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兵は拙速なるを聞くも、いまだ巧久なるを睹ざるなり(『孫子』)
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『真田丸』の続き

「真田幸村(実名は信繁、ともういちいち書きたくない)」と昨日書いたのですが、では、なぜ「幸村」なのか、という点については、いまだ確定的な説がありません。

この件は前のブログでも書きましたが、根拠資料を突き詰めていくと、なかなか難しいところに突き当たります。

「幸村」の初出は寛文十二年(1672)に成立した『難波戦記』とされていますが、同書の序文に(別の人が)「寛文十二年(中略)謹言」と付してあるので、遅くてもこの年代までには成立していたと考えられているようです(吟味が必要)。

「幸」が真田氏の通字から採ったことには異論がないと思われますが、「村」の字については、幸村の姉の村松から採ったとする説、幸村の子孫が仕えた仙台藩主の伊達綱村から採ったとする説、あるいは妖刀とされた村正から採ったとする説まであります。

このうち、伊達綱村についてですが、政宗(藤次郎)の曾孫に当たる人物で、仙台藩の第四代藩主になります(伊達氏としては第二十代当主)。父は綱宗で、父子の「綱」は徳川家綱からの偏諱です。

父が強制的に隠居させられたため、綱村は二歳にして家督を継ぎますが、この時点では幼名の亀千代(亀千代丸)です。その後、寛文九年十二月九日(1670年、寛文九年の大半は1669年だが、十二月九日はすでに1670年となっている)、元服して名を総次郎と改め、さらに将軍家綱から一字を賜って「綱基」と名乗っています。

このあと、仙台藩では伊達騒動が起こりますが、綱基が「綱村」と改めたのは、騒動が終わった後の、延宝五年正月朔日(一日、1677年)になります(治家記録)

そうなると、「伊達綱村」が誕生する以前に「真田幸村」の呼び名があったわけで、「幸村」が「伊達綱村」に由来するという説は否定されることになります。

名前に「村」を付ける例は珍しいことではなく、いまの大河ドラマ『軍師官兵衛』の荒木村重を初め、赤松氏にも見られます。後醍醐天皇の挙兵に応じた播磨の豪族が赤松円心で、名は則村です。私見ですが、赤松氏は村上源氏を称しているので、この「村」なのかもしれません。下に付けるのがどうなのかわかりませんが。

伊達氏にも二代目当主に宗村がおり、「綱村」と称したのは宗村に由来するのかもしれません(伊達氏の通字である「宗」を使うと、「綱宗」となり、まだ存命であった父と同名になってしまう)。

ちなみに、伊達氏は将軍から偏諱を賜ることが多いのですが、藤次郎政宗は、先祖で伊達氏中興の祖である政宗(大膳大夫)にあやかって同じ名にしています。また、綱村の二代後は、将軍吉宗から一字を賜り、伊達氏の通字と合わせて「宗村」と名乗っています。先の二代目当主と同じ名となっています。

(信長の父と子が信秀で同名だったり、同名は多くはないが探すときりがない…と前に書きました)

話がそれたので、今回はこれまで。

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