったのかと思ってしまいます。そのくせ、関ヶ原の戦いでは、「信康がいればこれほど苦労をしなくても済んだのに」とぼやいたりするのですから、家康という人物も複雑です。信康は武勇には秀でていたようですから、不仲だったとしても、この発言は矛盾していませんが。

のちに越後高田七十五万石の大名となりますが、これは岳父伊達政宗の後見(と大久保長安の暗躍?)があってのことで、弟たちに比べると、出世のスピードは見劣りします。関ヶ原の戦い前夜に適当な年齢(伊達政宗の娘五郎八姫を迎える年齢)になっていなかったらどうなったことかという気はします。

忠輝、忠直(結城秀康の子)あたりは、カッとなると何をしでかすかわからないところがありますが、反省するとおとなしくなるようです。家光の同母弟である忠長(駿河大納言)も似たようなタイプなのですが(家康の周辺はこういう人が多い)、これは家光が赦さず、自害させてしまいました。忠輝、忠直は天寿を全うしているのに。忠輝に至っては、捨て子だから丈夫に育ったのかわかりませんが、享年九十二歳で死んだのは1683年、世は五代将軍綱吉の時代です。

秀忠は、家康の臨終に駆け付けた忠輝を会わせなかったり(その後すぐに改易した)、家光も母親の愛情を取られた恨みか、忠長を自害に追い込んだり、信康や秀康、忠輝、忠直などとはタイプが違うような気がします。とはいえ、隆慶一郎の影響かもしれませんが、秀忠が一番陰湿という気はします(表面は穏やかそうですが)。

この子孫における二つのタイプは、家康自身の二面性そのものでしょう。忍従を重ねて天下を取ったように見えますが、激しい気性を併せ持っていて、それが子孫に現れたということだと思います。

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