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兵は拙速なるを聞くも、いまだ巧久なるを睹ざるなり(『孫子』)
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『戦国武将 敗者の子孫たち』
高澤等、洋泉社歴史新書y、890円+税

 明智光秀や石田三成など、「敗者」を取り上げて、その子孫を追っているため、敗者と子孫への同情、叙情的な文章が散見されます。あとがきにある本書執筆の経緯を見ると理解できないでもありませんが、筆者の個人的な感情に文章が流れ過ぎていて、主旨である敗者の血脈を追うという客観的に考証する部分とのバランスが悪いように思います。また、血脈がつながっている大名家や公家の名前が羅列的になっていますが、これは本書の性格上、やむを得ないことでしょう。

 さて、現在の皇室には女系を通して、織田氏や豊臣氏、徳川氏の血が入っていることは知られていますが、光秀や三成の血も流れています。詳しくは本書をお読みいただければいいのですが、それ以外に注目したのは、秀吉と家康が登場する以前から、豊臣氏(木下氏)と徳川氏(松平氏)が青木氏の一族を通じて近い血脈にあったのではないかという点について言及しているところです。

 青木一矩(勘兵衛、紀伊守)という人物がいますが、この人物は秀吉の母方の従兄弟に当たるとされています。越前北ノ庄で二十万石を領しましたが、関ヶ原の戦いで西軍に属し、戦後すぐに病死しました。孫の久矩は大坂の陣で大坂方に属して夏の陣で戦死しています。

 これとは別に、青木一重(忠助、所右衛門、重通、民部少輔)という人物がおり、家康に仕えていましたが(姉川の戦いで真柄十郎を討ったという説もある)、出奔したのち秀吉・秀頼に仕え、七手組の頭の一人となります。大坂夏の陣の前に使者として駿府を訪れますが拘束され、戦後は旧主の家康に仕えて摂津麻田藩主となります。

 後者の青木氏の同族から、家康の母方の祖母である華陽院(諸説あるが青木弌宗の娘とされる)が出ているという説があり、さらに青木一矩と青木一重の系統が同族だとすると、青木氏を挟んで豊臣氏(木下氏)と徳川氏(松平氏)が「相対する家柄だった可能性が出て」きます。当時は同程度の家柄同士で婚姻関係が結ばれていたとすれば、秀吉の生家は少なくとも貧農ではなかった可能性が高くなります。

 なお、青木一矩の娘(お梅、蓮華院)が家康の側室の一人であったという説もあります。青木一重が赦されたことからも、これら青木氏と家康には何らかの関係があったことをうかがわせます。

 秀吉、家康の生前からのつながりであれば、後世の改竄は限定されると思われますが、肝心の青木氏の系譜自体が諸説あって定まりませんので、このあたりは今後の研究を待ちたいと思います。

■敗者の子孫が抹殺されない理由を考える

 話を本論に戻しますが、勝者が敗者の一族を根絶やしにしなかったのはなぜでしょうか。いくつかの理由が考えられますが、一つには勝者にとって、敗者の一族は脅威ではなかったというのがあるでしょう。次回は個別の例で考えてみます。

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