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兵は拙速なるを聞くも、いまだ巧久なるを睹ざるなり(『孫子』)
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「戦国人物紹介」

新年・武田家スペシャル(5回シリーズ)


武田勝頼・5-4
 
外交方針の転換
信玄自身の求心力維持のためにも拡張政策を続けざるを得なかった武田家だが、1568年、三河の徳川家康に遠江割譲を約し、ともに今川領に侵攻した(駿河侵攻)。今川家の次は徳川家、というのは両家のお互いの暗黙の了解であったろうが、当面は「敵の敵」と結んだ格好である。ここに今川家との同盟は破棄された。信玄は北条氏康にも共闘を呼び掛けていたが、氏康はこれを拒否し、今川家救援に乗り出した。このため、信玄は北条家をも敵に回してしまう。激怒した氏康は越後の謙信と電撃的に同盟を締結し(越相同盟)、信玄の後方をおびやかした。さらに、信玄は遠江を巡って家康と対立し、周囲を敵対勢力に囲まれてしまう。
 
謙信とは将軍足利義昭の仲介により和睦が成立したが、後顧の憂いを取り除くべく、信玄は北条家との対決を決意する。1569年には北条領に攻め込んで小田原城を包囲(落城には至らず、謙信にも信玄にも落とせなかった城となった)、甲府撤退に際して追撃してきた北条軍を三増峠で破っている。小田原攻めについては本気で攻めるつもりはなく、示威行為と見た方がいいだろう。この点は、謙信の小田原攻めも同じである。その後は再び駿河に侵攻し、支配下に置いた。越相同盟も実際はほとんど機能せず、上野では武田方が圧倒した。
 
1571年には氏康が死去し、家督を継いだ氏政は信玄の娘黄梅院(1569年死去。氏直らの母)を正室としていたこともあり、氏康の遺言により、越相同盟を破棄して信玄との同盟を回復した(甲相同盟)。後方を確保した信玄だったが、外交関係の修復に費やした三年は、信玄が西上作戦の途中で死去したことを考えると、大きな損失だったと言えよう。
 
以後は信長と対立した足利義昭の要請もあって西を目指すが、1572年以降の西上作戦については上洛を目指したものであったか否か諸説ある。勢力伸長著しい信長を放置しておけば年を追うごとにその打倒は難しいものとなる。また、元亀年間(1570-73)は信長包囲網がもっとも信長を苦しめた時期であり、信玄が上洛を目指せば、信長はさらに窮地に陥ったであろう。信玄が余命のあるうちに上洛を企図したというのは十分に考えられることである。現に(今川義元と異なり)中央の勢力との連携が見られる。一方で、武田領の拡大という側面もあったであろう。徳川領である遠江、三河、織田領である東美濃などに勢力を拡大しようという目論見である。自領を拡大しつつ、上洛も目指すという作戦であり、目標をどちらかに限定する必要はない。
 
なお、地方の大名が中央の政権に関与した例としては、中断はあるが十年近く在京した大内義興(義隆の父)がある。最後は本国の情勢が不穏になって帰国したが、大内義興の例を引くまでもなく、三好氏(もとは四国の細川氏の被官である)や六角氏(近江)の例もあるから、珍しいというほどのことはない。信玄が西上作戦の途上で死なずに、上洛して天下に号令することができたかは疑問もあるが、信長を追い出して、将軍の権威を復活させて、副将軍か管領にでも任じられた可能性はある。信長は(副将軍も管領も)拒否したが、信玄は嬉々として受けたかもしれない。信長との戦いが終わったら、信玄はすぐに甲府に帰っただろう。信玄は信長や家康と違って、本拠を移すということをしなかった。
 
信長の存在がなければ上洛を目指したかは不明だが、好き嫌いを別にして、スケールの大きさからは「戦国の巨人」と評してよい。
 
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