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兵は拙速なるを聞くも、いまだ巧久なるを睹ざるなり(『孫子』)
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『戦国武将 敗者の子孫たち』
高澤等、洋泉社歴史新書y、890円+税

■石田三成の場合

 三成の子孫が、三成の子孫であるがゆえに、家康、あるいは幕府に抵抗するというのは考えにくいことです。関ヶ原の戦いの時点では、家康も三成も豊臣家の家臣です。戦後、家康は豊臣政権から離れて幕府を樹立しますが、家康と戦うために、三成の子孫というのは大義名分にはなりえず、豊臣家(秀頼)を擁立することが必要になります。三成ですら、名目上の総大将として毛利輝元を立てなければならなかったくらいですから、三成の子孫が立ち上がる(あるいは誰かが三成の子孫を擁して立ち上がる)というのはいずれも大義名分に欠けるでしょう。

 幕府からしても三成の血は脅威となりませんでしたし、豊臣側から見ても幕府との対抗上、価値のあるものではなかったのでしょう。幕府に対抗したければ、わざわざ実力不明な三成の子孫を擁するよりは、自分で豊臣家を擁して戦った方が自由に采配を振るえるというものでしょう。

 なお、関ヶ原の戦い後、三成の嫡男である重家は助命されています(生年は不詳だが、十代と言われる)、剃髪して仏門に入り、天寿を全うしています。二男の重成は陸奥津軽氏のもとへ逃れ、杉山氏と名を替え、弘前藩の重臣として続いています(詳細は本書へ)。

■くどくど書いてきましたが

 関ヶ原の戦い後、戦場を逃れた石田三成や小西行長、安国寺恵瓊といった西軍の首謀者は捕えられて処刑されています。

 一方で、名目上の総大将である毛利輝元や薩摩の島津義弘などは軍事的・地理的・政治的制約もあり捕えて処刑することは無理でしたが(のちの薩長である)、実質的な総大将である宇喜多秀家、あるいは真田昌幸を処刑することはありませんでした。秀家は八丈島、昌幸は九度山への配流となりましたが、いずれも子孫が残っています。特に昌幸の子信繁(幸村)は大坂の陣で豊臣方に付き、幕府軍を苦しめることになります。これは信繁が幕府には脅威と思われていなかったというか、ほとんど存在を知られていなかったことが要因でしょう。家康が「真田が大坂に入城した」との知らせを受けて「父か子か」と聞いた逸話はよくできた話ではあります。

 組織において個人(組織の長)の能力が占める割合が多い場合、その個人を除けば、組織が機能することは難しくなりますが、個人の地位が低下して集団が率いるようになることがあります。この場合、組織の長は名目的な地位に過ぎなくなっていきますが、その地位に就く正当性(正統性)は血統ということになります。

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