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兵は拙速なるを聞くも、いまだ巧久なるを睹ざるなり(『孫子』)
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「戦国人物紹介」

織田氏

 
織田氏は後世、桓武平氏を称している。平清盛の嫡男重盛の子資盛の子親真を祖とするものである。しかし、2011年に親真の墓が見つかり、そこに記された没年(1290年)から、親真を資盛(1185年没)の子とすると、親真の年齢が百歳を超えることになり、親真を資盛の子とするのは無理があるようである(ただし、墓に刻まれた文の読み方には異説もある)
 
一般には越前国丹生郡織田庄の織田剣神社の神官の出とされ(なお、いずれも「おた」と読む)、このことから忌部(いんべ)氏の流れを汲むとされている。室町時代に入ると、越前や尾張で守護を務めた斯波氏(三管領家の一つ)に仕え、一部は越前から尾張に移った。斯波氏の守護代というのは、甲斐氏、朝倉氏と同じである。
 
織田氏と朝倉氏は同じ斯波氏の守護代であるが、そこから織田氏よりも早く下剋上で越前の守護となった朝倉氏と仲が悪い(朝倉氏が一方的に敵視したように見えるが)のは、こういうところにも因縁がある。
 
尾張の守護代となった織田氏は上四郡を治めた岩倉織田氏(伊勢守家)と下四郡を治めた清洲織田氏(大和守家)に分かれて争ったが、清洲織田氏には清洲三奉行と呼ばれた三家が仕えていた。因幡守家、藤左衛門家(この名は藤原氏の子孫を思わせる)、弾正忠家の三家である。弾正忠家から信長が出るが、弾正忠家が守護代の織田氏につながるかどうかははっきりしていない(無関係の氏族が主家と同じ織田氏を称した可能性もある)。
 
要するに、信長を出した織田弾正忠家が織田氏(の宗家)につながるかはわからず、その織田氏自体も、さかのぼると平氏なのか忌部氏なのか、それ以外の氏族なのか、よくわかっていないというのが実情である。
 
ともかく、弾正忠家から信長が出て、江戸時代に大名として残った織田氏も信長の系統(二男信雄と弟有楽斎の子孫)であるから、後世、信長を織田氏の嫡流とする系図が創られた。
 
さて、織田氏の先祖には藤原信昌、将広という親子がいたことから、信長は若い頃、藤原姓を称している。1549年、熱田八ヶ村に出した制札には「藤原信長」と署名している。1554年、信長の弟信勝(「信行」の名で知られる)が熱田神宮に寄進した菅原道真の画像にも「藤原織田勘十郎」と記されている(この名乗り方には違和感があるが)。
 
信長はのちに平姓に改めている(1571年、越前白山別山権現に寄進された鰐口の銘文に「平信長」とあるのが初見)が、これは源平交代思想の影響とされている。ただし、この思想自体は俗説に過ぎず、真偽は不明である。源姓である足利氏に取って代わる意で平姓を称し、これを宣伝したようだが、これをもって織田氏を平氏の子孫とする根拠にはならない(自称に過ぎない)。
 
信長の文書は、もっぱら「天下布武」の印や、単に「信長」としてあるだけなので、信長自身はさほど出自にはこだわっていなかったのではなかろうか。
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