兵は拙速なるを聞くも、いまだ巧久なるを睹ざるなり(『孫子』)
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安保法案に関する今朝のツイッターでの発言のまとめ
強行採決がいいとか悪いとかの話ではなくてですね、
もちろん、民主党はもっと強行採決やったじゃないか
(、だから自民党の強行採決も正当化されるべきだ)、
という話でもなくてですね。
この、数の横暴で憲法を無視するという行為が
法治国家(日本が本当にそうなのか言い切れないのだが、
ここでは建前としては法治国家であるとして)において
認められるのか、手続きに瑕疵があるということなのです。
目的が正しければ(正しいのか? その説明も足りない)
行為に瑕疵があっても正当化されるのか。
憲法九条を守って国が亡んでは意味がないのですが、
いまがその状況とは思えませんし、
納得のいく説明、議論が尽くされたとも思えません。
やるのであれば、正々堂々、憲法改正の手続きを踏んだら
いいのであって、そのために国民投票法を作ったり、
内閣法制局長官を替えたりしましたが、
難しいと見るや、姑息な手段で超えようというのは、
国家の最高法規である憲法を無視していますし、
主権者である国民を愚弄しています。
ここまでして安保法案を進めようとする背景には、
「世界の警察」をやめたがっているアメリカの意向があります。
アメリカは中国共産党ととことん事を構えるつもりは
ないのでしょうが、日本は中国共産党との有事には
アメリカの後ろ盾が不可欠と考えているのでしょう。
さて、為政者を縛るべき法が破られたらどうするのでしょうか。
裁判所に訴えるしかないのでしょうが、
「訴えの利益」がどこまで認められるでしょうか。
なお、「民主主義=多数決」ととらえている人が多いのかも
しれませんが、これだと数の暴力になってしまいます。
少数意見を尊重することも大切です。
また、多数決で決まれば何をしてもいい、ということはありません。
特に日本は「和をもって貴しとなす」の国ですから、
みんなが納得すれば何をしてもいい、ということが行われがちですが、
例えば、基本的人権などは多数決をもってしても制限できない権利です。
(みんながいいと言っても、ダメというものがある)
最後に、今回の話の中で、徴兵制の話が出てきて、
日本もスイスを模範とすべき、というような意見を目にしましたが、
スイスの歴史的・地理的要因と日本のそれとは大きく異なります。
強行採決がいいとか悪いとかの話ではなくてですね、
もちろん、民主党はもっと強行採決やったじゃないか
(、だから自民党の強行採決も正当化されるべきだ)、
という話でもなくてですね。
この、数の横暴で憲法を無視するという行為が
法治国家(日本が本当にそうなのか言い切れないのだが、
ここでは建前としては法治国家であるとして)において
認められるのか、手続きに瑕疵があるということなのです。
目的が正しければ(正しいのか? その説明も足りない)
行為に瑕疵があっても正当化されるのか。
憲法九条を守って国が亡んでは意味がないのですが、
いまがその状況とは思えませんし、
納得のいく説明、議論が尽くされたとも思えません。
やるのであれば、正々堂々、憲法改正の手続きを踏んだら
いいのであって、そのために国民投票法を作ったり、
内閣法制局長官を替えたりしましたが、
難しいと見るや、姑息な手段で超えようというのは、
国家の最高法規である憲法を無視していますし、
主権者である国民を愚弄しています。
ここまでして安保法案を進めようとする背景には、
「世界の警察」をやめたがっているアメリカの意向があります。
アメリカは中国共産党ととことん事を構えるつもりは
ないのでしょうが、日本は中国共産党との有事には
アメリカの後ろ盾が不可欠と考えているのでしょう。
さて、為政者を縛るべき法が破られたらどうするのでしょうか。
裁判所に訴えるしかないのでしょうが、
「訴えの利益」がどこまで認められるでしょうか。
なお、「民主主義=多数決」ととらえている人が多いのかも
しれませんが、これだと数の暴力になってしまいます。
少数意見を尊重することも大切です。
また、多数決で決まれば何をしてもいい、ということはありません。
特に日本は「和をもって貴しとなす」の国ですから、
みんなが納得すれば何をしてもいい、ということが行われがちですが、
例えば、基本的人権などは多数決をもってしても制限できない権利です。
(みんながいいと言っても、ダメというものがある)
最後に、今回の話の中で、徴兵制の話が出てきて、
日本もスイスを模範とすべき、というような意見を目にしましたが、
スイスの歴史的・地理的要因と日本のそれとは大きく異なります。
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