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兵は拙速なるを聞くも、いまだ巧久なるを睹ざるなり(『孫子』)
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どちらがどうなのかよくわかりませんが、

方広寺鐘銘事件を連想してしまいます。

まあ、方向が逆というか(ギャグではありません・・・)


冷戦時代ならともかく、

普通なら、自分の国のトップ(明らかに現在の)が

暗殺されるなんて映画が作られたら、

穏やかではいられないですよね。


ケンカを吹っかけておいて、サイバー攻撃があったら、

その国からの攻撃とみなして、経済制裁を行うとか、

なんという言いがかり。


唯一の超大国なら何をしても許されるのでしょうか、

言いがかり、という声は聞こえてきませんよね。

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ロシアはあと2年で経済立て直しじゃなくて、

再度の危機から瀕死になるんじゃないかな。

まあ、ずっと「逆オイルショック」が続くのも考えにくいですが。

アメリカやサウジは原油価格下落では一致しているのでしょうが、

狙う効果は別のところにあるようです。

ウクライナで好き勝手やった報いでしょう。

欧州の経済制裁よりはるかに効果がありました。


日本はデフレを通り越して、スタグフレーションに入っていますし

(決してインフレではない)、欧州も打つ手なし。中国もあやしい。

アメリカだけが好調、というよりも、いつものアメリカ頼みですが、

ロシアに限らず、どこが引き金となって、世界同時不況になりますやら。


こういうものはいきなり来ますから

(といっても、注意深く見ていれば、他より早く察知することは

 不可能ではない)、投資している人は、

ポジションを見直す必要があるでしょう。

手仕舞いした人は投資するものがないんですよね。

(頼まれて作ったNISA枠は使わずじまい)

『軍師官兵衛』第45回「秀吉の最期」

んー、うなった。

岡田准一くんと竹中直人の演技にうなりました(もちろん号泣)


推理ドラマは別として、フィクションはあまり見ませんし、

歴史ドラマにもなるべくリアリティを求めます。

研究者の間ですでに否定されているような話を持ってくるのはダメです。


信長で言うと、桶狭間の戦いで迂回奇襲をやったとか、

長篠の戦いで鉄砲三千挺を交代で撃ったとか、

そういう事実でないことをやるのはNGです。


リアリティと言っても、歴史考証もそうですが、

いかに事実を再現しているかですね。

もちろん、全部が全部、事実かどうかわかりませんし、

明らかな創作であっても、史実、というか、

人口に膾炙した(よく知られている)逸話を盛り込むのも大切です。

そこまで厳密にやってしまうと無味乾燥になりかねないですからね。

(たとえば、『三国志演義』には『三国志』にはない味があります)


というのがベースにありますが、

昨日の官兵衛と秀吉の今生の別れはよかったです。

実際にあんなシーンがあったかどうかというのは

必ずしも関係なくて(というか、すでにどうでもよくて)、

そこまで(なんだかんだ言って)ともに歩んできた二人が、

最後にあそこで(いままで言えなかった)言いたいことを言って、

泣く。

竹中直人の怪演に岡田准一くんが正面からぶつかる。泣く。

こっちも泣く。

実際にあったシーンかどうかではなく、

そこを超えたところで、

お互いが、官兵衛と秀吉となってぶつかり合う、

迫真の演技がこちらにも伝わってきました。


なので、別れ際の「ありがとうございました」は

言葉遣いとしてはおそらくNGなのですが

(あの時代にあんな言い方はしない)、

歴史を超えたドラマとしては、あれ以外の言葉はなかったのかと。


「ありがたきしあわせ(にございます)」とか、

「かたじけなく存じます」とか、

無理に当時の言葉遣いを当てはめてみると、

それはそれでまた別の違和感が出てくるような気がします。

(大河ドラマが現代的な言葉遣いを入れるのは

いまに始まったことではありませんが)




柴田勝全から急に創作意欲が湧いてきましたが、

まとめる(裏を取る)には時間がかかるので、

骨子というか、メモ的なもの。


柴田勝全(かつまた、と読むらしいが)

源左衛門勝定、佐渡守勝全、で同一人物か。

ネット上だと、『近江仲島文書』に見える源左衛門尉勝定と

同一人物、という記述ばかり見かけますが、

これは『戦国人名事典』の記述そのままで、

『近江仲島文書』がどのようなものかよくわかりません。


柴田勝家の一族なのか、養子待遇なのか、一族待遇なのか、

勝家の系譜を見てもよくわかりません。

勝家自身、父親以前の系譜がわかりませんし。

秀吉に敗れて、記録が残っていないのかよくわかりませんが

(家は残っている)、

意図的に抹殺されたのかと思うくらいによくわかりません。


勝全は北ノ庄の城代を務めたという話もありますが、

出典は何でしょうか。


ともかく、勝家に重用されていたはずですが、

明智光秀に転仕します。

主を替えるというのはよくある話で、

「忠臣は二君に仕えず」というのは江戸時代に定着したイメージです。

(この言葉自体は『史記』に見える、というのは前に書きました)


光秀の重臣斎藤利三(三代将軍家光の乳母である春日局の父)に

属したのか、その娘を娶っています。

しかも、娘が亡くなると、後妻にまた娘を娶ったとのことで、

よほど斎藤利三にも重用されたということでしょうか。

(そういえば、利三も、もとは稲葉一鉄の家臣で、光秀が引き抜いた人物。

一鉄は信長に訴えたが、光秀が返さなかったという)


山崎の戦いではその斎藤利三の軍に属していたようですが、

戦場からは逃れたようです(利三も逃れたが、捕えられて処刑された)

その後は、堀秀政に仕え、秀政の死後はその子秀治に仕えます。


堀秀政の従兄(伯母の子)である堀直政の子直之が、

柴田勝全と斎藤利三の娘の間にできた娘(春日局の姪)を

娶っていますが、年代的には合いそうです。

堀秀政が一時、北ノ庄城主だったのも何かの縁かもしれません。


小牧長久手の戦いで秀政の軍にあって敗軍の中で

奮戦したという話(出典が何か)

関ヶ原の戦いのあとは、福島正則に仕えたという話。


「笹の才蔵」で知られる可児才蔵も光秀に仕えた時期があり、

関ヶ原の戦いの時には福島正則に仕えていました。

可児才蔵あたりは、個人の武勇というところですが、

柴田勝全は個人の武勇が優れていたのか、

それとも、兵を率いての指揮能力が優れていたのか。

主を転々とする場合でも、藤堂高虎のような例もあります。

(この人はテクノクラート的な側面があるが、

個人の武勇に劣っていたわけではない)

転々としたというべきかはともかく、

後藤又兵衛あたりも、兵を率いてなおよし、というところでしょうか。


活躍の度合いが見えないとなんとも言えませんが、

北ノ庄城代を務めたという話だとか、

山崎の戦いや小牧長久手の戦いでの話を調べるに、

興味深い人物とは言えます。

(の割にはほとんど知られていないし、事跡もはっきりしない)


前回(平岩親吉・4)で「譜代」に触れましたが、補足しておきます。
「譜代」について、『新明解国語辞典』(第四版)を引くとこのようにあります。

ふだい【譜代】〔古〕〔もと、「譜第」と書き、系図の意〕⇔外様(トザマ)
一、代代その主家に仕えること。
二、関ヶ原の戦いの前から徳川氏に仕えていた者。

同じく、「外様」はこのようにあります。

とざま【外様】武家時代、将軍の一門や譜代でない大名(武士)。
〔広義では、傍系(出身の者)をも指す〕

現代では、同じ家、あるいは同じ会社に代々仕えている家というのはほとんどありませんから、「譜代」の言葉を使うことは珍しいでしょう。「外様」の方は、「よそ者」「(主流以外の)傍系」の意味で使われることがあります。「あの人は外様だから(身内でないから)出世できない」というような言い方、あるいはスポーツで他から移籍してきた選手を「外様」と呼ぶ感覚はご理解いただけると思います(少なからず差別的なニュアンスを含む)。この場合、反対は「生え抜き」でしょうか。

なお、「外様」の言葉自体は、江戸時代になって使われたものではありません。鎌倉時代には得宗家(執権を務めた北条氏の嫡流)の家臣を「御内人(みうちびと、みうちにん)」と呼びましたが、これに対して将軍家に従う御家人を「外様」と称しました。

■親藩
江戸時代には譜代大名、外様大名のほかに、親藩というものもありました。最高位が御三家(尾張、紀伊、水戸)で、次が御三卿(田安、一橋、清水)になります。このほか、越前・会津の松平氏などの一門(御家門)、御連枝がありました。

家康以前に松平氏から分かれた、いわゆる「十八松平」と呼ばれる松平氏や、家康の異父弟の家系である久松松平氏は、松平氏の一門ですが譜代大名とされます。

■譜代大名
初めに書いたように、「譜代」とは、一般的に、関ヶ原の戦い以前から徳川氏(松平氏)に仕えていた者を指します。三河時代以来の家臣のほか、武田・北条の遺臣なども含め、これらの中で大名に取り立てられた者を「譜代大名」と呼びます。なお、ここでは「譜代大名」を略して「譜代」と書くこともあることを記しておきます。

さて、一口に「譜代大名」といっても、その中身は一様ではありません。譜代の中にも、いつから徳川氏(松平氏)に仕えていたかで、「安祥譜代」「岡崎譜代」「駿河譜代」などの区分があります(区分や呼称には諸説ある)。

前回書いたように、井伊直政は酒井・本多などの「譜代」からは「外様(新参)」と見られていましたが、家康が関東に入ると、直政が家臣では最高の石高を与えられました。これは家康からの寵愛もありましたが、何よりも抜群の功績があったからでしょう。

■外様大名
こちらは、関ヶ原の戦い以後に徳川氏に従った大名ということになりますが、関ヶ原の戦いで東軍に属していたからといって、譜代大名になるわけではありません。加藤清正や福島正則は外様大名です。そもそも、関ヶ原の戦いの前はもちろん、戦後すぐの段階でも加藤や福島が家康に臣従したのではありませんから(立場上、家康も含めてみな豊臣家臣であり、形式上、東軍も家康の私軍ではない)、彼らが譜代大名にならないのはおわかりいただけると思います。

譜代と外様の最大の差は、譜代でなければ幕府の役職に就くことができないことです(大名までの石高を有していない場合もある)。外様の大名は前田や島津など譜代大名以上の石高を有していましたが、一部の例外を除き、基本的に幕府の要職に就くことはありませんでした。


では、これらの一般的な定義を踏まえたうえで、以下に例外的な事例を紹介します。

保科正之
二代将軍秀忠の庶子。武田遺臣で信濃高遠藩主であった保科正光(武田信玄に仕えて「槍弾正」と謳われた保科正俊の孫)の養子となります。のちに正之は異母兄の三代将軍家光に登用されて会津藩主となりますが、育ての親である正光の恩を忘れず、終生保科姓で通しました。正之の子孫は松平姓に改めて、名実ともに親藩(家門)となっています。もとの保科氏は正光の弟の系統が継いで、こちらは譜代として続きました。

柳沢吉保
もともとの柳沢氏は武田遺臣で家康に仕えました。いくつかの系統がありますが、吉保が五代将軍綱吉の側用人となり、大名まで出世しました。子孫は大和郡山藩主として続き、譜代大名とされます。

本庄宗資
五代将軍綱吉(文治主義の名君)の母桂昌院の弟。加増を繰り返して大名となります。子資俊のときに松平姓を与えられますが、これは譜代大名とされます(親藩でも外様大名でもない)。桂昌院、宗資の兄道芳は摂関家の一つである二条家に仕える武士だったようですが、それ以前の系譜となるとはっきりしません。

このほか、関ヶ原の戦い以後に取り立てられて大名となった例としては、八代将軍吉宗の時の加納久通や有馬氏倫、大岡忠相〈大岡越前〉、九代将軍家重の時の田沼意次などがありますが、関ヶ原の戦い以前から家康に従っていたとは限りません。


では、関ヶ原の戦い以後に徳川氏に取り立てられた場合、譜代になるかというと、それもそうとは限りません。二つの事例を紹介しましょう。

立花宗茂
関ヶ原の戦いで西軍に属して失領。その後、家康・秀忠に仕えて、陸奥棚倉で一万石を与えられました。のち筑後柳川(柳河)の旧領への復帰を果たしますが、関ヶ原の戦いの負け組で、旧領に復帰したのは立花宗茂だけとされます(相馬義胤を入れる場合もあるが、やや異なる)。宗茂が徳川氏に取り立てられたといっても、もとは徳川氏の家臣筋でもありませんから、外様大名というのはむしろ当然といえます。

丹羽長重
長秀の子。関ヶ原の戦いでは、東軍の前田利長と戦ったため失領しましたが、のち常陸古渡で一万石を与えられて大名に復帰しました。常陸江戸崎を経て、立花宗茂の後の陸奥棚倉に五万石で入封しています。丹羽氏はもと織田氏(信長)に仕えた家ですから、これも徳川氏に取り立てられたといっても、外様大名扱いとなります。


■エトセトラ

藤堂高虎
主君を転々としたことには時代によっても賛否両論ありますが、関ヶ原の戦い以前は伊予板島(丸串、のち宇和島)で八万石を与えられていました。秀吉にも信任されましたが、秀吉死後は家康に接近して、家康からも信頼を得ました。家康の死に際して改宗した話を初め(これも批判的な人からすれば、阿諛追従、おべっかの類と映る)、家康との逸話はいくつかあって、譜代大名かと錯覚しますが、外様大名です。

ただ、藤堂氏は外様大名ながら伊勢・伊賀で三十万石余を与えられて、京畿ににらみをきかす重責を担い、「準譜代」とでもいうような扱いを受けました。その津藩も、鳥羽・伏見の戦いでは京の山崎を守備していましたが、新政府軍に内応し、旧幕府軍に発砲します。「さすがは藤堂氏、藩祖の薫陶が行き届いている」と、旧幕府軍も唖然としたと言います(ただし、藩主の指示ではなく、現場の司令官の独断とされる)。

石川康長
石川氏は譜代の中でも最古参の「安祥譜代」に数えられますが、家康に仕えていた石川数正は突如出奔し秀吉のもとに赴きます。秀吉からは信濃松本で八万石を与えられますが、重用されることなく死去します。子の康長は関ヶ原の戦い前夜、会津攻めに従い、そのまま東軍に属して所領を安堵されますが、のちに大久保長安事件に連座して改易されました。この石川氏は外様大名とされます。

一方、数正の叔父家成は徳川家に残り、その系統は伊勢亀山、常陸下館藩として存続しました。こちらは譜代大名です。

堀直景
秀吉に仕えて「名人久太郎」と謳われたのは堀秀政ですが、秀政のおばの子で秀政に仕えて家老となり堀氏を称したのが堀直政です。秀政の家系は嫡流が改易となり、庶流が信濃飯田藩として続きましたが、直政の家系は越後村松藩、信濃須坂藩、越後椎谷藩の三藩があり、こちらの方が繁栄しました。

堀氏は織豊系(織田、豊臣系)の家ですから、外様大名ですが、越後椎谷藩のみ譜代大名とされます。これは、藩祖の直之(直政の子)が秀忠に仕えて御書院番となり、のち江戸町奉行、寺社奉行となったこと、また直之の妻が春日局の姪(明智光秀の重臣斎藤利三の娘が柴田佐渡守勝全(*1)に嫁ぎ、その娘が堀直之の妻とされる)であったことが理由とされます。直之の所領は九千五百石でしたが、子直景が万石に達し、大名となりました。

*1柴田源左衛門勝定と同一人物か。もと柴田家の家臣(一族ともされる)で、山崎の戦いで戦死したとも伝わるが、生き延びて堀家に仕えたともいい、この時に堀家との関係があったと思われる。のち堀家を去って福島正則に仕えたという。


真田幸貫
信濃松代藩主。寛政の改革で知られる老中松平定信の子。定信は八代将軍吉宗の孫なので、幸貫は将軍の曾孫になります。真田氏は外様大名の家柄ですが、幸貫は譜代大名の扱いを受けて老中となり、水野忠邦が主導した天保の改革に加わります。また、藩政でも佐久間象山を登用したことでも知られています。真田氏は幸貫以前に男系は絶えていますが、女系を介してその血は受け継がれています。

蜂須賀斉裕
阿波徳島藩主。父は十一代将軍家斉です。家斉は五十人以上の子をもうけたと言われていますが、多くの子女を他家の養子としたり、嫁がせたりしました。男子は御三家や御三卿といった一門の養子となりましたが、その中で蜂須賀家の養子となったのが斉裕です。親藩となってもおかしくはないのですが、あくまで外様大名となります。

他にもいろいろな例がありますが、このへんにしておきます。必ずしも形式的に決まっているわけではなく、時には柔軟に外様から譜代扱いにされていた例もあることがおわかりいただけたかと思います。
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