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兵は拙速なるを聞くも、いまだ巧久なるを睹ざるなり(『孫子』)
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コラム 木曾路の考察

源義仲(木曾義仲)が信濃から美濃に向かわなかったのは、根拠地が北信濃(あるいは上野)であり、そこで越後の平家方勢力と戦い、そのまま越後から日本海側に出て、上洛を目指したということのようである。有名な倶利伽羅峠の戦いの場は越中と加賀の国境である。ちなみに牛の角に松明(たいまつ)をつけて敵中に放って混乱させたというのは、中国の戦国時代、斉の田単(でんたん)の「火牛の計」を下敷きにした創作であろう。
 
そもそも、木曾路、これは中山道に含まれるが、街道として整備されたのは江戸時代に入ってからである。それ以前、関ヶ原の戦いにおいて、秀忠軍が雨で行軍に難渋し、本戦に間に合わなかったことは知られている。これは真田昌幸のせいではない。
 
http://naraku.or-hell.com/Entry/526/
 
前にも書いたが、秀忠軍の所期の目的は真田家を含めた西軍勢力の掃討である(そもそも上田城は中山道沿いにはない)。関ヶ原方面への転進を命じる使者が雨のため秀忠の陣に到着するのが遅れたというのが実情である。
 
木曾路というのは難路であって、単独で軍を動かすというのは難しい。信玄の西上作戦では本隊が東海道を進み、秋山信友が美濃方面へ進んで、織田軍を牽制する役割を果たした。秋山支隊とでも言うべきだが、「秋山支隊」などというと、「坂の上の雲」、日露戦争、奉天会戦の秋山好古を連想してしまう。
 
織田軍が武田家を攻めた時は木曾路を使ったが、これは「木曾にいた」木曾義昌が寝返ったためである。南からは家康が攻撃に加わっているが、信長自身、武田家がわずか一ヶ月で崩壊するとは思っていなかっただろう。

守成に徹した名君。この人の評価が江戸時代においても上がらない(というか、ほぼ無視された)のは、家光のせいである。秀忠、お江に愛されなかった家光は徹底的に秀忠の功績を消した。

家光(言うまでもなく「三代」将軍である)は自分を「二世権現、二世将軍」と意識し、祖父であり、将軍家世子(後継者)としてくれた家康を尊崇していた。が、あまりに尊崇しすぎて日光東照宮を造営して幕府の財政を傾けるなど、歪んだ意識は幕政にも少なからぬ影響を与えた。

隆慶一郎だと影武者徳川家康を殺そうとする陰険な悪人。
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