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兵は拙速なるを聞くも、いまだ巧久なるを睹ざるなり(『孫子』)
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「戦国人物紹介」外伝

「羽柴」の名乗りについての考察・6(最終回)

ここでようやく秀吉の話になりますが、主君でもなく、かつ二人から一字ずつ名字をもらって自分の名字にしたというのは秀吉以外に聞いたことがありません(「松前」の例はあやしい)

丹羽長秀は織田家の重臣か
秀吉が「羽柴」と改めたのは1573年のことで、当時織田家の重臣だった丹羽長秀と柴田勝家から一字ずつを取ったと言われています。柴田は信長の上洛(1568年)以降重く用いられ、いわゆる軍団長(方面司令官)とされたのも佐久間信盛(のちに本願寺攻めで成果を上げられず、信長から延々十九ヶ条にも渡る折檻状をもらって追放される)と並んで早い部類に入ります。

一方の丹羽は美濃攻めに功績があり、上洛後も京の行政に携わりますが、以後、少なくとも軍事的には目立った武功を挙げることはなく、軍団長になることもありませんでした(ただし、丹羽は安土城普請などの奉行職をそつなくこなし、信長からの信頼を受けていました)。本能寺の変の直前に準備された四国攻めでも織田信孝(信長の三男)の副将の一人に過ぎません。本能寺の変の際は堺にいましたが、四国攻めの軍が四散してしまい、東上してきた秀吉の軍に加わり、山崎の戦いに参加しました。その後、清洲会議に参加したことから織田家重臣と見なされることが多いのですが、それまでの経歴を考えると過大評価というものです。

「丹羽」の下と「柴田」の上を組み合わせた不思議
もちろん、丹羽が重臣である必要はなく、秀吉と仲が良かったので、一字をもらったという見方も成り立ちます。しかし、それでは重臣筆頭とも言える柴田の立場がありません。二人から一字ずつもらった話は、丹羽とともに柴田を立てた(柴田に媚びた)という内容になっていますが、この話、柴田にしてみれば、「丹羽」の下の字を上に、「柴田」の上の字を下にされたのですから、自分より格下である丹羽の下に置かれたわけです。いままで名前をもらう例を見てきましたが、それからしても納得がいかないでしょう。そして秀吉にしてみれば、あえて柴田の不興を買ってまで元の名字から変える意味がありません。ですが、秀吉が「羽柴」を称したのは歴史的な事実です。どう考えたらいいのでしょうか。

字を替えた可能性
もしかしたら地名に由来するのかとも考えてみましたが、少なくとも「羽柴秀吉」以前に「羽柴」という地名はなかったようです。現在、京都府伏見区に「羽柴」の名がついた地名がありますが、これは武家屋敷の名前に由来するもので、秀吉の「羽柴」が先にあったものです。読みは同じままで文字だけを変えるというのは地名でもよくあることです。「大坂」が「土に返る」を避けて「大阪」に改めたのは有名ですし、「熊本」も元は「隈本」で、「隈」の字が狭い(山に囲まれる)に通じることから、加藤清正が改めたものです。名字でも「得川」を「徳川」、「浮田」を「宇喜多」などに改めた例があります。

羽柴秀吉の前の名前は「木下藤吉郎」ですが、「木下」の姓は母方の姓とも言われ、父は名字があったかもはっきりしません。もしかすると、「羽柴」はもともと別の「ハシバ」で(おそらく「橋場」であって、橋場という地名も名字もある)、丹羽と柴田からこじつけたのではないでしょうか。



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いまも「羽柴」さんはいますが、秀吉の遠戚とは限りません。

ただ、「羽柴」という名字を秀吉が創作したことは事実のようです。


次回から通常版に戻ります。「戦国人物紹介」畿内編。

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